第2話 男の名は武田桜花海軍大尉
梅雨も終わり六月も末だというこの時期は、朝から湿気が容赦なく人々の身体を包み込む。
男は甚兵衛を脱ぎ、真っ白なシャツに腕を通して、次に濃紺のズボンに足を通す。そして昨晩の
そしてまた濃紺のジャケットを着て、濃紺の帽子を被る。
そして鞄を持ち、漆黒の革靴を履く。
玄関を出ると隣のおばさんが箒で廊下を掃いている。
「あら、将校さん。出勤?」「はい、行って参ります。」
そう挨拶して団地の出口に足を向ける。
団地から出て都電に乗り、暫く列車の揺れに身を任す。
そして「霞ヶ関〜、霞ヶ関〜」と車掌の伸びた声を合図に、停止した都電から洋装の男達がゾロゾロと出てくるのに合わせて、その男も都電を降りる。
数分も歩かない内に、濃紺のセーラを着て銃剣を持って門前に立っている水兵が警備している、威厳のある、どころかそれしか無いレンガ造りの立派な建物が見えてきた。表札には金色の文字で仰々しくもデカデカと「海軍省」と書いてある表札が生意気にも掛かっている。そして、もう一方には同様に「軍令部」と書いてある表札が掛かっている。最も、五大国と称せられる大日本帝国の世界三大海軍の一角を占める大日本帝国海軍の表札なので、それほど仰々しい表札でも別に
男が門に近づくと水兵が右手を額に添えて敬礼してきたので、男もまた敬礼する。
そして小さなロータリーを抜けて正面から入ると、中央に赤いカーペットが敷かれた大階段が目に入る。実に荘厳である。
階段を昇り廊下を歩いて一つの部屋の前に立ち止まる。表札には「軍務局」とあった。
扉を開けると先輩上官達がモクモクと煙草を蒸しながら黙々と仕事を始めていた。なので「おはようございます」と大きくも小さくもない声で敬礼し、自分の席に座った。
まず、大角局長(大角岑生、後に海軍大臣等を歴任、昭和十六年に中国で搭乗していた航空機が墜落して死亡)の朝礼が始まる前にザッと今日の仕事を確認する。
無論、仕事のやり方は人によって千差万別だ。朝っぱらから重たい仕事をこなす人も居れば細々とした仕事をこなす人も居る。
男は朝よりも昼や夜の方がよく頭が切れるので、朝は細々とした仕事をこなす。
仕事を始めて十分ほどした頃、「おはようございます、武田大尉」と名指しで挨拶された。
男ー
そして何ということでしょう。柴田はニコニコ、というよりニマニマしながら
「嫁は決まりましたか?」
と聞いてくる。
この柴田は常にニコニコしていて人当たりもいい。そして先程のように、教育係であり上官である桜花にしょっちゅう軽口を叩く。本来なら上官不敬罪でしょっ引かれるところだが、そこまで桜花も鬼ではないのでそんなに気にしていないが、「俺だから良いが、他の上官には気をつけろ。」ぐらいは言う。
そして最大の特徴は異常なほど女にモテることだろう。まさに
まさに文字通りの才色兼備だ。
だからと言ってさっきの「嫁は決まりましたか?」というのは決して桜花がモテないことを揶揄っているのではない。桜花の「嫁を取らない主義」に対する揶揄いである。
実際桜花も柴田ほどでは無いものの、ぶっちゃけかなりモテる。中学時代に貰った恋文は五十は有る。
尤も二人とも本分は軍人なので、色恋にうつつを抜かす気は無いが。
* * *
大角局長の長々とした朝礼が終わり、仕事に戻る。
まず、細々とした配置転換に関する書類を片付けていく。そして十時程になればそれらも片付いてきて、ガッツリとした仕事に取り掛かっていく。
今取り掛かっている仕事は「次世代ニ於ル海軍用兵基本骨子」と言う文字通り次世代を見据えた海軍軍備の改革であり、日露戦争からの旧態依然な態勢の打破を目的にはしているが、所詮は若造の一大尉の意見具申。抜本的な改革にはならないかもしれない。
だがこうなるという確信は確かに桜花の経験に裏打ちされている。
具体的に言えば、海戦に於ける砲撃の重要性の相対的低下と対潜兵器の向上の必要性、そして航空機の可能性について考察したものだ。
「武田大尉、英国から国際郵便です。」そう言って事務局の下士官が封筒を差し出して来た。
「ご苦労。」そう言って受け取ると直ぐに封を開ける。
「凄いですね、しかも海軍本部直々じゃないですか⁉︎」隣の席の柴田が興味津々に覗いてくる。「全く凄いですね。三十路手前でそこまでの情報網を築き上げ、報告書のレベルも極めて高いのですから。」「全く上層部は評価してくれないがな。」「そんなことないですよ。少なくとも僕は尊敬しています。」「おお……」
思わず感嘆詞が漏れた。柴田との関係は他の人から見れば桜花が完全に舐められているようにも映る。だからこそか、こういう時にしっかりと敬意を表してくれる柴田はありがたい奴で、ぶっちゃけ無礼な態度にも目を瞑ってやろうと思う。
只、部下に対して甘いだけなのかもしれないが。
「ただ、何故か嫁が来ない。」
訂正、あんまありがたく無かったわ。
* * *
昼休み、食堂で桜花は柴田と飯を食おうとしている。
「焼肉定食焼肉抜きで」「あいよ」
そう言われて出て来たのは白米と味噌汁とお新香である。「毎日毎日これで飽きないのですか、武田大尉?また何処ぞのラブコメ漫画の主人公みたいな昼食を頼んで。」「うっせえ。こっちの方が得なんだよ。只の白飯一杯で5銭、それに対して10銭の焼肉定食で焼肉を抜いたら5銭引いてくれる。それで味噌汁とお新香付きだ。こっちの方が良いに決まってるだろ。」「うわ、理由もまんま一緒。」「江田島の様に鉄拳制裁でもやろうか?」「ヒェッ、それはご勘弁を。」
お決まりのやり取りをして席に着く。
「しっかしお前も飽きないよなあ、カレー。週一でもウンザリなのによく毎日食えるなあ。」「だって大好物ですから。」「お前の脳味噌、全部カレーじゃないのか?」「はいっ!」「そこは否定しろよ。」
実際、柴田のカレー愛はインドからわざわざ様々な香辛料を取り寄せて自分で作る程にまでなっている。一回食わせてもらったが、なかなかに美味い。
そのまましょうもない話に花を咲かせていると、「おい武田と柴田、これに目を通してくれ。」とドサドサ何かを係長が持ってきてそれぞれの椅子の横に置いた。因みにその高さは一人分だけで食堂のテーブル程の高さはあった。
「これは?」と首を傾げると「お見合い写真に決まっているだろ。やはり海軍に居るには身を固めておいた方が良い。」とそう言って係長は食堂から退散した。
暫く桜花も柴田も箸を止めて互いに顔を合わせて沈黙した。
そして、
「春ですね。」
とニヤけながら柴田が言ったので、後でメチャクチャ柴田を説教した。
そして何故か後で係長(しかも一係から三係まで皆さんお揃いで)だけでなく課長からも説教を喰らった。
終いには
「「「「とっとと結婚しろ!」」」」
という最悪な四重奏を聴かされた。自身の権力闘争のために桜花や柴田を有力な家の娘と結婚させたいのは見え見えだった。だからこう思う。
俺が悪いのだろうか?解せぬ。
その日はロクに仕事できなかったのは、言うまでもない。
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