ネトラレジェノサイド

久遠童子

序章

ありし日の約束

第1話 思い出の日々

 十歳を迎えた誕生日の夏。

 その日は、朝から雨だった。

 濃灰色のうかいしょくの空の下、冷たい雨が世界を濡らしている。

 空が泣いてくれている。

 そう錯覚したくなるほどに、僕らの別れはあまりにも唐突にやってきた。


「本当にいっちゃうの!? イヤだよぉ、おいていかないで夏也なつやぁ……っ!」


 目尻に涙を浮かべながら、小さな女の子がしきりにそでを引っ張ってくる。


 引っ越しの報を聞きつけ、あわてて駆けつけてくれた女の子。

 麦わら帽子と白のワンピース。活発そうなセミロングの髪型をしたシズ姉ぇは、いまや泣きじゃくりながら僕を引き留めようとしていた。


 月影静流つきかげしずる

 それが彼女の名前だ。


 毎日お姉さんぶって、笑顔が明るくて、そしてことさら僕に優しかったシズ姉ぇ。

 けれども彼女の顔は、今ではすっかり涙でくしゃくしゃになっていた。

 彼女の悲痛な声を聞きながら、僕はただその小さな手を握り返す。


 ずっと一緒だと思っていた。これまでも、これからも。

 それは決して変わらないものだと信じていた。

 だって僕らは、ただの幼なじみという間柄あいだがらではなかったから。


 ――許嫁いいなづけ


 僕と彼女を取り巻く関係は、互いの将来が約束された関係だったからだ。


「夏也ぁっ、わたしのことお嫁さんにしてくれるって、そう約束したじゃないっ」


 先日あげたオモチャの指輪を、今も左手の薬指にはめながら訴えてくるシズ姉ぇ。

 お互い離ればなれになるなんて、思っても見なかったはずだ。

 それがなぜ、いったいどうして、こんなことになってしまったのか。


「ごめんシズ姉ぇ。約束、やぶっちゃうかもしれない」


「やだ! やだぁ、わたし夏也のお嫁さんになる。夏也と結婚できなきゃヤだよぉ」


「ごめんッ……。ほんと、ごめん……」


 親の取り決めなんて関係ない。

 僕達は純粋に、互いをかけがえのない存在として認め合っていたんだ。

 それを裂かれてしまうなんて、耐えられないに決まっているのに。


「うぅっ、まってる。わたし、夏也がむかえにきてくれるまで絶対にまってるから!」


 ぽろぽろと涙をこぼすシズ姉ぇに代わり、一人の少年が僕の手を強く握ってくる。

 黒の半ズボンにサスペンダー、坊ちゃん刈りの髪型をした身なりの良い男の子。


 親友の孝太郎こうたろう

 彼もまた顔を泣きらしながら、僕との離別を悲しんでくれていた。


「夏也、ボクらは離れてもずっと友達だからな! なにかあったら絶対助けに行くから!」


「孝太郎……うん、ありがとう……ありがとうっ。僕たちは一番の親友だもんなっ」


「もちろんだとも! キミが戻ってくるまで、公園の秘密基地も必ず守っておくから、安心してくれよな!」


「さぁ坊ちゃん、お急ぎくださいませ。ご両親も既に新居でお待ちしております」


 送迎係の運転手が、慇懃いんぎんに申し出てくる。

 僕達三人は、泣きながら離れるしかなかった。


「夏也ーッ! わたし、必ず毎日お手紙書くから! 電話だって、絶対に……!」


「すぐにそっちに遊びに行くから! 忘れるなよ、ボクらはずっとライバルだからな!」


 二人の声が響く中、僕は豪華なリムジンに乗せられ住み慣れた都心を離れていく。


 後部座席から眺める故郷は、またたく間に遠く離れていった。


「またね……シズ姉ぇ、孝太郎。僕……新しい街でもきっとがんばるからっ」


 いつか故郷に戻ってくることを誓いながら、リムジンのソファーに身体を丸めてうずくまる。


(はぁ。なんだか、すごくいやな気分だな)


 運転席とは隔てられたリムジンの後部座席。


 柔らかなクッションに身をゆだねねながら、乗り慣れた快適空間は不思議ときょうに限って落ち着かない。


「ん……?」


 異臭を感じて顔を上げると、座席のあちらこちらから突然煙が吹き出していた。


(な、何だ? 火事!?)


 いつの間にか車内に立ちこめていた真っ白いガス。

 それは濛々もうもうと立ち込めながら、足下からゆっくりと迫ってくる。


「うわっ! な、何だよこれぇ!? 運転手さんっ、運転手さん! た、たいへ……ん……」


 続く言葉を、僕は発することができなかった。

 煙で苦しかったからではない。

 それとは別に、猛烈な睡魔すいまが全身を駆けめぐったからだ。

 身体がだるい、力が失われていく。

 突然のでき事に錯乱状態さくらんじょうたいになり、何の対応もできないまま急激な睡魔に襲われ――


 そして僕は、意識を失った。

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