第139話 悪魔の視界
※ AL編139話が先になります。
×××
投げられない日というのは、これまでになかったわけではない。
高校一年生、夏の県大会決勝で、肘を痛めた。
高校二年生、夏の甲子園は準決勝で投げすぎて、指のマメが潰れた。
大学時代に勉学を優先し、投げない日もあった。
だが投げない限界というものはある。
他のピッチャーは先発で100球も投げれば、完全に次の日はノースローにすることが多い。
むしろそれが現在では、一般的な調整だろう。
だが直史は一日投げなければ違和感を感じ、二日投げなければ樋口に指摘される。
三日投げなければボールが行かなくなるのを感じるのだ。
思えばバレリーナなどは、その肉体を保つために、毎日レッスンはしているのだ。
それなのにどうして、ピッチャーの場合は完全に投げない日を作るのか。
そこもまた単純な理由があって、靭帯や毛細血管などを、細かく損傷しているからだと言われる。
ならば壊れない範囲で投げるべきだと思うのだが、ピッチャーが求める球速は、どうしても人体を破壊しなくては手に入らないらしい。
そこまでして、速いボールを求める。
直史が求めなかった、速いボール。
完全にそれを目指していたら、最高速はどれだけになっていたか。
セイバーの計測によると、160km/hには届かない。
それに何より、故障のリスクが高まると言われた。
球速はあくまで、一つの基準でしかない。
絶対的なものではなく、相対的なものなのだ。
バッティングというのは、フライボール革命以降も、タイミングが一番大事だということに変わりはない。
確かにスピードがあれば、それだけタイミングを合わせるのは難しい。
だからこそ直史は、遅いボールを身につけている。
それでも、と思うことはある。
それでも球速の上限があと5km/hあれば、どれだけ楽になったかと。
考えても仕方のないことだ。直史の肉体は、単純な出力を出すのには向いていない。
(大介から空振りを奪うには……)
間もなく試合が始まるであろうが、直史はそれを考える。
ゾーンのさらに深いところに潜るのは、もう危険すぎる。
シーズン最後の打席ならばともかく、それ以外の場面では、それ以外の方法で抑えなければいけない。
考えてみれば去年も、大介を打ち取って後は他のピッチャーに任せている。
限界が近いのだ。去年は肉体の、今年は脳の。
第五戦で勝てなければ、第六戦に投げる覚悟はある。
中二日であるが、先にメトロズに四勝されてしまえば、そこから先はどうしようもない。
第六戦、完投する覚悟で投げる。
おそらく点は取られるが、それも覚悟の上。
問題はメトロズが、どの場面で武史を使ってくるか。
なんとか一点ぐらいは、取れるように計算している。
実際は防御率は1を軽く切っているのだが、それは弱いチームもまとめて相手した時の話である。
アナハイムならば、一点は取れると計算したい。
だが一点だけで、メトロズ打線を抑えられるのか。
むりだろうな、と直史は思う。
よほど運が良ければ、自分ならば出来る。
だがあの深く潜っていく感覚。
あれはもう、出来れば使いたくはない。
直史はこの試合、じっくりと見る覚悟を決める。
なんとかして勝ってくれれば、素直に第七戦に投げることが出来る。
もっとも第六戦でも、途中で勝っているならば、ロングリリーフで投げる覚悟はしているが。
第五戦、メトロズの先行。
直史にはどうしようもない試合が始まる。
大介の一打席目をどうにかしたのは、まずは上出来のスタートだ。
そしてその裏、ジュニアの立ち上がりを攻めて二点を先取。
どちらのチームもスーパーエースを使っていないだけに、この二点というのは大きい。
だがメトロズは、一番の大介から、五番の坂本までが、30本前後は打っているチーム。
もちろん大介はその倍以上も打っているのだが。
二回の表は三人で封じ、そしてその裏にはツーアウトからランナーを出す。
しかしメトロズの強肩守備により、得点には到らず。
三回の表、ランナーが二塁にいる状況で大介。
アナハイムはさすがに、この場面では敬遠をする。
ホームランを打たれたら、それで同点に追いつかれるのだ。
さらに言うなら一塁が空いているのだから、歩かせない理由がない。
もっともこの後のバッターも、メトロズは優れたバッターが多い。
それを上手く抑えられたのは、幸運以外の何者でもないだろう。
試合を見ている直史であるが、全く勘が働かない。
勘とは言うが甘く見てもいいものではなく、無意識における計算から出した結論だ。
だが今日の直史は、全く脳が動かない。
さすがにどういう状況になっているのかは、把握出来ているのだが。
ヒットはかなり出ている。
しかしランナー残塁の場面が多く、得点には結びつかない。
てっきりそれなりのハイスコアゲームになると思っていたのだが、そこそこのスコアで止まっている。
そこからの追加点は、ターナーのホームラン。
そして逆襲の一撃は、坂本のホームラン。
これだけのランナーが出ながら、得点はホームランによるもの。
樋口は守備においては、相手の打球が上手いところに飛んでいると思っている。
だが攻撃に回って考えると、自軍の打球が悪いところに飛んでいると思っている。
要するにどちらのチームも、バッティングは悪いところに飛んでいるのだ。
なのでホームラン以外は、肝心の一打が出ない。
どちらかに運が傾いたら、一気に試合が決まる。
「大介もだけど、坂本にも注意しないとな」
「思い知らされたよ」
樋口はそう言うが、甲子園や神宮大会など、坂本の厄介さは知らないはずだ。
MLBでの経験が、樋口はまだ少ない。
いかに天才的なキャッチャーであっても、ある程度の経験がなければ、勝負を見極めることは難しいと思うのだ。
試合の大きく動くきっかけは、六回の表に訪れた。
先頭のシュレンプを打ち取ったスターンバックが、その場でうずくまってしまったのだ。
どうにか立ち上がることは立ち上がったが、肘に手をやっている。
単なる炎症か、それとももっと深刻な事態か。
(重傷だな)
単に痛みが走った程度なら、うずくまることはないだろう。
ランナーはいないが、先ほどホームランを打った坂本のところで、アナハイムはレナードに交代。
元々そこそこのイニングで、交代の可能性は考えていた。
メトロズのリリーフ陣は、レノンが厄介であるが、それ以外はそこそこ打てるピッチャーだ。
アナハイムはマクヘイル、ルーク、ピアースという七回以降のピッチャーが揃っているが、ピアース以外はそれなりに打たれている。
直史は自分のグラブを持ち、FMのブライアンに歩み寄る。
「ボス、ブルペンに行っておいた方がいいか?」
今日の直史は完全にダメだと、ブライアンは報告を受けていた。
昨日完投したピッチャーを、しかもノーヒットノーランをしたピッチャーを、ここでリリーフとして出す。
それは普通に非常識なことであったし、弱音を吐かない直史が、今日は無理だと言ったのだ。
だからブルペンに行っても、相手に対する示威行為にしかならない。
「今日は投げられないんだな?」
「無理だ」
「……分かった。ブルペンへ行ってくれ」
キャッチボールをしてもらうだけでも、メトロズに対する圧力にはなるだろう。
実際に直史がベンチを出ただけで、歓声が湧きあがった。
ポストシーズンはもう、どれだけピッチャーを酷使できたかで、優勝の行方が決まると言ってもいい。
実際にスターンバックは、ここで壊れてしまった。
もしもあの肘がトミージョンにでもなれば、来年は丸一年投げられなくなる。
今年でFA権を得られたのに、タイミングが悪すぎる。
本当のアメリカンドリームを掴むのは、ここからであったろうに。
おそらく契約を取ることは出来るだろう。
だが本来のスターンバックには見合わない、それも短期の契約になるはずだ。
最近のトミージョン手術からの復帰は、およそ90%を超える成功率を誇っている。
だがここでFAになってしまうスターンバックとしては、一番痛いタイミングだ。
そんなにも今日、この試合で投げてしまった。
普段ならもっと、抑えた投げ方をしていただろうに。
樋口でさえも、その兆候は分からなかった。
一気に限界を超えて、肘の損傷はやってくる。
現在の点差は、3-1とアナハイムのリード。
五回までを投げたので、スターンバックには勝利投手の権利がある。
メトロズを相手に五回を一失点は、充分な数字だ。
ただその賢明さを、第二戦で見せてほしかった。
ブルペンに入った直史は、キャッチボールを開始した。
本当に投げるのかと、ブルペンを見る観客からのざわめきが起こる。
普段の調子であれば、完投した翌日であっても、直史はリリーフで投げていただろう。
だが今日は本当に、どうしてもダメな状態だ。
自分に出来るのは、こうやってキャッチボールで、少しでもメトロズの視線を引くだけ。
あとは樋口が上手く、メトロズ打線を抑えてくれればいい。
だがこれだけランナーが出ていると、おそらく第五打席が回ってくるのではないか。
大介の打席が、あと二回。
勝負を避けるならともかく、もしも勝負をした場合、両方をホームランにされる可能性は、決して低くはないのだ。
代わったレナードは、まず坂本は内野ゴロに打ち取った。
とりあえず六回の表は、三人で終わらせたのである。
大介の五打席目が回らなければ、おそらくは勝てる。
直史はなんとなく、そう直感を働かせてしまった。
(そんなに甘くはいかないと思うけどな)
アナハイムがするべきは、メトロズが点を取る以上に、追加点を取ることだ。
ただ六回の裏は、アナハイムも下位打線に回っていく。
さほどのハイスコアゲームでもないのに、どちらのチームも五打席目が回ってきそうである。
上手くランナーをためた状態で、一発を打てるかどうか。
野球は統計のスポーツであり、確率のスポーツだ。
確かにレギュラーシーズンでは、統計によって勝敗を計算する。
しかし同時に野球は、大逆転のあるスポーツなのだ。
時間制限のないこのスポーツは、ごくまれに九回の裏ツーアウトから、大逆転が発生する。
低い確率の逆転を、0にしてしまうのがクローザーの役目だ。
ただ大介に五打席目が回ると、それはそれで何かの運命なのではとも思う。
直史としては、この試合に投げることは出来ない。
なんとかして勝ってくれれば、リーチをかけた状態で、ニューヨークに向かうことが出来る。
六回の裏、アナハイムの攻撃も、ランナー一人は出したものの、無得点に終わる。
むしろメトロズよりアナハイムの方が、残塁のランナーが多い。
なんというもったいない攻め方をしているのか。
こんな攻撃をしていては、流れは向こうに渡ってしまう。
普段ならなんとなくその流れを感じ、断ち切ってしまうことが出来るのが直史だ。
だがこの試合には、何も感じるものがない。
七回の表、ランナーが一人出れば、メトロズは大介に回る。
七回の裏、アナハイムの攻撃は、一番のアレクから。
試合が動きやすいという、七回の攻防。
それは別に、統計で本当に証明されているわけではない。
だがこの試合に限っては、確かに事実になるかもしれない。
直史はキャッチボールを続ける。
その横ではルークが肩を作り始めた。
レナードが投げるのは、どこまでになるのか。
ここからの投手の運用で、おそらく試合は決まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます