第106話 凶暴なインターリーグ
NPBとMLBには確かに違いがある。
それはレベルの違い、などという単純なものではない。
どちらにもそれぞれの国土の特徴が現れている。
簡単に言ってしまうと、国土の広さと人口の違い。
日本は比較的国土が狭く、そして大都市が集中している。
たとえば東京は、政治、経済、文化、そのほとんどが集中している。
上方文芸などというものもあるが、東京でそれが楽しめないというわけではない。
それに比べるとアメリカは、ワシントン、ニューヨーク、ロスアンゼルスが色々なものごとの中心であるが、ヒューストンなどは宇宙関連で有名にもなっている。
大介などが他の土地に試合に行くと、大体の食事はホテルで済ませてしまうが、出身のチームメイトがいた場合、外で食べることもある。
そこで気付くと、ニューヨークとそれ以外では、物価が大きく違ったりもする。
MLBは現在、30のチームが存在する。
メトロズは言うまでもなくナ・リーグのチームであるが、ア・リーグのチームと対戦しないわけでもない。
日本でいう交流戦であるが、同じニューヨークでのサブウェイシリーズを除けば、ア・リーグのチームとは東・中・西のどこかの地区とのみ戦う。
それがおおよそは毎年変わっていくわけだ。
なので去年はア・リーグ中地区と対戦したが、今年は西地区と対戦している。
その最大の難敵と思えるアナハイムには、二勝一敗で勝ち越した。
もっとも直史が投げる試合では、しっかりと負けてしまっている。
七月の残るカードは三つ。
そしてそのうちの二つが、ア・リーグ西地区のオークランドにシアトルとの対戦となる。
「織田さんか」
もちろん武史も面識はあるが、大介に比べると交流は少ない。
以前はイリヤからケイティを介した縁もあったのだが、その筋も絶えてしまっている。
ツインズたちとケイティの間には、それなりに交流があるのだが。
とりあえずまずは、オークランドと対戦する。
去年と今年と、直史に散々な目に遭わされ続けたオークランド。
もちろんここからポストシーズンに進出するなど、全く希望は抱いていない。
ちなみにここまでオークランドは、アナハイムと10試合していて全敗。
これを相手にするなら、メトロズとしてもスウィープで済ませてしまいたいところだ。
オークランドとしても、この罰ゲームには嘆きの声が絶えない。
メトロズが単純に強いというだけでなく、カードにおいて武史の先発があるのだ。
武史はここまで、16試合に先発して、14完投勝ちしている。
負けた試合は交代した後にリリーフが打たれたもののみで、負け星がついていない。
ならば自分たちが、という気迫を持ってくれてもいいのだろうが、武史の現在の球速と奪三振を見たらどう思うか。
直史はMLBに来て、色々な記録を樹立している。
だが届きそうにないのが、奪三振の記録だ。
もちろんやろうと思えば、今よりは多くの三振が奪えるだろう。
しかし重要であるのは三振を奪うことではなく、試合に勝つこと。
そしてその先にあるポストシーズンで、ワールドシリーズまで進出することだ。
それまでに力尽きては意味がないので、あえて三振を取りに行かない。
取れないのではなく、取らないのだ。これは嘘ではない。
現在の武史の奪三振数は、はっきり言って異常である。
おそらく魔球化する中盤以降のストレートが、他の選手には真似出来ないものであるからか。
このカードの前までに、314奪三振。
八月と九月がまだ、丸々残っている。
これまでのシーズン奪三振記録は、ノーラン・ライアンの383奪三振。
実際は19世紀の記録では、500奪三振などという記録もあるが、その時代は今とルールが違うしピッチャーの登板間隔も違う。
「シーズン奪三振だと上杉さんが世界一なんだな」
のんびりと武史は呟くが、アメリカ人はそれを世界記録とは認めない。
ただ一試合あたりの去年の26奪三振は、ちゃんと記録に残っている。
NPBは上杉が半世紀以上も前、もう塗り替えられることはないと思われていた記録を、大幅に更新した。
481奪三振というのがシーズン記録で、二位も上杉の記録になっている。
武史はここまで、最高で357奪三振という記録を持っている。
これにしても21世紀以降では怪物級で、直史はMLBに合わせて中四日で投げていた年も、341奪三振が最高である。
そもそも現代では、300奪三振に達することがありえないが。
直史の場合は完投能力があるため、こんな数になっている。
現在の奪三振数は195個で、これでもア・リーグのピッチャーの中ではダントツの数字であるのだ。
とにかく旧来のMLBファンというか、アメリカ人にとっては、この数年のMLBは日本人選手に蹂躙されるものになってしまっている。
そしてそれを快く思わない者も多い。
アメリカの文化の特徴は、差別と反差別にあると言ってもいい。
黒人の差別問題が一番大きく分かりやすいかもしれないが、どの時代でもアメリカは人種問題を抱えている。
先住民族の虐殺という分かりやすいものもあれば、白人の人種間での差別もある。
たとえば最初はイギリス人が入ってきたが、これはプロテスタントが多かった。
ここにアイルランド系の移民が入ってきて、この間の差別問題というのは、要するに移民問題であったのだ。
さらにこの後、イタリア系の移民が入ってくる。
差別があったがゆえに、マフィアが誕生したという見方もある。
白人間の差別とは違う次元で、黒人は奴隷であった。
その公民権運動は20世紀に積極的に成されるようになったが、今でも頑固に残っている。
差別に対する反差別が行き過ぎると、ルッキズムへの過剰な攻撃となったりするが、ブロンドでグラマーな白人女性はトロフィーという、また違う差別と言うよりバイアスのかかった価値観もある。
同性愛差別やヴィーガン問題など、とにかくアメリカは差別の歴史だ。
その中でもイスラム系に対する差別は激しかったし、ユダヤ系は逆の意味での差別もあるし、昨今は東洋系への差別が大きい。
元は日本の家電製品や自動車が、アメリカの市場を圧迫したことから生まれた日本人差別もある。
第二次大戦中と大戦後も、普通に日本人収容所はあった。
ただ最近の東洋系への差別は、世界で影響力を増す中国系への、差別と言うよりは恐れに近いか。
もっともずっと差別の歴史は、職を奪われまいとする、現実の生活に根付いたものであるのだ。
大介のメトロズでの活躍は、これ自体は歓迎された。
当初こそ本当に大丈夫なのかと言われたが、シーズンが始まれば見たとおり。
とんでもない記録を、どんどんと樹立している。
ただMLBというのはある程度、白人のものだと考えている人間もいる。
もちろん実際には、他の人種も大量にいる。
だがMLBのオーナーを見て、そしてGMなどを見れば、ほとんどが白人だということは一目瞭然だ。
言うなれば現場のブルーワーカーはともかく、首脳陣のホワイトワーカーは、いまだに白人のもの。
そう思い込むことによって、ある程度の沈静はされているのかもしれない。
しかし直史がやってきて、大介はさらに活躍し、それなのにアナハイムに負けた。
アナハイムに勝つための補強は、これまた日本人。
武史はともかく坂本は、本当にセイバーの息はかかっていない。
だが多人種多民族の都市ニューヨークであっても、日本人にばかり活躍されるのは、気に食わないという人間はいるものだ。
むしろニューヨークのように、格差が大きい場所であるほど、そういった差別は発生しやすいのかもしれない。
今年も完全にポストシーズン進出を諦めているオークランドは、実際のところ球場周辺が、それなりに治安が悪かったりする。
治安の悪いところには、差別が存在している場合が多い。
このカードはニューヨークで行われているものだが、オークランドの選手はその土地柄、攻撃的になってしまう選手もいる。
もちろんそれは治安などとは別の、単なる嫉妬であることが本当の原因である。
第一戦、メトロズはワトソンが投げて勝利した。
6-4というスコアはメトロズとしては、おとなしめの点数である。
オークランドはア・リーグ西地区のチームであるので、これとの対戦内容を、アナハイムとの対戦シミュレーションに活かせないものか。
そして第二戦が、武史の先発である。
事件はこの試合で起こった。
序盤は変化球を交えながら、そして中盤に入ればストレート主体で押していく。
オークランドは再建中と言いながら、ベテランが少なくなっているため、試合の勘所が分かっている選手がほとんどいない。
ムービング系であっさりと打ち取られては、そこから奪三振ショーに移行する。
序盤に内野安打が出ていたので、パーフェクトなどをされる恐怖はない。
だがどんどんと三振に取られていけば、フラストレーションがたまってもおかしくないだろう。
それをもっと前向きな方向に使えば、より高いレベルに達せるはずだ。
だが負けているチームは、FMの制御も選手に利いているとは言いにくい。
短絡的になって、空振りしたバットがマウンドに飛んでくるということがあった。
それはもう見事に、ピッチャーに向かって。
幸いと言うべきか、武史はフィールディングも上手い。
グラブでバットを叩き落し、事なきを得る。
しかしさすがに、このプレイにはむっとする。
武史は本来温厚で、直史のように表に出さないまま怒りをためる、ということは少ない。
バットを投げつけられて、怒らない人間がいるとしたら、それはとてつもなく珍しい人間である。
甘い対応をしていれば、舐められるだけというのが当然である。
両軍のベンチに緊張が走る。
既にベンチから足を踏み出している者もいれば、内野陣も駆け寄る体勢である。
投げたバットを取りに来るバッターに、武史は拾ったバットをちゃんと渡してやる。
さすがに笑顔というわけにはいかないし、こういう時に気の利いたジョークなどを口にする語学力はない。
「これで怒らないのは腰抜けだな」
そんなことを言われても、さっぱり理解しないのが武史である。
たださすがに挑発されたのは分かった。
「アイキャンノットスピークイングリッシュ」
武史としては単に事実を述べただけだが、それを挑発と感じたオークランドのバッターは愚かであった。
手が出た。
分かりやすい、振りかぶってからの殴りかかるパンチ。
この程度でキレるのか、と武史はむしろ驚いているのみで、頭の中は冷静であった。
武史よりは背も高く、筋肉も盛り上がった相手のバッター。
だがこういう時の対処の仕方を、武史は知っている。
両手で相手の片手のみを握って、そこから自分の体重移動のみで投げる。
小手返し。ツインズの実験台に、散々投げられていた武史が、初めて自分から使った技である。
転がした相手の腕を、そのまま背中にねじる。これも散々逆の立場で経験してきたことだ。
なおこれを中継で見ていたツインズは、うんうんと頷いていたそうな。
ここで制圧完了と思わないのは、ツインズから別々に技をかけられていた武史ならではの野生の勘か。
視界の中にはオークランド側ベンチから飛び出してきた選手が、踊りかかろうとしていた。
味方もそれを止めようとしているのだが、これは間に合わないかなと思う武史である。
手を離す準備はしていたのだが、相手はなんと蹴ってきた。
いやそれはさすがにまずいだろうと思った武史は、ある意味非情な手段を取る。
「相手に手を出させて、相手に怪我をさせる」
ツインズの教えをしっかり守った武史が、腕をねじったまま後ろに体を倒すと、ねじ伏せられていた選手の上半身も、自然と起き上がることになる。
そこにスパイクのキックが炸裂した。
「あ~あ~」
ひどいなあ、とひどいことを誘発した武史は思ったが、あくまで身を守っただけである。
盾に人間を使っただけで。
顔面を蹴られた選手が、そのまま顔を押さえてうめきながら転がる。
さすがにこの様子に、乱闘の拡大などはありえない。
両軍入り乱れそうになる中、担架が運ばれてくる。
見ればマウンド近辺には、へし折られた歯が散乱していた。
どうなるんだこれ、と武史は思っていたが、まず顔面を蹴られた選手は、当然ながらグラウンドから離脱。
そしてキックの選手も当然ながら退場。
さらに武史にまで退場の宣告である。
「え、俺もなの?」
「逃げとけ。ある程度両成敗にしとかないと、後を引くからな」
大介はそう言うが、これは武史の責任はないであろうに。
事実FMが猛烈に抗議しているが、早口の英語なので聞き取れるものではない。
ただ、それでも争いを好まない典型的な日本人である武史は、顔を真っ赤にするディバッツの肩を、むしろ自分からぽんぽんと叩いて落ち着かせようとする。
「審判が宣言しちゃったらしょうがないでしょ。勝ち投手の権利はもう持ってるし、あとは任せますよ。流血沙汰になってるから、落ち着きましょう」
日本語で言ったので、全く理解されない。
呆れた坂本が翻訳したが、それでもディバッツはFMとして、当然の抗議は審判に行った。
武史のやったことはベンチから見る限りでは、全て正当防衛だ。
バットを拾って渡すところまで、紳士的な振る舞いと言える。
そこから何かを話し、いきなりパンチとなったのだが、それも怪我をさせないように投げただけ。
怪我をさせたのはオークランド側のプレイヤーであった。
審判に対するブーイングの中、素直に退場しようとする武史。
「おまん、怒っとらんがか」
「怒ってはいるけど、蹴られたやつが気の毒でなあ」
ちょっと盾にしてしまったが、極めていた腕を離して飛び退れば、あんな事態にはならなかったと思うのだ。
もっともテレビを見ているツインズは、グッジョブと頷き合っていたが。
恵美理が蒼白になって、二人に電話をかけてくるのは、これから数分後のことである。
後味が悪いと言うよりは、被害のひどい試合になった。
オークランドは一人が入院。折れた歯だけではなく、顔面への激突もひどいものであった。
試合への出場停止処分が下ったが、どうせしばらくはグラウンドには立てなかったであろう。
それにスパイクで蹴った選手は、さすがにやりすぎで出場停止処分に加えて、罰金も払わされることになる。
武史への処分は、とりあえず退場以外にはなかった。
後にのんきに相談したものである。
「ああいう場合、どうしたら良かったのかなあ」
「そもそもなんで相手は殴りかかってきたんだ? 最後に何を言った?」
「お前の言ってること分からんって言っただけだけど」
なるほど、と大介は納得する。
基本的にアメリカ人は、英語が通用しない人間を、人間扱いしない。
なので武史の言葉は、挑発に思えたのだろう。
対話の完全な拒否。
だが少しでも武史を知っていれば、全て通訳に任せて話していることは分かっただろうに。
この後、武史は少しだけ英語の勉強をしなおすことになる。
恵美理は呆れて、その教師役を務めるのであった。
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