第130話 奇手
リリーフがアナハイムをどうにか抑えて、六回が終わる。
そしてその裏、さらには七回の表と、試合は動かない。
正確に言うと動かせない。
直史が投げていると、メトロズの下位打線ではどうしようもない。
投げている本人と、それをリードするキャッチャーは、それなりに苦労しているのだが。
そして七回の裏、メトロズの先頭打者は大介だ。
三点差となった今、おそらく勝算は0である。
なにせ直史は今年、レギュラーシーズンで32試合に投げて、全てを完投しながら取られた点はわずかに一点。
大介がホームランを打っても、まだ足りない。
この打席にホームランを打てば、もう一打席は回ってくる。
だが打てても一本だろうと、なんとなく感じている。
直史からは一試合に、一本しか打てないだろう。
多くても、という話だ。一本も打てていないのが、これまでの実績だ。
意識したことはないが、直史からは試合の中では、ホームランなど打てていない。
全力で打っていっても、外野フライまでに抑えられるか、今日の一打席目のように、スタンドに入るほどにはボールが上がらないのだ。
今日はここまで、一打席目は上手くスルーを打てた。
結果は無得点であったが、大きなチャンスを作れた。
セカンド正面の打球で、三塁まで向かおうとしたのも、ゴロだったのでスタートを切っていたのが問題であった。
結局はセカンドの好判断で、大介をランナーとして殺したわけだが。
バットをゆっくりと握り締めて、バッターボックスに入る大介。
一打席目はフェンス直撃、二打席目はセンターフライと、とりあえず外野にまでは運んでいる。
だが重要なのはホームランを打つことなのだ。
それも出来れば、相手にリードをされていない場面で。
今さら打っても、もう遅いのである。
だから大介としては、残りの打席を直史を打つための練習に使う。
(つーか勝敗の決まったようなこの状況、歩かされても文句は言えないな)
だが直史は、しっかりと勝負をしてきてくれた。
カーブがストライクとして入ってきて、大介は思わずその軌道を目で追ってしまった。
落ちるカーブをボール扱いにすることが多い審判でも、これはストライクと取っただろう。
打とうと思っていたはずなのに、スイングの始動が遅かった。
余計な力が入っていて、ボールはファールにしかならなかった。
(まだ雑念が入ってるのか)
と言うよりはこの状況、もう逆転は不可能に近い。
ならばもう、打つしかないではないか。
二球目のツーシームは、外に逃げていった。
ツーシームとか思っているが、シュートなのかもしれない。
そのあたりは投げ方は違うが、変化は似たようなものなので、ピッチャーによってなぜそれだけの球種が必要なのか、いまいち分からないが。
(次はアウトローぎりぎりに入れてくるか?)
それでも打てるボールなら、もう打ってしまえ。
投げられたのはスライダー。
昔はこれほど曲がっていなかった、変化量の多いスライダーだ。
並の打者ならこのスライダー単体で、打ち取れてしまうもの。
ツーシームで意識を外に向けて、そこからのスライダー。
内角のボール球になる。
(あ、打てる)
だが大介はそう思った。
体を早めに開くが、まだバットは後ろに残っている。
右足で地面を踏みしめていると、腰の回転でしっかりとバットが出てくる。
右方向へのファールフライではなく、しっかりと打球をフェアゾーンに飛ばせる。
ミートした瞬間、スタンドに届くと分かった。
打球の方向を確認し、バットをその場に置いて、右手を突き上げる。
メトロズの本拠地シティ・スタジアムは、観客たちの足音、叫び、その他諸々により、完全に満たされた。
やっと打てた、と言うべきなのだろうか。
(ボール球だったけどな)
踏み忘れのないように一周して、最後にホームベースを踏む。
ベンチに戻ってくると、手洗い歓迎で肩や背中がバシバシと叩かれた。
3-1と、点差が縮んだ。
ノーアウトから、シュミットの打席が始まる。
二点差なら、ワンチャンスだ。
そう考えながらも、大介はいまいち得点の手応えがない。
(なんだ、このホームラン)
マウンドの直史に樋口が歩み寄っているが、二人とも動揺した様子は見えない。
(まさか、何かを試したのか?)
あるいは次に投げる球が本命で、今の球は見送らせるか、ファールを打たせるのが目的だったのか。
点を取ったという感覚が、体の中に残っていない。
ホームランを打ったはずなのに、手の中に残っている充実感が、全くないのだ。
まるでわざとホームランを打たせたような。
(いや、さすがにそれはないにしても)
続くシュミットが、大介の打ったスライダーを振って、空振り三振。
そしてペレスとシュレンプも、三振と内野ゴロ。
パーフェクトピッチャーから点を取った熱気が、あっという間に冷めてしまった。
メトロズの強力打線を、結局はホームランの一点だけで抑えてしまったのだ。
このままでもあと一回、大介の打席は回ってくる。
だがそれまでに一点取っておかなければ、大介がホームランを打ってもおいつけない。
さらにもう一度、アナハイムの上位打線も回ってくる。
(ここで離されたら本当に終わり……なのか?)
大介はよく分からなくなってきた。
三点差になった時、もうどうしようもないと思った。
それが二点差に縮まったら、まだどうにかなるように思える。
これは錯覚なのではないかと思うが、どうなのか。
八回の表、アナハイムの攻撃が始まる。
本日四打席目のアレクが、三度目の出塁。
ヒットであろうとフォアボールであろうと、出塁は出塁。
だが実際のところ、こういう展開でフォアボールのランナーを出してしまうのは、テンポが良くない。
どんな時でもランナーは出してはいけないのだが、特に一点を返したその直後は、先頭のランナーを出すべきではない。
分かってはいるが簡単なことではないと、大介も承知している。
ノーアウトでアレクが出て、そして樋口である。
またもヒットを打って、一二塁などにされたら、確実に点を入れてくるだろう。
だが樋口はここで、じっくりと待った送りバントをしてきた。
深めに守っていたサードが前進するが、足の速いアレクを二塁で殺せるはずもない。
仕方がないので無理な姿勢でバントをした、樋口を一塁で確実に殺す。
それを見たアレクが加速し、セカンドベースを蹴った。
サードの投げたボールが、山なりのものであったからだ。
だがアレクはその送球を、見ていなかったはずだ。
三塁コーチャーがサインを出したのか。
サードはまだ戻れず、自分がカバーに入らないといけない。
だがサードがボールを捕球してからは、樋口の方に目が向いていた。
慌ててカバーに入るが、移動している野手に対して、走塁するのは難しい。
わずかに送球が乱れて、大介がアレクを止めるのは遅れる。
悪送球扱いになるのだろうが、サードのカバーにはっきり入らなかった自分のミスだ。
ノーアウト一二塁よりも、むしろ厄介なワンナウト三塁。
ターナーが内野ゴロを打っても、外野フライを打っても、おそらく一点が入る。
俊足のアレクがサードランナーなのだ。
痛恨の失態である。
サードがバントのゴロを処理に向かったのだから、それがトンネルした時のためにも、大介はサードベース付近にいなければいけなかった。
アレクが二塁に進んで、樋口がアウトになって、そこでプレイが止まると思っていたのだ。
(あいつが普通の送りバントなんてするわけないだろ)
帽子を被り直して、首を振る大介。
珍しいミスに、味方からの視線が集まった。
細かいミスと言うよりは、アナハイムの走塁が上手であったと言うべきか。
ファーストからの走塁も、大介ではなくサードベースを向かって投げれば、それをキャッチしてアウトに出来ただろう。
大介だけのミスではないが、ベースをカバーしていれば、そもそもアレクは三塁を狙うことすらしなかったかもしれない。
ワンナウト二塁でターナーなら、まだそれほどは怖くはない。
なんなら一塁を埋めてしまっても良かったのだ。
一点をホームランで取ったことで、どこか集中力が緩んでいたのか。
考えたくはないが、そう思うほうが正しいだろう。
(いや、試合自体は確かにもう、負けると思った方がいいんだろうが)
だからといって、自分のプレイにミスが出るとは。
大介のプライドは痛く傷ついた。
ターナーのタッチアップで、アレクがホームを踏む。
一回は三連打で一点、ここはノーヒットで一点。
アナハイムの得点力は、打撃力だけに頼ったものではない。
もしもアレクが動くとすれば、盗塁を仕掛けるのかなと思っていた。
そこに送りバントなどをしてくるから、MLBに染まってきていた大介も、わずかに混乱しただけで。
ベンチでようやく頭を冷やすが、八回の裏もメトロズはランナーが出ない。
直史のボールには慣れているはずの坂本でも、スルーを打ってピッチャーゴロ。
フィールディングの上手い直史は、しっかりと処理してワンナウト。
これはスルーを打たされたと思うべきか。
坂本のパワーならカーブ二球でも、内野の頭は軽く越えられたはずであるのに。
六番七番と凡退して、三点差のまま九回へ。
アナハイムの最後の攻撃は、あっさりと三者凡退。
まるで試合を、早く終わらせることを考えているように。
そしていよいよ九回の裏、メトロズの最後の攻撃は、八番から。
確実に大介に打順は回ってくるが、ランナーがたまっている状態は考えにくい。
大介の前後をどう処理するのが重要だと、直史は分かっているはずだ。
バットを持ってベンチの前に立つが、直史のピッチングにはまるで疲労の色は見えない。
(ホームランを打たれても、いい場面だったとでも言うのか)
まさにその通りなのかもしれない。
外にツーシームを投げた後、懐へのスライダー。
どういう意図なのか、大介にはいまだに分かっていない。
ホームランを打ったことで、逆に迷ってしまうとは。
そしてツーアウトで、大介の打順が回ってきた。
スコアは4-1で、もう勝負は決まったようなもの。
一応ブルペンで投げている者はいるが、これは直史が故障でもしない限り、出番はないだろう。
相手が故障するのを期待するのは、最も愚かな願望である。
直史はなんだかんだ言いながら、故障はあまりないタイプなのだ。
するとしても、故障をしても問題ない場面でしか故障しない。
ダメージコントロールすら、ちゃんと自分で行っているのか。
大介はバッターボックスに入って、打つべき球を見極める。
最初に投げられたのは、シンカーであった。
ふわふわと浮かび、するすると外に流れていく、速度のないシンカー。
場合によっては落差のあるカーブと同じように、ストライク判定をする審判もいる。
だがここはボール球で、大介の期待通り。
速い球を打ちたい。
出来ればスルーを打っておいて、感触を自分の中に残しておきたい。
そう思っていたのだが、二球目もスローカーブが落ちてくる。
ヒットには出来るだろうが、あえて悠々と見逃す。
ストライクとコールされるかな、と思っていたがボールになった。
4-1でアナハイムがリードしているから、メトロズ寄りの判定になっているのだろうか。
試合の趨勢はほぼ決まりながらも、最後に大介の打席が回ってきているため、さっさと帰るということが出来ない。
しかも前の打席に大介は、ポストシーズンで初めて、直史から点を取ったのだ。
レギュラーシーズンの間は、精神的な疲労も避けるため、ある程度はコンビネーションそのままに投げている直史。
だがこのポストシーズンでは、確実に一人一人をアウトにしていっている。
この試合も盛り上がったように見えて、実のところメトロズのヒットは大介の二本のみ。
ランナーとして出たのも、大介とシュミットのみ。
ここで大介がアウトになれば、28人で試合が終わったことになる。
なんとかマダックスも防いだが、直史の球数は、ほぼ100球。
完全に一人で、メトロズ打線を支配している。
もう一本打つ。
大介はホームランにならないボールは、ゾーン内でもカットしていくと覚悟を決める。
それを感じたのか、三球目のツーシームも、アウトローに外れた。
これでスリーボールノーストライクである。
この状況から大介を歩かせても、直史はさほどのダメージも負わないであろう。
ブリアンの時には叩かれたものだが、あのバッシングは異様であったな、と大介も思っている。
大介以外のスラッガーはブリアンと、今年のホームランダービーでその打力を競った。
他のホームランバッターを相手に余裕で勝ちはして、確かによく打つバッターだとは思った。しかしそれだけだ。
直史を打てる者。
ホームランを打った大介でさえ、それを明確に思い浮かべることは出来ないのだ。
(次は際どいところでもカットするぞ)
そう思っていた大介に対する、直史の四球目。
それは奇妙なほどに、力が抜けたフォームであった。
直史は同じフォームから、多くの球種を投げ分ける。
なのにここで、違うフォームで投げてくる。
(なんだ?)
そして直史は、腕の振りさえ変えて、ボールを押し出した。
揺れるボールが、ふわふわと漂ってくる。
(ナックル!?)
高校時代から、投げられることは知っていた。
坂本なども、ピッチャーをやっているころは投げていた。
だが不確実であるから、試合では投げていない。
そんな揺れる球を、ここで投げてくる。
落ちてくるボールだが、これはゾーンを通る。
引き付けた大介はこれをスイングし、そして打ったボールはバッターボックスのすぐ前で跳ねた。
直史がそのバウンドしたボールをキャッチし、ファーストに投げる。
大介は走り出すこともなく、その場にとどまったままであった。
スリーアウト。
第一戦は、アナハイムが4-1で勝利した。
「たまるかあ」
坂本は最後のボールが、ナックルであることが分かった。
なるほど直史にとっては、あれは大介には有効なボールであるのか。
ナックルは弱点も多い球だが、しかし決定的な攻略法もない。
それをまさか、このワールドシリーズの第一戦で使うとは。
マウンドを降りた直史は、そのまま味方のベンチへ。
走り出すことも出来なかった大介は、呆然としながらもようやくこちらへと戻ってきていた。
(ナックルかあ)
これはつまり、あれではないのか。
直史はもう、大介を確実に打ち取る、コンビネーションはないということではないのか。
スルーを打たれて、そして去年には組み立てた果てのストレートもホームランになりそうであった。
ボール球の内角スライダーを打たれては、投げる球がなくなっても仕方がない。
ボールカウントが三つになったところで、これは大介の勝ちかと思ったのだ。
だが今、ベンチでは大介が、釈然としない顔で荷物をまとめている。
(確実に打ち取れる球がなくなったから、確実な攻略法がないナックルを使った)
坂本としてはそう思うのだが、実際に打ち取られた大介は違うだろう。
直史が次の登板をするのは、第何戦となるのか。
それまでにナックル対策を考えなくてはいけないのか。
坂本も、大介も、そしてメトロズ首脳陣も。
鮮烈な印象を残して、アナハイムは初戦を勝利した。
AL編131話に続く
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