プリズム
鯵哉
春の助言
柔らかい風が頬を撫ぜる。
窓の外に咲きかけの桜が見えて、小さな貝殻のような白い花びらが春を全身で迎えていた。雪柳藤乃はそれを横目に三年C組の教室へと戻る。
自分の机の横にかかっていた鞄を持ち、机の上に置いた。この鞄を持つのもあと数週間。卒業式が来れば、制服も着なくなるだろう。
鞄の中身の空き具合に、ロッカーの荷物でも持って帰るかと振り向いた。雪柳のロッカーは教室の後ろから出た方が早い。
「なに怒ってんだよ」
隣の列の、一番後ろの席。
尋ねられびくりと驚き、固まった。
「怒ってた?」
「今、殺気立ってたぞ」
そこに座っていたのはクラスメート、C組のオカンとも慕われる目白豊。
立ち上がった雪柳を見上げながらも、目白は手を止めようとはしなかった。無人の教室で折っていたらしい。
「なにしてんの?」
「プリント折ってる。生徒会の」
「副会長の座、奪還したの」
「奪ってねえよ。手伝ってんだよ」
三年の三月。C組のクラスメートの殆どは進路が決まり、四月に向けて準備する者、高校のうちに目一杯遊ぶ者、免許を取りに行く者と様々。自由登校になった今、わざわざ学校へ来る三年は殆ど居ない。
目白は勉強ついでに生徒会の後輩の手伝いを。雪柳はロッカーに詰めっぱなしの荷物を取りに。各々理由はあった。
雪柳はロッカーへ向かわせた足を目白の机の前で止め、近くの椅子に座る。
「私もやる」
「ノルマ半分」
「歩合制なの? ブラック企業」
「ちょっと藤乃、お喋りしてないでちゃんと折りなさいよ」
「ゆたかママ、二つ折り職人に転職したら? 今からでも遅くないと思う」
ふふ、と笑いながら雪柳は腕に顔を埋めた後、目白の方を見た。
目白は呆れた顔をして、それを見下げる。
長い睫毛、二重に乗った薄紅のアイシャドウ、大きな目の間を通った鼻筋と形の良い唇。笑ってしまうほどの美形で美人だ。
「なに怒ってんだよ」
二回目の質問。
思わず、雪柳はぱちぱちと目を瞬かせる。
「記念なんだって」
「は? 何が」
「告白。卒業の記念にしたんだって。さっき廊下歩いてたら聞こえた」
「はーん、なるほど」
何度か頷き、目白は漸く手を止めた。
「今日も告白されたんか」
「今日も今日とて」
「お前本当にモテるな。少女漫画のヒーロー並みに」
「少女漫画なら主人公にしてよ」
「最初からモテる主人公がいるか? いるか」
「自己完結しないでよ。話聞いて」
雪柳が起き上がって机を叩く。その振動に大袈裟に驚いた顔をした目白に構わず続けた。
「あれって振られる方は良いよね。こっち被害者でーすみたいな顔して、傷ついたけど前に進みますみたいな」
「まさに主人公じゃねえか」
「それで、断った瞬間に振る方は加害者になるわけ? 好きで傷つけてるわけでもないのに。こっちは向こうの記念の為に、痛いはずの傷をつけに行ってあげなきゃいけないの?」
ずるずる、と握った拳が机を滑って、ぐにゃりと上体を曲げて突っ伏す。
目白は口を開いたが、かける言葉が見つからず、宙を見つめる。アホみたいな表情になってしまった。
目の前で人を振ることにおいて管を巻く美人が、多い時は週イチで告白されているというのはこの学校では有名なことだ。校内外問わず。目白はそれに関して何か思うことがあれば、すごいな、という感想のみだ。周りで羨ましいとか次は雪柳に生まれたいという意見を聞くが、それには同意できない。
「……大変なもんだな」
「今の間で、全然気持ちがこもってないのが分かる」
「俺は人を振ったことが無いから分からん」
「後輩と付き合ってたじゃん……あ」
「あ、じゃねえ」
「目白も振られた側の人か……」
「絶望すんな。同情しろ」
いやそれもどうなんだ、と目白は折り終えたプリントを揃える。雪柳は顔を上げて、机の上に視線を走らせた。
「あ、終わっちゃった。さすが職人」
しょんぼりした顔で称えるので喜ぶに喜べない。そしてこちらも同情するにできないので、何とか解決方法でも探すかと机に頬杖をつく。
「そんなに告白されんのが嫌なら、されに行かなきゃ良いんじゃねえの」
「どうやって?」
「呼び出されても行かない」
「女子の噂の怖さを分かってない。そんなのすぐに広まって明日からハブにされるんだから」
「女子の世界怖え……。普通に彼氏作れよ。そもそも雪柳って好きな奴いんの?」
さらりと聞けてしまうのがクラスのオカン。恋愛話をクラスメートから聞かされることも珍しくない。いや、結構しっかり聞いてしっかりアドバイスしているので、聞かされていると当人も気付いていないのか。
雪柳は視線を明後日の方向へ向けた。居ないらしい、と読み取る。
「それ江長ちゃんにも言われたけど、彼氏作るって何? 錬成でもするの?」
「錬成できたら俺もしてるわ。お前の場合は告白してくる奴から選べるという常人では考えられない選択肢がある」
「好きじゃないのに?」
純粋無垢な瞳。
「他の男といるのは浮気とみなすくらい束縛の強い彼氏を作れば、雪柳は彼氏の所為にして告白されに行かなくて良い。どうだ」
「なんかすごくクズっぽいけど、すごく良いアイディアな気もする。さすがゆたかママ」
「ほら藤乃、彼氏候補選びなさいな」
「ん、どこから?」
「どこ」
明後日の方向へと視線を向けた。考えていなかったな、と雪柳はその横顔を睨む。
「クラスメートはどうだ。ほらこれ席順」
ロッカーの上に放置されていた紙を持ってきて尋ねた。雪柳は渋々それを覗く。
吟味しているのか、どれも嫌なのか、それとも迷っているのか。その時間は長く感じられた。目白の方が。
「ここと、ここ、とここと、ここ」
「候補多いな」
「告白されてない人」
「は……? は?」
「歯? 痛いの?」
「お前、クラスメートからも告白されてんの」
「違うクラスの時とかに」
ボケはスルーされた。それ程に目白は動揺と衝撃に打ちひしがれていた。
目の前の美人はそれは美しい人間だと分かっていたが、ここまで天然記念物だとは。今どきクラスの大半の男から好きだと言われたことのある少女漫画なんて、それこそレッドリストに載るのでは。
いや、そんなの嘘だろと笑い飛ばせたら良いのだが。先程、笑ってしまうほどの美形だと称したが、笑えないほどに変更である。
「つか今言った奴ら、彼女持ちだ全員」
「誠実さ大事」
「ああ本当に」
解決はされていないが、話し合いは終了した。雪柳は立ち上がり、ロッカーの方へと歩いていく。
「あ」
思い出したように声を出した。雪柳は荷物を取りながら振り向く。同じように目白は半身を向けていた。
「俺は?」
教室に降った沈黙に、雪柳は飽きたように荷物を取り出し始める。
「目白は嫌だ」
「告ってもねえのに振られた……」
「だって付き合ったら、いつか終わるじゃん。ゆたかママにはずっとママでいてほしい」
「理由が分からん」
「それにゆたぽん、私の顔タイプじゃないでしょう?」
可笑しそうに笑い、参考書を持って自分の机へと戻る。情緒どうなってんだ、と目白はその背中を見遣った。
すっと伸びる背筋。思えば、この席で雪柳の背中を見る方が多かった。色んな背中を見る中で、一番綺麗な姿勢だ。
雪柳の言う通り、顔はタイプではない。どちらかといえば可愛らしい方が好きで、元彼女もそのタイプ通りだった。そして、雪柳のことは好きか嫌いかで言えば好きだが、勿論友愛の方だ。
「なのに立候補するなんて、目白はお人好しだねえ」
やれやれ、と言ったように雪柳は荷物を詰める。
「人助けだよ」
「卒業記念なんてあと数日だし」
「お前が苛ついてたからだろ」
「愚痴聞いてくれてありがとう。私、傷ついてるって思ってたの」
鞄の口を締めて、雪柳は机に寄りかかるようにして目白を見た。
「傷つける側にされて、自分だって傷ついてるって。でも目白に怒ってるんだって言われて、ちょっと元気でた」
「なんだそれ……」
「バイトあるから帰る、ばいばーい」
目白が止める間もなく、雪柳は教室を出て行った。
なんだそれ。
口に残る言葉を昇華しきれず、目白は窓の外を見る。
「……じゃあ泣けよ」
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