第六十六話 癒刻温泉へ


 ぎゅうぎゅう詰めにされていた身体を解放するように、車外に出ると雪を被った山が見える。凄く近いように見えるのは錯覚ではないだろう。丁度雪も止んだようだ。除雪され歩きやすくなっているアスファルトに降りると、私は伸びをして深呼吸をした。肺の中だけでなく身体の隅々まで、冷えた新鮮な空気が満ちていく様な気がした。瑞々しい木々の苦味と土の甘い香りが混ざった山特有の香りが、雪にすっかり覆われた今の時期でも私に届いた。これが空気が美味しいって事か。その後に硫黄臭が風に乗って混じり、ふぅ、と私の鼻を温めていき、温泉街にやって来た事をしみじみ感じた。


「混んでるね、駐車場……停められて良かった」


 美峰も同じように深呼吸した後、私の傍に駆けて来た。


「そだね」


 駐車場に止められた車の数以上に、観光客が癒刻温泉にはいる。私は夜のリミットが来た時を考え、ドキリとする。


「折角なので、皆さんで少し歩きましょうか」


 私の席の隣だった黎映がゆっくりと降りながら言う。白い空から反射した光が、除雪され隅に追い詰められても、まだ存在感を感じる白い雪塊に反射して、黎映の姿をはっきりと映し出す。こうして並ぶと、私よりもすらりと随分背が高い。車内では感じさせなかったもの。少々疲れた表情を浮かべる端正な顔立ちが、何故か先程とは違い、知らない人に感じられる。車内マジック……? 黎映は後藤に呼ばれ一度運転席側へ回り、ひとまず私は息を吐く。

 私は困惑し、美峰を見つめるが、先程の恋バナの熱も覚めたのか首を傾げて棗型の瞳で見つめ返すばかり。美峰はもう黎映との話題は尽きたかもしれない。助けを求めるように私は智太郎を探すも、綾人が美峰の所に駆けて来るのが確認できただけ。……一体何処に行ったのだろう。

 私はしゅん、と雪よけをつけた草履を見つめる。が、私の肩をぽん、と叩く手がある。私は希望が蘇って振り向くと、白銀のふわふわした髪の少年が見慣れた花緑青の瞳でこちらを見つめていた。私より少しだけ高めの身長にほっと息をつく。私は抑えきれず、満面の笑みで智太郎を出迎えた。


「なんだその、ご主人様を待ってた犬みたいな表情は」


 私の微笑みに、智太郎は困惑を隠せず花緑青の瞳を瞬かせた。


「だって……係が」


 再び、しゅんと小さくなり、私は智太郎の手を握る。

 そう、出発前に『黎映係』という謎の担当を決めてしまったばかりなのである。その担当は私。出発前は私が協力関係を結んだからと意気込んでいたが……実際に黎映と何を話したらいいか分からないのだ。それもあるが……智太郎と少し離れて歩かないといけないのが、寂しい。


「出発前に俺を諭してたのは、千里のくせに」


「そうなんだけど……」


 智太郎は溜息をつく。自分が決めたことなんだから、早く戻れと言われるだろうか……と考えていた私の頭に、肩に触れていた智太郎の左手が触れる。子供にするように、優しく撫でてくれる。掌の温かさに口の端が緩んでしまう。


「まあ、別にいいけど」


 頬を好調させ満更でもない様子で、智太郎も微笑み返してくれた。だけど、『黎映係』は一体どうすればいいだろう。困惑を隠せない私の表情を読んで、智太郎は告げる。


「別に俺たちで係をすればいいだろ」


「それなら一緒に居られるね」


「素直すぎ」


 また口角が緩んでしまう私を見て、智太郎は苦笑する。


「皆さん、後藤殿は暫く残るそうです。休憩を頂きたいとかで」


 私達四人の『来た……』という心の声はいざ知らず。黎映は、呑気な微笑みでやって来る。私の頭を撫でていた智太郎の掌は自然に離れていく。私も智太郎に触れていた手を離す。


「そっか。後藤、どのくらい居るかな……急いでお土産買って渡さないと」


「お前、気が緩んでるぞ」


「そ、そうかな」


 智太郎の鋭いツッコミが私の心を抉る。ごめん、後藤……お土産は買えないかも、と心の中で勝手に謝罪した。


「やっぱり、温泉と言ったら、温泉饅頭ですよね……。まず何処から行きましょうか」


 と、いつの間に持ってきていたのか、黎映は『癒刻ゆこく温泉』と書かれた観光ガイドブックを着物の袖から取り出す。私は……いや、私達は叫びたい。ここに一番浮かれている人物が居る事を!!


「り、黎映……? それは……」


 私が苦笑いで問うと、黎映はガイドブックからようやく目を離し、面紗の下の双眸を丸くする。


「ん……? いや、違いますよ、千里! 皆様に天灯を設置する場所を教えなければならないので、確認していただけですから! 」


 黎映は慌てたように、マップに示された赤い四つの丸印を見せつける。成程、と私は納得し頷いてあげた。楽しみにしている証の付箋が、結構付いていたけれど。


「とりあえず、一番近いガス燈から行きましょう。沢山あるので、どのガス燈か覚えて置いた方がよいでしょうから」


「了解です! 」


 ビシッと綾人が敬礼する。ガス燈担当は美峰と綾人だ。黎映を筆頭に、私達は癒刻温泉通りへ入る。

 キョロキョロと観光客らしく、辺りの景色を物珍しく眺める私。川沿いの通りには足湯が所々設置されていて、温まりながら談笑する観光客がいた。足湯の看板の『傷の湯』という文字が目に焼き付き、金花姫わたし要らずだと関心する。写真でも見た事がある、雪冠を被った瓦屋根の時計塔が真っ直ぐ先から私達を見下ろしている。木製の巨大な時計塔は今も距離があるのに、圧倒的な存在感だ。……あれが、鴉と私が再会する場所。私は息を飲んだ。時計塔の背後から距離が近づくにつれ、木々が明確に見える程に近い雪山が沿い始める。ノスタルジックな温泉街の建物は白の壁に黒の柱で統一されている。各建物に備え付けられた、白地の縦長看板は【旅館】や【温泉まんじゅう】といった黒いレトロな文字が並んでおり、見る者を心踊らせた。温泉街の中央には石垣の間を流れる川が流れ、温泉街を特徴的にしている。雪に覆われているものの、橋が赤いのが下部から分かる。モノトーンに統一された景観の唯一無二の差し色だ。写真で見た二又の形をしたガス燈は鉄飾りの装飾が成されている。ガス燈は橋の上だけでなく道沿いにもあった。私は心が華やぎ、自然に頬が上がって笑みを綻ばせた。


「癒刻時計塔……でかいですね……」


 ガイドブックから顔を上げ、感心したように時計塔に釘付けになる黎映を笑えない。私も浮かれているのかもしれなかった。

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