第93話 二つの舞台

 五月も終盤に入ってきて、メトロズの人間はだいたい気づいている。

 投手陣の息切れに。

 四月が良すぎた、というのもあるだろう。

 だが平均失点が上がって、明らかに対策が採られてきているのが分かる。

 誰への対策か。

「そろそろあかんか」

 坂本のリードへの対策である。


 現時点でもまだまだ、メトロズの投手陣の平均失点は、かなり良好である。

 四月と合わせた平均値ではなく、五月のみの数字を合わせて、リーグ全体で五位以内には入る。

 ただアナハイムは、まだまだ圧倒的に投手力ではトップ。

 それでもさすがに、あちらもやや平均失点は上がってきている。


 そしてここから半月が問題だ。

 武史を一度、負傷者リストに入れたため、ガクンと投手力が落ちる。

 直史と同じく完投能力に長けた武史は、セットアッパー二枚分近い働きをする。

 ただ休ませなければいけないのは間違いなく、実際に三日ほども完全に休んだ。

 それからもマイナーで調整するのでもなく、自分でジムに通って調整している。

 一人に任せていると無理をしそうであるが、恵美理が付きっ切りで管理しているそうな。

 彼女も高校までではあるが、女子野球をやっていた。

 そして裾野は狭いながらも、天才と組んで頂点を取ったのだ。


 さすがにもう、キャッチャーをすることは出来ない。

 武史の相手はもちろんだが、指を痛めることは出来ないのだ。

 恵美理もニューヨークで、ただ子育てばかりをしているわけではない。

 もちろん育児は重要な仕事であり、責任であり義務であり権利である。

 ただ恵美理には、彼女にしか出来ないことがある。


 天才と呼ばれてかなり大きなコンクールでもだいたい優勝して、そして彼女と出会った。

 イリヤとだ。

 出会う時期が悪かったと言える。

 天才だと言われて、そして音楽家の一家である家族も、それを否定しなかった。

 しかし才能をまっすぐに伸ばす時期に、イリヤと出会ってしまった。


 本来のイリヤの音楽は、その指先から天上の音楽を奏でる、まさに天使の歌のようなものであった。

 だが一部の人間にとっては、悪魔の旋律である。

「この子と競争するの?」

 本当の音楽とは、競争するものではない。

 それに気づく前に、コンクールという競争で優劣が決められてしまった。

 そこで壊れて、ピアノも弾けなくなって、楽器に触れることもなく、ただ死ぬまでの間の時間を過ごしていた。

 彼女とは別の道を歩いて、そして入学した高校で、なぜか野球などをやるようになって。

 そして本当に、なぜか再会してしまった。


 翼を半分奪われた彼女と。

 なぜ天才から、本当の芸術の神の化身から、そんなことをするのかと。

 ズタズタに切り裂かれた自分だからこそ、彼女の価値は分かっていたのだ。

 彼女が捨てたあの世界に、もう一度行こうとは思わなかった。

 その時には既に、恵美理にも新しい世界が開かれていたからだ。

 だが自分が何か、仕事として世界に何かを残そうとした時、最初に思い浮かんだのはピアノだ。

 ガチガチに固まった指の動きを取り戻すのに、随分と時間がかかった。


 お嬢様の片手間と思われようと、恵美理には自分にしか出来ない役目があると思っている。

 それは天才によって心を折られてしまった人間のケア。

 そしての本当の意味の天才など、いることはいるが全てをカバーしているのではないということを伝える。

 イリヤはクラシックを捨てた。

 恵美理も今は、別にクラシックのピアノを教えるだけではない。

 ニューヨークは巨大な街で、教師の仕事も募集していれば、他にも色々と仕事はある。

 恵美理は日本語と英語がネイティブだが、他にも色々と話せる。読むのはラテン語あたりが多いが。

 クラシックから離れても、生活にクラシックはあり、その基盤はラテン語。

 彼女は自分で思っているよりよほど、高いスキルを広範囲に持っているのだ。

 比べる対象が悪すぎただけで。


 そんな彼女は聴覚もだが、視覚にも優れている。

 音楽は舞台に伴ったものもあり、その中ではもちろん視覚が重要な役割を占めるからだ。

 なお意外と味覚は鈍い。イギリス育ちが長かったので。ひどい。

 恵美理の目から見ると、武史の動きが通常時と比べて、どう変化しているのか分かる。

 イリヤは間違いなく天才で、そして天災でもあった。

 ただ恵美理にも、それを感じ取ってしまうぐらいの素養があったのだ。

 

 超自然現象にも近いほどの天才ではないが、その凄さは理解してしまうぐらいの天才。

 恵美理の立ち位置は本来なら、モーツァルトに対するサリエリか、あるいは一歩下がってその才能を応援してしまうタイプ。

 もしくは一方的に敵対する役だったろう。

 だが恵美理は自分で、イリヤを認めてしまったから、そういうことにもならない。

 まして天才はもう、死んでしまったのだから。




「は~い、今日も元気かな~?」

 ツインズは頻繁に、恵美理のマンションを訪ねる。

 それはもちろん、同時に武史の住居でもあるのだが。

 この中では一番のお兄ちゃんは、武史の息子の司朗になる。

 一個下に昇馬、さらに一個下に武史の長女沙羅。

 そこから二つ下に伊里野、里紗、武史の次女玲の三人がいる。

 ここに直史の子供も加えると、本当に田舎の親戚のような、とんでもない人口密度になるわけだ。


 基本的にツインズが子供たちに教えるのは、将来の選択肢を増やす方法だ。

 無理にやらせようとは思わないが、とりあえず色々とやらせてみて、才能と興味の方向性を探すのだ。

 その中で音楽を聞かせるというのは、悪いことではないと思う。

 感覚的な素養と、身体的な素養。

 佐藤家の両親は必死で四人の子供を育てながら、それぞれに何か一つは習い事をさせていた。

 武史とツインズが、身体的な能力に秀でているのは、その教育が基礎にあると言っていい。

 直史のピアノというのも、それなりに指先の感覚の練習になったのかもしれない。


 恵美理はピアノの他にヴァイオリンも、音大に入る程度には弾くことが出来る。

 ただやはり一時期の、完全に離れていた時間が長すぎた。

 天才も研鑽しなければ、凡人の努力家に敗北する。

 かつてコンクールで鎧袖一触、恵美理の後塵を拝してきた子供たちが、今では本職のピアニストになっている。

 才能と努力というのは、それぐらいの関係で丁度いい。

 ただイリヤの場合は演奏技術だけではなく、創造性にも富んでいた。

 ポップスからロックまで、楽曲を作ることが出来たのは、様々な楽器に幼児期から触れてきたからだ。


 イリヤの耳には、天才だと言われる言葉さえ入らず、ひたすらに曲を演奏していた。

 その結果既存の曲に満足できなくなり、自分で作曲をした。

 そこにジャズのレジェンドとの出会いがあり、他のジャンルも包括した音楽家となった。

 27歳で死ぬのは早すぎたのだ。


 子供たちに対して、恵美理が聞かせるのはピアノの音だけではない。

 楽器の演奏としては他にヴァイオリンであるが、シンセサイザーも使う。

 入力方法は鍵盤であるが、電子音楽器だ。

 ギターの音も出せれば、トランペットの音も出せる。

 こういった楽器というか機器を使うのは、恵美理のやっていることがクラシックだけにとどまらないからだ。


 ポップスもロックも、またジャズ調にも弾く。

 結婚してそこそこ長い武史でも、え、こんなことも出来たの、という音楽を奏でることが出来る。

 そのあたり武史は、伴侶の興味に対して、関心が薄い。

 圧倒的に外見と性格だけを見ていて、その才能にまでは知見が及んでいない。

 ただ「ほげ~」と子供たちと一緒にそれをそれを聞く姿は、間違いなく楽しそうである。




 そんな恵美理も理解に苦しむのは、イリヤの高校生時代の興味の方向性だ。

 80年代の日本のアニメソングやサントラに、どうしてそこまで惹かれたのか。

 まあ懐かしの手塚にかなりの責任があるわけであるが、音楽を単体でなく総合芸術の一部と考えた場合、イリヤの目指した方向性は分かる。

 彼女はおそらくオペラをやろうとしていたのではないか。

 基本的に作曲を、自分の頭の中でばかりしてしまうのがイリヤであったが、作成途中の曲などがないわけではない。

 その中には楽曲もあったわけだが、オーケストラの楽譜もあった。

 音楽に関しては好きなことを好き放題に身につけたイリヤは、音楽に関してはあの年齢にして、総合的な音楽家になっていたのだ。

 死んでからなお分かる、その天才っぷりよ。


 子供たちはまだ赤ん坊もいるため、誰に音楽の素養があるかなど、そうそう分かるものでもない。

 ただ音楽に早くから触れさせると、その素養が伸びることは確かだ。

 極端な話、音楽を総合的に体系的に学ぶには、子供の頃からやらなければ遅い。

 途中離脱していた恵美理が高みに届かないのは、それが理由だ。

 だが今は、広い範囲で浅く教えることが出来る。


 遺伝子の成せる技か、まだ二歳にもならないのに、伊里野は音楽のジャンルごとに、異なった反応を見せる。

 クラシックやそうでなくてもスローテンポのメロディーは、静かに聴いている。

 だがロックやポップス、激しいジャズ風味などを聴かせると、腕を振ってリズムに合わせているのだ。

 また他には、息子の司朗がやたらと、弾いてほしいとねだってくる。

 だが自分が弾く分には、今はまだそれほど興味もないらしい。


 子供の習い事については、司朗はスイミングスクールに通っている。

 ちゃんと夫婦で話し合って、まずはこれと決めたことだ。

 武史の場合が、子供の頃から近所の川で泳いでいたし、習い事としてもやっていた。

 何より泳げるということは、それだけで生存には有利である。

 楽器を何かさせたいな、と恵美理は思っていたものだが、それなら普通に恵美理が教えればいい。

 ただ司朗の興味の対象は、クラシックにはあまりないらしい。ひそかに恵美理は落ち込んだ。


 ツインズの長男である昇馬も、そろそろ何かをやらせた方がいいのか。

 ただ昇馬は両親譲りで運動神経はいいらしいが、特にこれといったものに興味を引かれてはいない。

 公園でゴムボールを使った遊びは、ちょくちょくやっているが。

 ただ今は桜が妊娠中のため、あまり激しい運動が出来ない。

 椿はいまだにわずかに足に麻痺が残るが、それでもどうにかこうにいか人並以上には動けるのだが。


 未来の才能の萌芽は、始まっている。

 だがそれはまだささやかなものであった。




 サンディエゴとの試合を負け越したメトロズだが、その後はむしろ好調であった。

 ピッツバーグとの三連戦と、ボルチモアとの四連戦。

 ボルチモアその三戦目で、五月の試合は終わる。

 そしてそこまで、メトロズは六連勝であった。


 ただ、大介の打率は微妙に下がり、出塁率が一気に下がった。

 サンディエゴはともかくこの二チームは、大介とかなり勝負してきたからである。

 一試合に二度、多ければ三度勝負を避けられることも多い大介。

 これまでに全打席勝負してもらったのは、一つはアナハイムとの第一戦。

 もう一つがアナハイムとの第二戦である。


 既に現時点で、今年のワールドシリーズの対戦相手と目されている。

 だが実際のところ短期決戦のポストシーズンでは、何が起こるか分からないものだ。

 レナードもだが何より、直史が全打席勝負して、ヒットは打たれたものの打点も得点も許さなかったのが、MLB全体に衝撃であった。

 とにかく今年の大介は、勝負されないことが多すぎる。

 だがアナハイムとの試合で、一気に出塁率を落とした。

 打率が四割であっても、それが全て勝負してのものであるなら、他の打席で出塁することがない。

 自然と出塁率は下がる。

 

 五月終了時点の大介の打撃成績である。

 打率0.436 出塁率0.672 OPS1.752

 ホームラン25本 打点60

 打率と出塁率、OPSはさらに化け物になっているが、やはり勝負された回数自体が少なければ、ホームランと打点は少なくなる。

 ただホームランの数は、この数試合の追い込みがあってか、去年とほぼ同じ割合で推移している。

 打点の方は一番バッターということもあって、かなり落ちてしまったが。

 出塁率の高いシュミットを、一番に置くべきなのだろうか。

 だがそうすると大介の、走力を無駄にしかねない。


 またシュミットが後ろにいないと、敬遠しやすくなるのも確かだ。

 だがそろそろ六月にも入るので、マイナーで調子のいい選手を、上で試してみてもいい。

 ただそこでまた気になるのが、アナハイムとの勝率比較。

 消化したスケジュールが違うので、単純には言えない。

 だがメトロズが43勝10敗、アナハイムが44勝12敗。

 メトロズがわずかに上をいっている。


 まだレギュラーシーズンは四ヶ月もある。

 それを思えばまだ、勝率の上下を気にする段階ではないのかもしれない。

 しかしもう二つのチームの、直接対決はないのだ。

 なので一度上に行かれたら、自力で逆転することは出来ない。

 この時期から優勝争いなどをしていたら、シーズンはもたないと、分かっているのだ。

 だがそれでも勝率を気にしてしまうのは、マスコミも煽るからだ。


 去年のメトロズのレギュラーシーズン最終勝率は、72%であった。

 今年は今のところ81%と上回る。

 だがそれはアナハイムも同じで、今年の勝率は79%。

 そこでメトロズの首脳陣は、他のチームとの対戦に期待する。


 アナハイムとミネソタとの試合を見よう。

 今年のア・リーグ中地区、台風の目となっているミネソタ。

 メトロズは今年、インターリーグでの対戦はないが、アナハイムは同じリーグなので二カードの対戦がある。

 そして六月の最初の試合、アナハイムはミネソタと当たる。

 そこで負けが増えるようであれば、メトロズも少しは星に余裕が出る。


 直接対決にしても、二勝一敗で勝ち越したのだ。

 もっともチームの力を最大限に出した、第三戦では負けてしまったが。

 勝ち越したという事実と、最大戦力では敗北したという事実。

 どちらを重視するかで、ワールドシリーズの対決がどうなるか決まる。


 出来ることならアナハイムは、リーグチャンピオンシップでミネソタにでも負けてほしい。

 ミネソタの特徴は、やはりその打力にあるが、得点力はまだメトロズの方が高い。

 強力なピッチャーがあと二枚はないと、おそらく殴り合いならメトロズが勝てる。

 しかし短期決戦、アナハイムと当たった時、直史が勝ったとしても、他のピッチャーから打てたなら、アナハイムを倒すことも出来るだろう。

 実際のところそれは、メトロズがアナハイムと当たった時も、そうすれば勝てると考えられているものだ。

 この間の三連戦、勝ち越したというのはそういう意味でもあるのだ。


 もっともレギュラーシーズンとポストシーズンでは、ピッチャーの使い方が完全に違う。

 ピッチャーの強いチームの方が、ポストシーズンでは強い。

 それを思えばミネソタは、どうにかピッチャーを補強しなければいけないのだが。


 完全に他人事のように、両チームの対決を待っている。

 願わくば二つのチームのどちらであっても、疲弊してワールドシリーズに出てきてほしいものである。

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