第六十七話 烏


「なんだコレは」


 旅館に荷物を預けて、皆で癒刻温泉街を歩き始めた頃、私の隣を歩く智太郎がカフェの壁に掛けられた木の板を見つけた。漢字が一文字彫られている木札に、私は首を傾げた。


「飾りなんじゃない……? 」


「飾りにしては気持ち悪いだろ、からすだぞ」


 確かに、よくよく見れば鳥でなく烏だ。棒が一本無い。嫌そうに顔を顰める智太郎に苦笑する。文字は違えど、私達は黒曜……鴉を追ってここまで来たのだ。まるで行動が読まれているようで智太郎の気持ちが分からないでもない。但し、智太郎は単純に妖の、鴉自体が嫌いなんだと思うけど。


「ねぇ、他の店にもあるよ」


「げ。本当だ」


 烏の木札は大小違えど、温泉街の店や家全ての壁に掛けられているようだった。まるで看板が虫か何かのように、智太郎は益々嫌そうに眉を寄せた。


「何かのおまじないなのかな……」


「どんな効果があるかは知らないが……俺だったら絶対につけない」


「二人共見てー! 」


 立ち止まってしまった私達より先に進んでいた美峰達から呼ばれ、駆け寄ると土産屋の店内に飾られた四角い何かを、しげしげと真剣に眺める黎映がいた。


「これ、時計なんだって」


 綾人が四角い何かを指さして教えてくれるが、私には全然時計には見えない。二段の木の箱を棒で繋いだような形の何かには、上部は卍型に区切られており灰が敷き詰められている。下部は引き出しがついていた。香りが店内を包んでいる。……これは白檀の香りだ。私は鴉と金木犀の下で再会した時に感じた香りと、同じ事に気がついた。香りといい、文字といい……鴉に縁が深い場所のようだ。


「これは時香盤で、香りで時を計る道具です。灰にお香の回路を敷き点火すると、いずれオモリを付けた糸が焼き切れて、オモリが落ちると時間を知らせてくれるのです」


 土産屋の、還暦程の女性店員が教えてくれた。


「ああ、寺とかにあるやつか」


「智太郎、知ってるの? 」


「たまに世話になるから」


 智太郎が言っているのは、妖狩りの際の協力者の話だろう。遠距離の任務の際は、泊まらせてもらう時もあるらしい。


「癒刻には、時を計る物には穢れを払う力がある、という言い伝えがあるんです。癒刻時計塔もその言い伝えが関係していると言われています。だから、お嬢さんが着けていらっしゃる時計も御守りになってくれますよ」


 女性店員が私の付けている帯飾りを示す。六角形をした青緑色の帯留めは唯の飾りではなく、本当の時計だ。時計塔だから合わせて付けてきて良かった、と嬉しくなってニマニマと口の端を上げた。


「じゃあ、智太郎もそうだね」


「ああ……」


 智太郎は腕を捲って、文字盤が三角の銀色の腕時計を見せる。例の浴室事件の主犯だけど……腕時計には罪は無い、はず。有るとすれば、寧ろここで罪を償って欲しいというか。


「そう言えば、他のお店にも木札がありましたけど……どういった意味があるんですか? 」


 ちら、と私は土産屋の入口にも飾られた木札を一瞥する。


「烏と書いてある木札ですね。家の外に掛けるのは、この地域の風習なんです。烏は、ゆるキャラにもなってますよ」


「それ、パンフレットに載ってました! カラカミちゃんですよね」


 黎映がパンフレットを開き、丸い形の黒い烏のキャラクターを見せる。時計塔もモチーフになっているようで、お腹に時計がある。頭部にあるピンクのリボンに結ばれているのは時針と分針の羽根で、翼にあるのは温泉マークなのかもしれない。

 女性店員は土産物から、見本品の本を取り出して、説明してくれる。表紙には黒い烏と男の絵が描かれている。


「時計も、木札も、『癒刻の烏ゆこくのからす』が関係してまして……」

 



 遠い昔……ある一羽の小さな烏がいた。親鳥が既に死んだ烏は家々を回り、食べ物を乞うた。しかし、みすぼらしい小さな烏は誰からも相手にされなかった。


 小さな烏を不憫に思った男は、その身に病を抱えながらも烏に同情し、食べ物を与えてくれた。烏は感謝し、その身に宿る力で男の病を治癒した。烏は傷や病を治す力を持っていたのだ。


 烏の力に気づいた人々は烏に謝罪し、私達も食べ物を与えるから怪我や病を治して欲しいと烏に言った。優しい烏は人々を許し、望みを叶えた。烏が見分けられるように、訪れを待つ者は目印に家に木札を付けるようになり、烏は人々を癒す為に家々を回るようになった。


 だが、ある日烏は親鳥を殺したのが、初めに烏を救ってくれた男だと知る。男の裏切りに、優しかった烏は、恨みを抱いた鴉に変化してしまう。鴉は男を人々と共に喰らおうとするが、男が鴉の親を殺してから後悔し、経った時の分だけ腕に刻んだ傷の数を見た。すると鴉は、烏であった事を思い出し、その場から逃げ出した。その時、烏に残っていた良心と癒しの力は溶けて山と混ざった。その山は癒刻山と呼ばれるようになり、鴉を寄せ付けなくなった。




「癒刻温泉は、良い烏が残った結果に出来た場所だと伝えられているんです」


「やっぱり、本当にあいつに関係してるじゃないか……」

 

 女性店員が話終えると、智太郎は顔を顰めて悪態をついた。だけど、私は智太郎に言葉を返す事が出来なかった。


 私は瞠目する眼が乾きを訴えても動く事が出来ず、感覚が隔離していく身体は震えていた。


「男に刻まれていたのは経った年数の傷……つまり時計と解釈されて、癒刻の地域の人は時計を大事にするようになったのです。だから時計塔が出来たのも、昔ながらの時計があるのも、癒刻の人達が時計好きな人が多いからなんですよ」


 女性店員が話す声が、意識から遠く聞こえてくるように錯覚する。意味が、時間差で脳に届く。唯の言い伝えかもしれないと分かっているのに、私の心を抉った。

 黒曜も血の繋がった親を殺され、大切な人に裏切られていた……。黒曜を裏切った男は、そのまま生き永らえたのだろうか。だが、これは唯の言い伝え。男は黒曜に命を奪われていたとしてもおかしくない。黒曜は、彼の裏切りを知った時、慟哭した? 瞋恚しんいの炎に身も心も焼き尽くされた時、裏切り者の男の前で、黒曜が上げたかんばせには、やはり……。


「千里? 」


 青ざめた顔のまま、凍りつくように身体が竦んだ私に、智太郎は手を伸ばす。だが私は身を引き、衝動的にその手を払ってしまった。花緑青の瞳が大きく見開かれ、瞳孔が揺れる。僅かに眉を寄せたその表情は、動揺と驚愕だと理解すると、私は我に返る。


「……ごめん」


 消え入りそうな声で何とか謝罪するも、私は智太郎の顔をこれ以上見続ける事が出来ず俯く。視界の端に、智太郎の手を払ってしまった、自らの震えた右手がちらついた。

 言い伝えの烏に智太郎を、男に私を重ねてしまう。覚悟したはずなのに、咲雪の命を奪った罪を告げた時……智太郎が憎悪に顔を歪ませ、私を拒絶するのが怖い。殺されてもいい程、全てを智太郎にあげられるのに……臆病者の私は、それだけは受け入れる事が出来ない。


「お前、何で……」


 智太郎の気配が近づき、その足が一歩こちらに進もうと、動こうとする。私はそれを意識しない為に、耐えるように固く瞼を閉ざしてしまう。胸元で縮めさせた両手に力が入り、凍えた唇を震わす。


「千里ちゃん、あっちのお店も見に行かない? 」


 その声に瞼を開くと、私を助けるように智太郎との間に立っていたのは、薄く微笑する美峰だった。震える私の手に、両手を重ねる。……私が怯えるように身を縮こませていた事に気づいていた?


「向こうに、袴の貸衣装屋があったんだ。千里ちゃんにアドバイスして欲しくてさ」


 答える前に、美峰は私の手を引き、土産屋から離れる。すれ違う時に智太郎の表情が目に入る。翳りを帯びた銀花の睫毛の奥……儚い光しか感じられない花緑青の瞳は、朧気に白い地面を映していた。何かを私に伝えようとした唇は……僅かな吐息でくうを白く揺らしたのみで閉ざされる。その表情に、私は心臓が乱暴に掴まれたように傷んだ。


「美峰、ガス燈確認してからにしなよ! 」


「黎映のパンフレットで見たけど……土産屋から二本目のガス燈でしょ? 向こうの赤い橋の横で、丁度分かりやすいからもう覚えたって。合ってるよね、黎映」


 綾人と美峰の会話は、意味を持たず耳を通り抜けて行くようだ。智太郎の方を振り返れないのに、先程の表情が目に焼き付いて離れない。黎映は動揺しながらも、頷く。


「そうです、もう覚えてしまったのですね」


「だから先に三人で他の所確認してて。時計塔で待ち合わせにしよ」


「また美峰の暴走癖が始まった……」


「……何の事かな、綾人? 」


 溜息をついた綾人に、美峰はぴくりと片眉をあげ見えない圧を送る。綾人は固い微笑みを作る。


「うん。分かった、二人は行ってきていいから。……智太郎も早くこっちに」


「……ああ」


 私と美峰から離れていく智太郎は足早で、もう一度表情を伺う事は出来なかった。私は胸に重石を抱えたようで、その姿を直視できず、智太郎の歩む足を視線で辿る。三人は歩き始めた。私は智太郎が離れていくにつれて、顔を上げた。やがて、美峰が言っていたガス燈に三人がたどり着いたのを確認した時……美峰は私に振り返る。


「全く……冷や冷やさせるよね」


 振り向いた美峰の左目は……青く円やかに深く輝いていた。表情も先程とは違い、嗤笑を僅かに滲ませたよう。妖の者らしい暗い感情が混じった笑みは見覚えがある。美峰のものでは無い、少し高めの男の声も。私は衝撃を受けて瞠目した。


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