空に浮雲、花つばき

朝羽

壱、

              

 雑木林の間を縫うように、峠に向かって歩を進める男がいる。

 日輪の位置は南天からやや西にある。枝葉の間を通り、たまゆら揺れる木漏れ日が眼にまぶしい。頭上を覆う緑陰が途切れると、強い陽の光が容赦なく照りつける。編み笠を目深にかぶっているので、直接頭を日照にさらさずにすむが、そうでなければとうの昔に倒れ伏していたかもしれない。

 だが、だんだん息を吸うのも億劫になってきた。初夏の照射に温められた土の匂いと草いきれにむせそうだ。

「いかん……めまいがしてきた」

 泣き言が口をついて出た。

 胸中での弱音を外に吐いてしまったのは、やはり、限界が近づいている証拠かも知れない。

 この峠を越えれば、あと三里ほどで宿場につく目算である。日暮れに間に合えば上々だ。

 だが、男の足取りは重かった。もう丸二日、水以外のものを口にしていない。腹部はしきりに空腹を訴え、切なる声を上げている。

 いっそ背と腹の皮がくっついてしまえば楽なのかも知れぬ、と埒もない考えが頭を掠めた。

 男の額にはいくつも汗の玉が浮き出ている。梅雨もあけたこの時期、身にまとう墨染めの雲水服は拷問にも等しい。皮膚と肌着のあいだがじっとりと湿っているが、たまらなく不快だった。

 その、黒装束。頭を覆う、網代笠あじろがさ。首に頭陀袋ずたぶくろ手甲脚袢てっこうきゃはんにわらじばき。その手に錫杖こそないものの、男は一見、行脚の途上にある仏僧のように見えた。

 ばさばさと、樹上から鳥が羽ばたく音がした。それにつられたか、男はふと顔を上げる。

 笠の下からのぞく面はまだ若かった。ひょっとすると、まだ青年の域を出ないかも知れない。

 人目を引く面構え、と表してよかろう。決して美男子とは言いがたく、伸び放題の不精ひげもあいまってむしろ武骨と表現するほうが近い印象なのだが、どこかしら憎めない印象があり、よくよく見てみれば愛嬌があった。

 上背もかなりあるが、細身ではない。長年放浪してきたことを物語る、立派に引き締まった体格の持ち主だ。腹を押さえ、前かがみになってさえいなければ、それなりの風格もあったかもしれない。

 ――僧と思しき男は、名を弥雲やくもといった。

 国を上げて陣取り合戦が盛んに行われているこのご時世、いまだ泰平の世にはほど遠い。だが、天は高く、空は青い。

 その眩むような蒼穹をじっと目に写し、再び地上に目線を戻したとき、弥雲は足を止めていた。

「……無常な」

 思わず口にしていた。

 すぐそばにある木立。その一本の杉の下、濃い葉陰に隠されて、野ざらしになった武者の姿があった。古めかしい鎧を身につけ、幹にもたれるようにして眠っている。もはや目覚めることはない眠り。

 黄泉路へ旅立ってから幾歳たったのか、もはや骨だけとなった頭蓋に、髷をとかれたざんばら髪が張りついている。うつろとなった眼窩に虫が這っているのが、哀れだった。

 昔、このあたりで戦があったとは聞かない。もしや追っ手を逃れてきた敗残の徒であったのだろうか。ここで力尽きたのか。それとも、この場で追っ手に斃されたか。鎧に突き刺さった数本の矢から、そう想像することはできる。当て推量に過ぎないが、大きく違えてはいまい。

(さぞや、無念であったろう)

 弥雲は胸の内でつぶやき、短い黙祷の礼を死者にささげる。

かがんで、ふと気づいた。骨だけとなった指が、なにかを握りしめている。

「許せよ」

 一言詫びて、弥雲はその指を剥がした。屍が握りしめていたのは、武士の命ともいうべき刀ではなく、黄楊つげの櫛であった。幾本か歯は欠けてはいたが、表面の大輪の華の意匠はくっきりと鮮やかだ。最期まで手に握っていたのだ、よほど大事な物に違いない。妻か子か、あるいは郷里に残してきた想い人の忘れ形見か。

「これはおれが預かる。然るべきところにて供養するゆえ、成仏されよ」

 櫛を懐にしまい、弥雲は、再び峠への道を歩き出した。



              二、


 はるか東の空を旋回していた鳶が、高く高く嘶きを上げる。聞くものの耳をとらえ、その姿をどこまでも目で追いたくなる、口笛にも似た独特の高音。

 薄雲を吹き散らしていた風がそれにつられたか――、向きを変えた。

 弥雲は足を止める。

 ふと今、なにかが聞こえた気がしたのだ。空耳か、そうも思ったが、なぜか心に引っかかる。しばし思案した後、弥雲はそちらの方角へ踵を返した。

 密集した木立をぬけ、低木の茂みをかき分け進むと、ほんのわずかひらけたような空き地に出た。右手は急な斜面になっており、比較的大きな岩と岩の間を、杉や松などの根っこが這っている。その斜面の下方に、見慣れない生きものの影があった。

(狐の、仔……)

 濃褐色の体毛に覆われた、四本足の獣。顔を伏せ、うずくまるようなその姿。理由は、とよくよく目を凝らしてみれば、その後ろ足の一本がひと抱えもありそうな岩の下に隠れている。

「もしや、足を挟まれているのか?」

 つぶやく声に、狐はこちらを見つめた。潅木をまたいで現れた弥雲の姿を目にし、威嚇の唸りも、媚びるような訴えをあげるわけでもない。ただじっとこちらを凝視している。

(畜生といえども、なかなか肝が据わっているとみえる)

 少し感心して、弥雲は屈んだ。足を押しつぶしている岩をどけてやろうと思ったのだ。しかし。

 ――ぐううう。

 訴えは己の腹から発せられた。奇妙な沈黙が、その場に落ちる。

 先刻よりも差し迫った要求に、伸ばした手の動きが固まった。



 かたや、空腹にあえぐ男。

 かたや、足を挟まれ身動きの取れない狐。

一瞬にして捕食者と非捕食者の立場になりかわった両者は、無言で睨み合った。あるいは視線の中ほどで、目に見えぬ火花が散ったかも知れない。

 互いに一歩も譲らず、ただいたずらに時だけが流されていく。地に伸びた影が、わずかにその長さを違えた頃、視線を外したのは男のほうであった。

(負けたな)

 素直に己の敗北を認め、弥雲は救出のための動きを再開する。

 空腹でふんばりがきかない今、岩がさほど大きくなかったのは幸いだった。やはりこのまま捨てておくのは忍びない。

「運が良かったな、狐っ子。おれはいま猛烈に腹が空いていて目が回るような思いだが、おまえさんの度胸に免じて見逃してやる。おれの気が変わらんうちに、さっさとゆけ」

 障害物をどけてやると、狐は傷ついた足をそろと動かし、意外な強靭さを発揮して立ち上がった。まだ血も凝固していない傷口を見せ、後脚をがくがくと震わせつつも、やはりうめきも漏らさない。

 大した奴だ、と胸中密かに賞賛する弥雲である。

 狐が顔を上げ、物言いたげに彼を見た。怯えるでもなく、かといって吠えたてるでもない。ただ静かな、それでいてなにか訴えかけるような眼であった。

 てっきり、これ幸いと身を翻し、すぐにでも視界から消えてしまうだろうと思っていた狐がいつまでも立ち去らないことに、弥雲は首を傾げる。しかし残念なことに、彼には獣の思念を解する能力はなく、この狐が何を望んでいるのか、視線だけではその意図を汲みとれなかった。

「何をしている? 疾く、行け」

 人語が通じるわけもなかったが、弥雲はそう言ってみた。すると狐はまるでその言葉を理解したかのように、ふいにこちらに背を向け、後脚を引きずるようにして歩き出した。

 素直に去っていくその姿を見送り、弥雲もまたやれやれと踵を返す。少し惜しい気もしたが、仕方がない。

 一刻も早く人里を目指すしか、道はなかった。



 そして、寸刻ののち。

 峠を下った坂道の端で、うつぶせに倒れた仏僧がひとり。

(いかん……立てん……)

 弥雲である。

 情けない話だが、小石にけつまずいて倒れたっきり、立ち上がれなくなってしまったのだ。どうやら先ほど狐を助けるために出したのが、最後の膂力だったらしい。なんとか両の手でふんばって体を起こそうとするも、力がまったく入らない。全身が動くことを拒否しているような感じだ。

 もう動きたくない。じっとしていたい。

 本能はそう訴えるが、ここで伸びたままでは確実に餓死だ。己の身が、屍肉を食らう鳥たちの腹におさまるのはぞっとしない。

 だが無情なるかな、じりじりと時だけが過ぎて行く。地面に対して平行に寝かせた頭は重く、徐々に思考まで鈍ってきた。両のまぶたはとっくに閉じている。もういっそこのまま身も世も捨ててしまおうか、と投げ出しかけたとき。

あにさん、何やってんの?」

 真上から声が降ってきた。同時に、ふっと顔のあたりが翳った気がする。

 誰かがこちらを覗き込むようにしているのが分かって、弥雲はまぶたを半分押し開いた。

だが、焦点は定まらず、視界がぼやける。うめくように答えた。

「……見てわからないか」

「這いつくばったイナゴの真似?」

「…………行き倒れだ」

 相手はくすくすと笑った。声は娘のものだ。まだ若い。童かもしれない。

「お腹すいてるんでしょ? これ食べる?」

 がさがさと音がした。弥雲が無理やりこじあけた目の前に、ささの葉に乗った握り飯が二つ差しだされる。

 それを目にした瞬間、火事場の馬鹿力というものなのか、弥雲はがばと跳ね起きた。握り飯を掴んで、かぶりつく。噛むのも惜しいという勢いで、なかば飲み込んだ。危うく咽喉につまらせかけたところへ、用意のいいことに娘が「はい」と竹筒を差し出す。礼も言えぬまま、とにかく水を嚥下した。

 小ぶりではあったが、わずかに塩味の強い握り飯は舌に心地よかった。すべて平らげ、腹が満たされた弥雲は、最後に「うまい」と感想でしめくくり、そこではじめて己の恩人に両膝をそろえて向かいあう。

「助かった、かたじけない」

 笠を取って、深々と頭を下げた。短く刈り込まれてはいたが、そこには黒々とした髪がある。

 剃髪していないことに驚いたのか、相手は少し目を見張った。

 小柄な娘であった。年のころは十五、六か。女童と呼ぶには無理がある。だが「女人」と言い表すのも違和感がある、そんな年頃だ。紅花で染めたらしい小袖からのぞく手足は白く、華奢だ。見目は悪くないが、器量良しとも言えない。どこの里にもいるような、普通の娘だ。だが、なにか――どこか奇妙だった。

 一つ気づいたのは頭髪だ。背中で束ねているらしい腰までの長さのそれは、ほんのわずか赤みがかったような珍しい色をしている。だがこの違和感は、姿形なりを見て覚えたものではなかった。奇異に感じるのは娘の内だ。

 弥雲が胸中で首をひねっているとはつゆ知らず、

「礼ならあたしじゃなくて、あそこのお地蔵さんに言いなよ」

 娘はそう言って、右手を差し上げた。その指すほうを見てみれば、なるほど峠の坂道の頂きに石地蔵の姿がある。

「まさか、今のは供え物か?」

 驚いて尋ねると、娘は「そうだよ」とまったく悪びれずに答えた。むしろ胸を張るような勢いだ。弥雲がわずかに眉を寄せると、娘は慌てたように言を継ぐ。

「あ、もしかして兄さん怒った? 見たところ、お坊さんみたいだし。供え物に手を出すなんて、ばちがあたる、とか思ってる?」

「……いや、背に腹はかえられん」

 ただ、いつから供えられていたものなのだろう、と疑問に思っただけだ。まあ、そんな瑣末なことはどうでもいいが。

「それにおれは、こんななりをしてはいるが、れっきとした坊主ではないんだ」

 娘は目を丸くした。表情豊かなおなごだな、と弥雲は心ひそかに感心する。

「お坊さんじゃないって? じゃあ、どうしてそんな格好をしてるの」

「このほうが、人里では楽なんでな。警戒されることは少ないし、施しも受けられる」

 沈黙する娘である。意外にせこい、と考えたのかもしれない。

「坊さん、名前は?」

「弥雲だ。弥助の弥に、空にある雲で弥雲。ところでおまえさん、どうしてこんな処にいる? 若いおなごがひとりでうろつくような場所では――」

 ないぞ、と言おうとして、気づいた。よく見ると娘は脚袢と手甲を身につけ、背中には風呂敷の包みまでしょいこんだ旅装姿だ。

 弥雲の問いに、旅人らしい娘はわずかに居住まいを正すようにした。正面に弥雲の目線を受け、こちらを真摯なまなざしで見返す。

「あたしは弥雲を追いかけてきたんだ。助けてもらったから、お礼がしたくてさ」

「……助けた礼だと?」

 弥雲が目を丸くする番だった。呼び捨てにされたが、それを咎める気もおこらない。

 思わず、まじまじと娘の頭のてっぺんから下まで眺めやる。しばし記憶を探ってみたが、まったく覚えのない容姿だった。

「思い違いではないのか? おれはお前さんとは……」

「これ見ても、思い出さない?」

 どこか悪戯っぽい笑いを浮かべ、娘は小袖の裾からのぞく細身の足を、彼に示して見せた。きょとんとする弥雲に、藁草履をはいた左の足首を指差す。赤くなったその部分は、わずかに血の出た痕があった。

「つい先刻あんたが助けてくれたんじゃないか。もう忘れたの?」

 ――先刻だと?

 弥雲は首をひねる。先刻助けたと言えば、思い出せることはひとつしかない。

「まさか……」

「そう。この姿はかりそめ。あたしの本性は狐なんだ」

 弥雲はあんぐりと口を開いた。



 再び、娘の全身を眺めやる。今度は、礼に欠くと思われるほどにじっくりと。その外見のどこを凝視しても、とても狐だとは思えない。弥雲はやれやれと首を振った。

「おれなんぞをかついでも、何の得も益もないぞ」

 無下に決めつける物言いに、己は狐だと言いはる娘は心外だとばかりに頬を膨らませた。

「別にふざけてるわけじゃないよ。いい、わかった、じゃあ証拠を見せてあげるから目をつぶって」

「こうか?」

 弥雲は根が素直なものだから、言われた通りに両のまぶたを下ろした。三つ数えたら目を開けて、と娘は言う。

(一、二、三……)

 双眸を開く。

 果たしてそこには――、

「……たまげたな」

 つい今しがた目前にいた娘ではなく、さきほどの狐の仔がこちらを挑むように睨んでいるのである。

 摩訶不思議な力を使って、人間になりすます狐狸(こり)がいるとは、聞いたことがあった。だが、実際目にしたのはこれが初めてだ。化け狐や化け狸なぞというのは妖怪変化の類であり、弥雲にとって……否、人間の大半にとってもそうなのだろうが、御伽噺のなかでしか聞いたことがない存在だった。

 しかし、存在を確認してしまった今は、信じざるを得ない。先ほど感じた違和感の正体はこれであったのか、と弥雲は合点がいった。

「わかった、おれの非礼は詫びよう」

 己の非を認め、弥雲は降参のつもりで諸手を上げた。狐は満足した様子でうなずき、―――実に人間くさい仕草である――、唐突に身を翻した。後脚で地面を蹴って、身をひねりざま、呆けている男の鼻面を尾でぱしりと叩く。

 不意打ちに驚いて、弥雲は寸刻目をつぶった。いきなり何をする、と文句を言いながらまぶたを開くと、すでに狐は娘の姿に戻っていた。

「ごめんよ。化ける瞬間を見られたくないんだ。集中が乱れるからね」

 悪びれた様子もなく謝罪し、娘はにこりと笑った。

「ああ、やっぱりこのほうが楽だ」

 弥雲は興味深そうに眉を動かした。

「……なるほど、獣の姿では言葉を話せんのだな」

「そう。だからひとの姿でいたほうが都合がいいんだ。あんたと話すにはね」

 ここで弥雲はまじまじと娘の顔を見た。

「ひとつ訊くが……おまえ、雌なのか?」

 娘は何をいまさらという顔で「そうだよ」と肯定する。

「で、どう? これで得心がいったでしょ」

 弥雲は不精不精うなずいた。本音を言えば、いまだ半信半疑ではあったが。

「あたしはそんじょそこいらの獣とは違う。土地神さまの下で修行した、霊験あらたかな狐なんだよ。この足の傷も、その神通力で治したんだ」

 自慢げに言って、えへんと胸をそらす。感心するより先に、疑問が沸いた。

「そんな大層な力が備わっているのならば、岩も己でなんとかできたのではないのか?」

 痛いところを突かれたらしく、相手は「うっ」と言葉に詰まる。

「じ、実はあたし、落ちこぼれでさ。いろいろ修行したんだけど、……その、使えるのは〈治癒〉と〈変化〉と〈蛍火〉だけなんだ」

 この狐、存外嘘のつけぬ性格かも知れない。正直に白状し、身の置き所がないように縮こまる。その姿に、弥雲は笑う。

 ――気に入った。

「おまえ、名はなんという?」

 唐突に投げかけた問いに、娘は目をしばたたいた。

「……そんなものないよ。土地神さまも、修行中一度もあたしを呼んだりしなかったもの」

 基本的に一対一で接するのだから、呼び名など必要なかったというのだ。「おーい」と声がかかれば、狐はすぐさま返事をする。それで充分ことが足りたそうだ。

なるほど道理だな、と納得する弥雲である。

「よかったらさ、弥雲があたしに名前をつけておくれよ」

「おれがか?」

「うん。あったほうが便利でしょ」

「……なんでもいいのか?」

 かりそめに娘の姿をした狐はうなずいた。ふむ、と顎を撫でる弥雲の様子をじっとうかがっている。息を詰め、見つめるその様子は食い入るようであった。天を仰ぎ見た弥雲は思考に没頭し、そのことに気づくゆとりもない。

 しばしの間をおいて、弥雲はおもむろに口を開いた。

「やはり獣といえども、おなごはきれいな名前のほうがいいだろうな。万葉まよ、というのはどうだ? 死んだ妹の名前なんだが」

 死人の名、というところに反応したのか、娘はぴくりと肩を揺らす。

「まよ?」

「そうだ。字はよろずに、葉っぱの葉と書く。太古の歌集の名前でもあるぞ。どうだ、やはり気に入らんか?」

「万葉……」

 かみしめるように再度その名を口にのせ、その音を耳で聞く。とたん、狐の化生は顔を輝かせた。

「万葉――きれいな名前だね! ねえ、本当にあたし、万葉と名乗ってもいいの!?」

 その満面の喜色に、やや驚きながら弥雲は首を縦に振る。

「あ、ああ」

「わあ、ありがとう、弥雲! すっごく気に入った」

 それはなによりだが、と弥雲は頭を掻いた。名前を提案しただけでそこまで大喜びされるとは思わず、少し面映かったのだ。

 しかし、次の娘の言葉には仰天させられるはめとなる。

「気に入ったから、あたし、あんたについて行くよ」

「なんだと?」

 弥雲は目を見張る。なにがどう転んでそんな結論に落ち着いたのか、皆目検討がつかなかった。万葉の言葉には脈絡がなさすぎる。眉根を寄せて困惑していると、なおも娘はこちらに身を乗り出し、

「きれいな名前をつけてくれたお礼と、もちろん助けてくれたお礼! 狐は卑怯だの狡猾だのと言われちゃいるけど、このあたしは、……万葉さまはそんな道理に外れた真似はしないよ。キツネの恩返しってやつさ」

 と言われてもなあ。

 困りきった顔で沈黙していると、万葉はぺろりと舌を出した。

「なーんてね。実は下心があるんだ。あたしさ、実はこう見えても昔……悪名高い狐だったんだ。いたずらとか、悪さばっかりしてね。で、あるとき土地の神さまからお叱りと罰を受けちゃったわけ。『今後、十歳とおとせ悪さをせず、ひとのために尽力すべし』ってね」

 ほう、と興味深そうに弥雲は呟く。

「つまり、十年間人間のために無償奉仕せよ、と?」

「そう。どうせ人間に尽くさなきゃならないなら、弥雲に力を貸すよ。あたしの恩人だし。ねえ、いいでしょ?」

「しかしなあ……」

「言うじゃないか。旅は道連れ、世は情けって。ねえ弥雲、あたしに情けをかけとくれよ」

 必死になって縋りつく姿が、いじらしく思えてくる。諦めたように嘆息し、弥雲は苦笑まじりの顔で、ついに「好きにしろ」と答える。

 歓声を上げ、飛び跳ねて喜ぶ娘の姿を眺めながら、はて珍妙な事態になった、と弥雲は思ったのだった。



              三、


 二人が――正確には一人と一匹だが――その奇妙な屋敷の前に辿りついたのは、西に聳え立つ山の端に、日が落ちかかろうかという頃だった。

 野宿は避けたいと、なんとか日没までに人里を目指して急いでいた弥雲と万葉の前に、古い門構えではあったが、前庭まである藁葺きの屋形(やかた)が、唐突に現れたのだ。

 山間の、森となだらかな丘陵が続く道の途中に家が建っていることも奇妙であったが、一番不思議だったのは、門の正面に立てられた札だった。

眉根を寄せ、その立て札を読んでいた弥雲はぽそりとつぶやいた。

「……うさん臭いにもほどがあるな」

「ねえねえ、弥雲。これなんて書いてあるの?」

 ぴょんと彼の背に飛び乗り、あごをその肩に乗せて万葉は立て札を覗きこむ。しかし人間の使う文字を知らない化け狐に、判読は不可能であった。なにやら蛇がのたくったような形にしか見えない。

 弥雲は薄墨で書かれた文字を睨み、ううむとうなっただけで答えない。

「ねえ、教えてよ。あたし、字が読めないんだ」

「……『この屋敷は無人である』」

「うん。見たらわかるよ。ひとの気配がないもん」

「『ここを通りかかった者は、旅人に限り寝泊り自由。――しかも無賃である』と」

「へえ、やったあ! 運がいいじゃない」

 素直に肩の上で歓声を上げる万葉を、弥雲は呆れたようなまなざしで眺めやる。

「うさんくさいとは思わんのか?」

「そりゃうさんくさいけど。屋根のあるところで寝られる幸せにはかえられないよ」

「万葉、……おまえ、なぜそういうところだけ人間くさいのだ」

 やけに熱心に勧める万葉だが、弥雲はどうにも気乗りがしない。

「無銭だしさ」

「ただより高いものはない、と言うぞ」

「いいじゃない。人里まではまだだいぶあるし。どのみちこのぶんじゃ、野宿になっちゃうよ。弥雲、野宿は好きじゃないんでしょ?」

 確かに、特に好きではないが。

 嘆息する弥雲もどこふく風、「ねえ、ほら行こうよ」と万葉は強引に彼の袖を引っ張ったのだった。



 屋敷は廃屋かと思いきや、なかなかどうして、内側も立派だった。

 造りは農家のそれと似て、土間が広く、部屋数も二つ三つある。土間には甕や釜、使ってくれと言わんばかりの薪や粗朶そだが積まれ、つい今しがたまでまで誰かが暮らしていたような風情である。奇怪なことに、畳の敷かれた座敷には埃ひとつなく、押入れや灯心皿といった家財道具まできちんと備えられていた。

 無賃宿にしては、至れり尽せりと言うほかない。

「普通、ひとの住まぬ家は荒れるものだ。だが、この屋敷は……」

「手入れされてるみたいだよね。誰も住んでないはずなのに」

 広い座敷に上がるなり呟いた弥雲に、きょろきょろと視線をさまよわせていた万葉が同意を示す。

「やはり、いわくつき、ということか」

 きれいすぎて、逆に現実味がない。なにものかが棲息している限り絶対にあるはずの生活臭というものがまったくなく、ねずみ一匹の気配すらない。やはりこの家は尋常ではなかった。

「大丈夫だよ。いざとなったらあたしの神通力でなんとかするから」

 調子の良いことを言いながら、障子戸を開けて榑縁に出た万葉は小さく声をあげた。

「どうした?」

 後ろからひょいと弥雲がのぞきこむと、万葉は己が見ているものを指し示した。導かれるように、弥雲の目がある一点に吸い寄せられる。

庭――正しく言うなら、かつてそうであったと思しき――猫の額ほどの敷地に、一本だけ植木が植わっている。

 赤い、花。

 深緑をした葉との対比があまりにも鮮烈で、弥雲は思わず息を呑んだ。花自体は小さいのに、圧倒するような存在感がある。ひとつひとつの花弁が、まるで切れば血が噴出すのではないかと思われるほど生命力に満ちていた。

 急速に翳りを増す夕空の下、花の色はますます深く、禍禍しさを帯びていく。

この屋敷はあらゆるものが奇妙だったが、中でももっとも異彩を放っているのはこの庭木だと思われた。

「あれは……?」

 花にはまったく明るくない弥雲の記憶に、なにかが引っかかる。万葉は難しい顔でしばし沈黙し、じっと木に目を注いでいる様子だったが、弥雲の問いには振り向いて答えた。

「椿だね。より正確に言うなら、ヤブツバキ――でも、変だ。今ごろ椿が咲いてるなんて」

「おかしいのか?」

「おかしい。狂い咲きだよ」

 そういうものか、と弥雲は顎をなでる。

「まあ、いまさらおかしいことの一つ二つ増えても変わらんか」

 ぽんと万葉の頭に手を置いて、弥雲は室内に引っ込んだ。彼の背を追って座敷に戻ろうとした万葉は、一度だけ庭を振り返る。

「よっぽど、心残りがあるんだね……」

 その呟きは小さすぎて、弥雲の耳には届かなかった。



             

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