私だけのヒーロー
千石綾子
ミルクマン現る
「おい美紀ー。また牛乳残してんのか?」
斜め後ろから声がする。小学生にしては低いダミ声。ちらり、とそちらを見る。剛田だ。いや、里中君だ。
少し乱暴で声が野太いのがまるでドラえもんのジャイアンみたいで、皆は彼を剛田というあだ名で呼んでいる。
「だってー」
私はうつむいてもごもごと答えるだけ。剛田の顔を見ることもできない。
私が通うのは田舎の小さな小学校。給食はなくて、皆お弁当を家から持ってくる。唯一学校から配給になるのはこの瓶の牛乳だけだ。
しかしこの牛乳が曲者だ。私は牛乳が嫌い。アレルギーとかお腹が緩くなるとかではないのだけれど、この匂いがダメ。
でも、飲まないと帰れないのがうちの学校のルールなのだ。
私は午後の授業中も牛乳とにらめっこをして、皆が帰るのを見送らなければならない。嫌いなものは嫌いなんだから仕方がないじゃない。そう思って涙を浮かべて座っている。そんな毎日が続いていた。
しかし、去年剛田が転校してきてから、状況はガラッと一変した。
「しょーがねーなー。貸してみ」
剛田は私の机の上の牛乳瓶を引っ掴む。
「ミルクマン、参上!」
そう言って腰に手を当て、銭湯のオヤジよろしく牛乳をごくごくと一気に飲み干した。
──かっこいい!
私のピンチに颯爽と現れて、憎き牛乳を瞬殺してくれる。剛田は私だけのヒーローだ。先生も、見ない振りをしてくれている。こうして今日も私は救われた。
牛乳を飲み干した剛田は、自分の席に戻っていつもの「剛田スペシャル」を再び食べ始めるのだ。それは、食パン一袋とピーナツバター1カップ。実に豪快だ。
友達は羨ましそうに剛田が豪快にパンを食べるのを取り巻いて眺めている。
あっという間にパンを平らげると、自分の牛乳で最後のパンの欠片を流し込む。それがこの教室の風物詩になってきていた。
しかし、そんな日はある日突然終わりを告げた。
「里中君が転校することになりました」
その日、教室には剛田──里中君の姿はなかった。教頭先生の息子の祐二君が「ナイショだぞ」と言って皆に話してくれた。
里中君は、虐待にあっていた。所謂ネグレクトだそうだ。施設に入るため、もっと都会の学校に転校するらしい。
離婚して若い男と住み始めた母親は、少しずつ息子の面倒を見なくなっていったという。
彼が小学生になったころには食事も与えられず、新聞配達をして自分の食費を捻出していた。弁当なんて、勿論作ってもらえるはずもなかった。
「剛田スペシャル」と言われ羨ましがられていたあのパンも、安くお腹いっぱいになるためのものだったのだ。
居てもたってもいられずに、同級生たちは休み時間に学校を抜け出し、剛田の家へと走った。古いアパートの玄関には車が停まっていて、後ろの席に剛田が座っていた。
「よー。見送りに来てくれたのか?」
相変わらず飄々とした様子で、剛田はにかっと笑った。
「美紀。いつも牛乳もらってありがとな」
我慢できずに涙がぼろぼろと零れ落ちた。食べるものにも困っていた剛田にとっては、私の牛乳も大事な栄養源だったのだ。
「おいおい、泣くなって。これからは自分で飲むんだぞ」
私は何度もうなずいて、それでも車が走り出すまでずっと泣き続けた。
***
「さ、牛乳飲みなさい」
「えーやだー」
娘が小学校に上がる頃には、彼女も立派な牛乳嫌いになっていた。そんなところまで似なくてもいいのに、と思う。
私自身はその後剛田の言葉を守り、給食の牛乳自分で飲むようになって、今では牛乳が大好きだ。
「ほら、牛乳飲まないと大きくなれないわよー」
「まあ、いいじゃないか。そのうち飲めるようになるさ」
夫が娘の前に置いてあった牛乳入りのグラスをひょいと持ち上げて、ぐいーっと飲み干した。
「ミルクマン参上~!」
「わーい、パパかっこいい!」
時が過ぎ、剛田──いや、夫は今や娘だけのヒーローだ。
了
(お題:私だけのヒーロー)
私だけのヒーロー 千石綾子 @sengoku1111
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