第四章 雪原ノ心懐編 (せつげんのしんかいへん)

第四十七話 晴雪の中の燈火


 

 足先の悴む寒さの中、私は鏡の前で襟先を持ち裾を揃える。鏡の中には白い長襦袢に藍染めの着物を羽織っただけの自分がいる。浅い眠りを繰り返した、青白い顔の鶯色の髪の少女は目の縁を赤く染め、覇気の無い金の瞳でこちらを見つめていた。それでも瞳孔の一筋の光は、逆境から答えを求める。


 智太郎も私と同じ気持ちだった。その事実の燈火に触れた胸が、鈍痛を伴う熱傷を負いながらも喜びに戦慄する。その反面、絶えず息を潜めていた悔恨の念が、鎌を首筋に突き付ける。

 臆病で卑怯な私の事を、好きだと言ってくれた智太郎をもうこれ以上裏切りたくない。私は智太郎の唯一の肉親だった咲雪を殺めた罪を懺悔しないといけない。孤独に怯える身勝手な独占欲も全て。

 智太郎と共に過ごした十年は、私を、木漏れ日の下で安心する雛鳥のように守ってくれた。だが、箱庭の世界は私の手で終わらせないといけない。智太郎を死の運命さだめから解放し、繋がれた手を離さなくてはならない。共に生きる未来を手放すことを、恐れてはいけない。

 私を切望してくれた、智太郎の潤んだ花緑青の瞳を思い出す。逃げるのは、許さないと言った智太郎を、吐息を奪った唇を、本当は私も冀求 ききゅうしていた。

 お願い。死の運命から救うまでの時間でいいから。もう少しだけ……私の大好きな智太郎でいて。


 私は藍色の着物の襟先を持ったまま、思案していた事に気がつく。外は相変わらず雪が積もっているのだろうか。裾を少し上げた方が良いかもしれない。

 着付ける前に外の様子を見たくなり、障子を少し開ける。真っ白な世界から反射した眩しい陽光に思わず、僅かに腫れた私の瞼を閉じる。恐る恐る、目を開くと外は晴れていた。陽光に一度溶かされた銀世界は硬質化し、煌めいていた。金木犀の木に積もった締雪が、枝をしならせている。冬の季節の僅かな晴雪だった。

 

「お早うございます、千里様」


 冬景色に見とれていた私は、障子裏の人影に驚き指先を引っ込める。桂花宮家の狩人の男の声だった。たしか、普段父様の付き人をしている狩人の一人だ。精悍な顔立ちの三十路の男を思い出した。


「お早う。智太郎はどうしたの? 」


 私より早く起きる智太郎が守り人の任につかず、ここに居ないのはおかしい。雪は僅かに溶け、雪掻きもいらないはず。現れた狩人に、半分確信しながらも問う。


「尾白は急遽妖狩りの任を受けました。本日は私、後藤が代わりに守り人の任につかせて頂きます」


 やはり。妖狩りへ向かう時は、こんな風に突然居なくなる時が多い。人に危害を与える危険な妖は突然現れることが多いからだ。常に命の危険は隣り合わせにある。

 智太郎を想い、私は唇が震える。いや、大丈夫なはずだ。智太郎は強い。妖狩りの後、怪我を負う事さえ稀だ。いつも私の元へ帰ってきてくれるではないか。そう言い聞かせても、震えは収まらなかった。……妖力が暴走して、智太郎がそのまま帰ってこなかったら。

 そんな不穏な考えを頭を振って追い出す。私に出来るのは信じて待つことだ。いつものように。私は、私の役割を果たさなくては。


「分かりました。後藤、今日はよろしくお願いします。着替えたら知らせます。……今日も来られてますか」


「はい、妖に片腕を奪われた者を、こちらで受け入れるとのことです。もうじきに着くと思います。呪いも受けているようです。尾白が任を引き継いだ、負傷した狩人です」


「……すぐに向かいます」


 朝食を食べている時間は無さそうだ。鏡の前に戻り、手早く腰紐を巻く私に、後藤がお盆を部屋に入れる。皿にのせたおにぎりと湯飲みに入れられた緑茶だった。緑茶の湯気が部屋に立ち昇る。


「急ぎだと思い、用意させておきました」


「ありがとう」


 私は受け取り、ラップを剥いでおにぎりを食べる。炊きたての米なのだろう、白くて僅かに甘い。優しく握られた、艶々とした張りのある米の中に、柔らかな南高梅が入っていた。酸味に気を引き締められた気がする。飲み込むと、胃に落ちる感覚に満たされる。少しでも食べれてよかった。緑茶の慣れた苦味と温かさに落ち着きを貰える。急いで着付けを再開し、青と紺の格天井柄に、華紋柄が施された名古屋帯を締める。帯に合わせた半衿はブルーグレーの花のレースにしてある。


「それから、千里様にお会いしたいという方がいらっしゃっております。治療の後に千里様の元にお呼び致します」


 後藤の言葉に私は疑問を覚える。会いに来る人物に心当たりがない。綾人と美峰ではないだろうし……一体誰が。


「伊月家の者でございます。先日の婚約破棄の件について千里様に謝罪を直接伝えたい、との事」


「ああ……父様も言っていた方ね。分かりました」


 別に謝罪なんていらないから本当は会いたくないんだけど、と内心溜息をついたが、もちろん顔には出さない。

 着付けを終え、後藤と急いで向かう。妖の呪いを受けた者が丁度到着したらしい。部屋に入ると、布団に横になった三十路程の男と、共に帰還した二十路程の女がいた。横になった男は右腕が肩からごっそり持っていかれていた。治療は済んでいるものの包帯には血が滲み、顔は血の気が引いており、意識も無い。……嫌な気配が深く埋め込まれている。


「獣の妖に腕を持っていかれました。追い払う際に、牙の呪いを受けたようです」


 女の狩人が私に報告する。険しい顔をしている。共に戦った際防げなかった事を悔いているようだった。もしかして横になる男の狩人に庇われたのかもしれない。後藤とあまり年齢が変わらない狩人は、上役のはず。


「呪いは噛み付かれた肩ですね。視ます」


 私が目を閉じると、男の肩には黒い影が纏わりついているのが分かった。暴れ回る鋭い影は、妖の怨念そのままに男の肩から血肉を食い荒らそうとしていた。私は若葉色に光る自身の生力で影を縛り、強く晴らす。影は初めは私の生力を喰らおうと藻掻いていたものの、強い生力の輝きに耐えられず、崩れるように妖の影が消えていく。そのまま私は男の肩に生力を注ぐ。腕が生えるわけではないが、治りは良くなるはずだ。


「影は消しました。生力も与えたので回復は早くなると思います」


 私が瞼を開くと、安心した女の狩人は頷いた。女はそのまま目を見開く。横たわる男が目を開けたのだ。


「気がついたか、宮本」


 後藤は横たわる男の名を呼んだ。宮本は虚ろな視線を彷徨わせると、唇を噛んで涙を堪える女を見つける。安堵したように微笑む。


「今泉……」


 名を呼ばれた女は堪えられず、涙を零す。


「どうして私の事を庇ったんですか! 宮本さん! 」


「次代を庇うのは当たり前だろ……。無事でよかった」


「私の事より、貴方が気がついた事を喜ばせてくださいよ……」


 複雑そうに泣き笑いをする今泉を見やり、私は我慢できず口を開く。


「智太郎は……大丈夫なんですか」


「ああ……あの妖の血を引く少年か。確かに獣の妖は強いが、あの少年なら大丈夫です。私が腕を食いちぎられた後、獣の妖を花緑青の妖力で撃ち抜きました。獣の妖は瀕死でしょう。少年は妖化、していたようですが」


 宮本の言葉に、私は唇が震える。

 智太郎が無事でも……妖力が暴走してしまえば危険だ。

 翔との戦いで妖化していた智太郎を思い出す。

 あの時は大丈夫だったけど、今回はどうなるか分からない。


「そうですか」


 私が智太郎の元へ駆け付けたところで、足手まといなだけだ。傷は癒せるかもしれないけれど、戦うことはできない。俯く私に、宮本が声をかける。


「金花姫様……救ってくださり、ありがとうございます。少年はきっとすぐに戻ってきますよ」


「私からもお礼を言わせてください、金花姫様。貴方のお陰で宮本さんが意識を取り戻せた」


 今泉も私に声を掛けてくれる。涙を拭った彼女は、戦いから直ぐに桂花宮へ戻って来たのだろう。血と泥と、小傷だらけだった。私は彼女達と違って後からでしか、守ってあげられない。


「気にしないでください、これが私の役割ですから。……智太郎の事を信じて待ちます」


 私は、下手な笑顔を二人に返す。

 いつもは上手に笑えるはずなのに、今日は無理だ。

 私は今泉を再び見つめる。血と泥だらけの彼女も何とかしてあげたい。訴えるように、後藤を見つめると、私の考えてる事が分かったのだろう。頷き返す。


「今泉、とりあえずお前は泥を落としてこい。お前も休息が必要だ。宮本には、他の者を付けさせるから」


 後藤の言葉に今泉は、はっとした様に自身の姿を見る。言われなければ彼女はこのまま宮本の傍に居たはずだ。自身の事を気に掛けている余裕なんて彼女には無かったのだ。


「申し訳ございません……お言葉に甘えます」


「俺の事は気にせんでください」


 ため息をつく宮本の言葉に、後藤は眉を顰める。


「そういう訳にはいかないだろう、お前が一番休息が必要なのだから。……千里様、そろそろ」


 後藤が私を呼び、私に会いに来ているという伊月家の人間の存在を思い出し、溜息をつく。父様ともう話はついているのに、わざわざ私に謝罪をしに来てくれたのだ。無下に帰す訳にはいかないだろう。


「行きましょう。宮本さん、ゆっくり休んでください。今泉さんも」


 私は後藤と共に部屋を後にする。途中で後藤が宮本の為に人を頼み、伊月家の人間が待つという客間へ向かう。足取りは軽いとは正直言えない。


「こんな時に。タイミングが良いとは言えませんね」


 私は後藤の言葉に驚いて振り返る。てっきり父様の側仕えだけあって、堅い人間だと思っていたのに。私と同じ様な事を思っていたらしい。親近感が沸いた。


「そうね、仕方ない事だけど」


 私と後藤は、内心煩わしさを感じながらも、客間へ入る。手早く話を聞けばいいのだ。だが、そんな私の目論見は、客間で待つ男を見た瞬間に打ち砕かれたのだった。


「お忙しい時に、申し訳ございません」


 こちらに頭を下げる男は、頭頂部が黒く、毛先だけが色が抜けてしまったように白い。白髪にしては、声が若かった。男は顔を上げると、面紗をしていた。その奥には爛々と鋭く光る赤い右目があった。左目は恐らく視力が無いのだろう、白く濁っていた。


「伊月黎映りえいと申します。……金花姫様」


 男は面紗の奥で、赤と白の目を細めて微笑んだ。


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