ペン入れのお時間です
ゴブリンレディーのエドーラ姉さんの顔の広さは半端ではなかったようで、その日の午後から休憩の合間に城で働く人たちが読書室に現れては、一冊、二冊と物珍し気にマンガを借りて行くようになった。
一週間もすると、あちらこちらで仕事をしながら「アタシは××ってのを読んでさ、これがまたすごいんだよ、細っこくて目ばっかり大きな女の子がやたらとモテまくってさあ、あっちこっちの男から求愛されるんだ」とか、「俺も海に出て世界中の宝を手にしたい」などマンガの話が交わされることが増えていった。恐ろしやマンガの影響力。
クレイドも文句も言わず黙々とマンガの模写を続けること三カ月。
根が努力肌なのかコツコツと技術も上がり、定期的に壁に貼っている画力確認のための絵も、最初の頃と比較にならない出来映えで、たまにニヤニヤと嬉しそうに壁の絵を眺めている彼を見ると、二m近い大男の彼も子供のように見えてしまい可愛いなと思ってしまう。目つきが鋭いのは変わらないが。
魔王としての仕事も地道にこなしているようだ。
以前仕事内容を聞いてみたら、害獣を畑に追いやり軽い被害に遭わせてから柵などの対策を練らせるようにしたり、魔力を使って大雨を降らせ、土砂崩れなどが多い道を作ったり、床下浸水の被害が出た倉庫や家の補修工事をさせるようにしたり、脆い橋を壊したりして国民に改めて頑丈な橋を造らせるよう仕向けたりと、正直(ほー。魔王ってそんな細かい仕事するものなんだ)という、ほんの少し騙された気持ちになるものだった。
だって、マンガとか小説で読んでる魔王って基本は「悪の象徴で邪悪と破壊の限りを尽くし、勇者を倒し世界を混沌に陥れる」みたいな感じだし。
クレイドもそんな魔王が出て来るマンガも多数読んでいるようで、
「リリコ、こやつらはこんな悪辣なことばかりして、最後に己一人になったところで何が楽しいのだろうか?」
と逆に私に訊いてくる始末だ。
「まあ想像上の設定ですからね。──それに、クレイド様だって土砂災害起こしたり害獣けしかけたりと色々してるじゃないですか」
「人間というのは危機意識を持ち、創意工夫をしたり創造する力が衰えると本当に何もしなくなる。食べ物とて己で畑を耕し種を植え、海で魚を獲り、野山で肉を狩らねば手に入らぬのだぞ? 村など大勢の人間が集まれば当然ながらいさかいも起きるゆえ、どのように解決するかなど自分たちで考えなければならぬ。全てが満たされた生活では、貪欲に生活を良くしようなどと研鑽することもない。人が亡くなったり大怪我でもしなければ危機感を持ち改善させようとはしない。……リリコの国とて、収入がなければ物を買えぬだろうし、人が死ぬような事故が起きたら改善させようと努力するであろう?」
「いやまあそうですけど」
「あちらを立てればこちらが立たず。これで私や他の魔王もなかなか苦労が絶えぬのよ」
とため息をついて、中間管理職の悲哀みたいなものを漂わせていた。
意外と苦労してるんですねえ、と相槌を打つと、分かってくれるかと少し嬉しそうな顔をする。かなりの美形なのに目つきが鋭いせいで、少し笑みを浮かべられると「この後保険かけて殺されるのではないか」「何か悪だくみを企んでいるのではないか」などと不穏なことを想像させられてしまう残念な人である。もう人となりは大分把握しているので今はそんなことはないのだが、最初の頃は、【魔王=何か裏があるのでは】と疑心暗鬼になっていたこともあった。今思えば私もかなりマンガの影響に毒されていた。
「……いいですね。ちゃんと手もきちんと骨格を意識して描けるようになって来たじゃないですか! 人物も背景も丁寧に描かれてますね」
私はクレイドの模写を見ながらうんうん頷いた。
「うむ。私も沢山描いているうちに『この手の向きなら親指はこうなっていなければおかしい』とか、『この体勢ならば足はこう見えなくてはならない』などと徐々に分かって来た」
少し自慢げに語る彼は、本当に三カ月もの間鉛筆模写だけを延々とやって来ただけあって、素晴らしい上達ぶりである。現在の画力で言えば、まだ粗さはあるが、デビューしていてもおかしくないレベルである。描く速度もまだまだ遅いとはいえ、もう少し頑張れば月刊誌ならギリギリ可能なところまでは持っていけそうだ。
「さてそれでは、明日からペン入れ、という作業を学んで行きましょうか」
「なに?……では、とうとうあのペンを使えるのか!」
買って来てから一度も使うことなく引き出しにしまい込まれていたかぶらペンやGペン、丸ペンにインクに雲定規などの画材が使えると興奮とソワソワが止まらないクレイドに、もう少し早く使わせてあげれば良かったかと反省した。
だが、ペン入れというのは、細かい鉛筆線を消してしまい、綺麗な原稿に近い状態となるので、大して上手くない人間でも上達したと誤解しやすい。マンガの基本的な技術力を持っていないクレイドにそれをさせると、下手すると慢心につながりかねない。私も以前はそれで少し勘違いしていた時期があったので慎重になっていた。
「そうしたら明日からは、気に入った一コマではなく、一ページまるまる模写してからペン入れをしましょう」
ビクッと肩を揺らしたクレイドが「一ページまるまる……?」と情けない声を出した。
「嫌ですねえ、マンガは一ページ一ページの積み重ねじゃありませんか。今度は一ページごとの構成も学びながら、見どころや読者に伝えたいシーンの表現の仕方も学習しなくちゃ。あ、ペン入れは一ページ全部の模写が済んでからでないと許可しませんからね」
「……」
「ほら、返事はどうしました?」
「わ、分かった」
私は満面の笑みであろう顔を彼に向けた。
だんだん鬼教師っぷりが板についてきたものである。
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