第九十五話 火炎焱燚


 一番初めに異常に気が付いたのは、誰だっただろうか。比呂馬の隣の家の夫婦だっただろうか。それとも、良く差し入れをくれる向かいの老婆だっただろうか。だが、そんな事は些末な違いにしか過ぎなかった。誰の目から見ても、助かるはずが無い病を抱えていた比呂馬が、一晩で病から解放されていたのだから。隠す事は出来なかった。疑心暗鬼の目は、いつ殺意に転じてもおかしくない程に膨れ上がっていたから。

 突然隣人の元に現れた少年は、人々を救う、神からの使者か。それとも闇から這い出た、死の象徴か。

 私はその問いに答えねばならなかった。比呂馬と自分自身を守る為に。だから……自ら、神の使者になる事を選んだのだ。


「烏様。『癒しの手』でどうか、父を救ってください」


「烏様。娘が歩けるように、足を治してください」


「烏様。私の病を取り除いてください」


 何度も繰り返し呼ばれるその名は、もう違和感を抱く事は許されなかった。かつて蹲る私に気が付く事すら無く、与えてくれなかった人々が、今度は私に与えてくれと言う。こんなに都合の良い話があるだろうか。家の中は、御伽噺おとぎばなしのように礼物れいもつで溢れたが、私の心は寧ろ荒んでいった。


「嫌なら、止めてもいい。元々は私のせいなのだから」


 比呂馬は口を結び、行き場のない怒りで身を焼かれそうな私を抱き締めてくれた。私はそのかいなの温かさに、神の使者になった理由を思い出した。私は、人々を救う為じゃない……。比呂馬を守る為に『烏』と呼ばれる道を選んだんだ。

 『癒しの手』を待つ人々は、『烏』の木札を戸口に掛けるようになった。病人や怪我人は、安易に移動が出来ないからだ。それでも私は思う。足の裏に血を滲ませて、私に再び歩ませるのか、と。私はどちらにしろ歩み続ける運命なのかもしれない。ああ、せめてこの身に本当の翼があれば……。


「貴方……雅子みやこさんとこの……生きていたの……」


 何時ものように民家を回る為に歩んでいた時だった。高く澄んだ青空を見上げていた私に、ある女性が声を掛けた。振り返った私の目に映ったのは、瞠目する三十路みそじの女性。この癒刻では見かけない気がする。私の事も『烏』だと知らないようだ。だが、ふくよかな輪郭の彼女は、初めて会ったようには思えなかった。瞬く私に、三十路の女性は深く息を吐いて語り始める。


「覚えてないわよね、貴方がうんと小さい時に会っただけだから。私は昔、貴方の家の近所に住んでたのよ。今は行商人の旦那に嫁いだから、前の家には住んでないけれど。……本当に、貴方だけでも、生きていてくれて良かった」


「……私の両親の事をご存知なのですか」


「ええ、私も昔から貴方の母の雅子さんにはお世話になっていたから。……二人が生きていた頃の村に、私も帰りたい」


 私は息が止まるようだった。忘却の彼方へ記憶すら手放してしまった父と母の事を知りたいという欲求は、前から燻っていた。だが……目の前の女性は、私の両親の死を知っている。うに、父と母が居ない事だけは分かっていたというのに、明瞭な事実で照らし出されるのは、やはり恐ろしかったようだ。私は重たい肺に無理やり冷たい空気を吸い込むと、女性に問う。


「私は両親の事を覚えていないのです。……何があって、自分が助かったのかも。だから、教えて頂けないでしょうか。父と母が何故死んだのかを」


 女性は私の言葉に悲しみで抉られたように、胸を抑える。耐えるように、固く瞼を閉じた後……再び開く。


「いいわ。ご両親の事を知りたいものね」


 女性はその日、何があったのかを知る限り詳細に話してくれた。父と母は私怨で斬殺されたのだと言う。住民達が気がついた時には既に屋敷へ火が放たれていたというのに、原因が分かった理由は数日前から不審な男が一家を狙っていたから。住民達に、父である基明もとあきについて聞き回っていた男が居たらしい。同じ男が血塗れた刀を手に、気を失った私を抱えて、火が回る屋敷から出てくるのを見た者が居たそうだ。


「雅子さんも、基明さんも、恨まれるような事をする人達じゃ無かった。だから、私は今でも何かの間違いだと思う」


 首を横に振る女性を、私は呆然と見つめる事しか出来なかった。思い出せと言うように、心臓が激しく鼓動を打ち自分を揺さぶる。私は焔に照り返される男の顔を……本当は知っているはずだ。刀の柄で殴られた後頭部に、幻痛が広がる。身体に張り付いた恐怖が、あの時のように浅い呼吸を繰り返させる。


「……両親を殺したのは、どんな男だったのですか」


「赤茶の髪をしていたそうよ。……それ以上は分からない。ただ刀を持っていた、と言う事は侍だと思う。侍に恨まれるという事は……基明さんも、元々農民では無かったかもしれないけれど」


 私は赤茶の髪、という言葉に顔を覆った。真実から目隠しをするように。偶然の一致かもしれない。刀を所持している赤茶の髪の男なんて、他にも居たっておかしくない。

 だが……私の記憶は、黒い霞が晴れていく。屋敷に帰ってきた私の前に、現れた焔の色は猛り狂う緋色。鼻を刺激する焦げ臭さと、顔を焼かれるような熱風に異常を理解する。父と母を呼ぶ前に……変わり果てた二人が血の海で倒れているのが視界に焼き付く。ぴくりとも動かない父と母は既に事切れているのが明らかだった。燃え盛る焔に逃げ回る哀れな馬のように、心臓が蹄を打ち付け激しく駆け回る。鼓動のあまりの激しさに助けを求めて、浅い呼吸と共に口を空けて喘ぐ。だが与えられたのは絶望の味。焼け付く苦い灰が唾液と混ざる。

 父と母の亡骸の前に立ち尽くす、焔と鮮血で赫赫かっかくと燃えるような刀を持つ男は私を振り返る。赤茶の髪は緋色に照らされて、焔を纏う鬼神のように禍々しい。それなのに血の気の失せた青白いかんばせの比呂馬は、滅紫の瞳に深い絶望を宿していた。その瞳から一筋流れたのが焔の緋色を吸い込んだ涙だと知ると、私は一片の同情すら掻き消すように咆哮した!


 こんな現実はまやかしだ! 決して父と母は死んでいない!


 内側を焼き尽くす荒々しい炎火えんかは、自ら生み出した忘却のほのおだった。このまま焔へ身を任せ、全てを否定したかった。だが、焔を纏う鬼神のような比呂馬は、狂い泣く私を、父と母と共に焔へ道連れにはしてくれなかった。絶望を宿していたはずの滅紫の瞳は、正気を取り戻したように閃光を瞬いたと思うと、突然私の後頭部は殴られ脳天に火花が散った! 暗転する意識の中……比呂馬の表情を見る事は出来なかった。


「何故、私を……」


 目の前に居るのが先程の女性だと認識すると、青空の下で立ち尽くす自分を理解した。


 何が虚構で、何処までが真実なのか。

 比呂馬に全てを確かめない限り、終われない!


 私はお礼を言うのも忘れ、踵を返し駆け出した! 女性の声が意識の片隅に届く。だが問わねばならぬ言葉に鞭打たれ、早馬のように強く大地を蹴りあげる自分を止められなかった。



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