第20話 地区優勝を見越して
アレクの所属するテキサスとの試合は、直史は完全にベンチでお休みである。
次のヒューストン戦を控えて、万一ピッチャーを大量に投入することになっても、この三連戦で直史だけは投げない。
もしそれでもピッチャーがいなくなれば、野手のピッチャー経験者に投げてもらうだろう。
それぐらいにチームは、次のヒューストン戦を重要視している。
テキサスとのカードは三連戦を二勝一敗と勝ち越し。
ここまで負けなしのヴィエラが、勝ち星こそ得られなかったものの、敗北なしの成績を残していく。
完投可能な先発ピッチャーが一人いると、チームの投手力には一気に余裕が出る。
それにしても直史の場合は、影響が極端すぎるが。
日本にいた頃は直史がクラブチーム時代、そこそこ練習試合では負けていたことを取り上げて、キャッチャーとの相性を語る人間もいた。
ジンは20代の若さで指揮するチームを甲子園に導き、樋口は言うまでもない。
だからキャッチャーに、その凄さを起因する考えの者もいたりする。
確かに樋口は他のピッチャーも上手くリードし、投手王国レックスを成立させた。
だが樋口の故障中に直史が、クライマックスシリーズから日本シリーズで、どんなピッチングをしたか忘れたのだろうか。
直史自身がキャッチャーのリードに、自分の成績の要因を挙げることはあった。
直史の成績には懐疑的なのに、直史の言葉をそのまま信じて、あの成績はキャッチャーのおかげとした、キャッチャーリード原理主義者がいたのか。
全ては妄想である。
坂本ももちろん悪いキャッチャーではないのだが、アナハイムの他のピッチャーの成績はどうだったのか。
直史が入ったことによって、他のピッチャーの成績もおおよそ上がっている。
どれだけ一人のピッチャーが、他のピッチャーの負担までも引き受けることが可能なのか。
これはその壮大な検証の場でもあるのかもしれない。
テキサスからアナハイムへ戻り、ヒューストンを迎え撃つ。
移動してから一晩の間があるので、直史はじっくりと調整が出来る。
「本気でパーフェクトを狙うって、どういうことだと思う?」
真剣な顔の直史に、フライパンを持ってキッチンからやってきた瑞希が、真剣な顔で答える。
「いつもと一緒だと思う」
「まあそうか」
本日はフライパンから直接、肉とジャガイモとニンジンを食べる日である。
悪阻が軽いのは、あまり体が強くはないはずの瑞希にとっては、ありがたいことである。
もっとも肉体が貧弱であるのは、直史との運動で随分と改善されたのだが。
妊娠の発覚後は瑞希だけ日本に戻ることも検討されたが、直史がどうせあぶく銭だとハウスキーパーなどを手配。
その中には瑞希のフォローも含まれている。
今日は久しぶりの二人水入らずだが、直史としては心配はあるのだ。
まだまだ安定期に入っていないので、出来ることなら四六時中家政婦を泊り込みで雇ってもいい。
だが家族の空間にあまり、他人を入れ込みたくない。
下手に楽な生活に慣れてしまうと、日本に戻ったときに困る。
生活レベルを無駄に上げてしまうということで、色々と思いつく要因はあるのだ。
それでも瑞希の体を考え、普段は無駄に広いマンションの、一室を泊り込み家政婦用の部屋にしている。
だが今日はホテルに行ってもらって、夫婦と娘の三人の空間を作っている。
真琴もスプーンやフォークは、かなり上手く使えるようになった。
ナイフはまだちょっと危険だが、先のとがっていないフォークなら大丈夫なぐらいだ。
何もやることは変わらない。
そうは思うが今度の試合の、重要度が変わっている。
(集中力は自分ではコントロールできないのかな)
今までのことを思えば、甲子園の決勝だったり、WBCの決勝だったり、ワールドチャンピオンとの対戦だったり、MLBの初先発だったり。
直史の成績は、勝たなくてはいけない時こそ、まさに本領を発揮したような数字となっている。
そしてそれを何度かは経験しているので、今の自分の状態も分かっている。
おそらくパーフェクトは出来ない。
(無失点完封が出来ればいいか)
それを狙って出来るのは、おそらくMLBレベルだと、世界で五人もいない。
ここで完全に抑えておくと、あとの対戦が楽になる。
そんな相手であるヒューストンとの今季初対戦は、アナハイムのホームで行われることになっている。
わざわざローテを少しずらしてまで、直史をこの第一戦に当ててきた。
その理由は直史も理解しているし、自分にとっても利のあることであった。
まだだいぶ先のことではあるが、一応ローテは現段階で既に全てが決まっている。
もっともマクヘイルがマイナーに落ちたときのように、いろいろと人員は入れ替えられたりするものだ。
レギュラーシーズンの一年を通じて、ローテのピッチャーは自分の体調を管理する。
それが本当に上手くいくかどうかは、人それぞれというものだ。
直史にとっての利益とは、オールスターまでの日程だ。
最後にレギュラーシーズンで投げてから、オールスターまでの期間は、調整のために長ければ長いほどいい。
他のどのバッターよりも厄介なのが、オールスターで対戦するはずの大介だ。
もっともルール上、一度しか対戦はないが。
出来れば一回のイニングだけを投げて、それで引っ込みたい。
だがそれはもっと先、七月に入ってからのこと。
今は目の前の光景に対処する。
満員となったアナハイムスタジアム。
トロールスタジアムに比べれば、その収容客数は一万人以上も少ない。
リニューアルはされているが、建設から半世紀は経過した球場。
アメリカ人は変なところにコンプレックスがあるためか、この程度の歴史の建物でも、どこか権威主義的に認める。
日本でそんなものがあるのは、甲子園と神宮ぐらいか。
その神宮にしても、甲子園ほどに人気には至らない。
アナハイムの観客は、のんびりと野球を楽しみたいという、ライトなファン層も多く抱えている。
近隣の遊園地などもあって、アナハイムは基本的に、観光も盛んな土地なのだ。
ただ今年のチケットは、最近は売り切れになることが多い。
直史が投げないにしても、チームは勝率が高い。
地元のチームが強くて嬉しいというのは、人間にとってはごく当たり前の反応である。
直史が先発だと、敵地であってもチケットが売り切れるのが、異常な事態なのである。
一回の表のマウンドに立った直史は、気の抜けたような投球練習をした。
もうこれは恒例のことなので、誰も驚いたりはしない。
バッターボックスに立ってみるまで、先頭打者もその情報に実際に触れることが出来ない。
直史は色々と考えながらも、いつも通りの自分を感じている。
(ヒューストンも二大エースをローテを変更してまで使ってきてないから、試合自体は捨ててるのかな)
去年はワールドシリーズまで進んだヒューストンは、ピッチャーにもかなりのエースクラスが所属していた。
だが必ず勝とうというには、そのエースクラスを出してきていない。
元は二戦目で、直史と投げ合う予定ではあったのだ。
直史のローテ調整はちゃんと発表されているので、変更しようと思えば向こうも、変更は出来なくはなかった。
だが完全にその調整をするには、もう上手くいかなかったか。
あるいは直史以外のところで、勝率を少しでも上げたかったのか。
(勝つことは出来るだろうな)
マウンドを掘って足場を作る直史は、冷静にそう考えていた。
これまでだってずっと、それだけを考えて投げてきたのだから。
勝つために一点もやらず、一点もやらないために出来るだけランナーを出さない。
その結果としてノーヒットノーランやパーフェクトになる。
そして次の試合に疲れを残さないために、球数を減らす。
二つのことが混じると、マダックスになってくる。
相手のピッチャーが強力で、一点を取るのが難しいとなると、こちらも一点も取られてはいけないと感じる。
だが今日はその切迫感がない。
ほどほどのピッチングをして、それで抑えればいいのだ。
注意するべきはノーノーなどを達成するのではなく、少ない球数で完投すること。
(とりあえず先制点を取ってくれるまでは)
そう思いながら直史は、一回の表を三人で終わらせた。
ヒューストンは今年も、コンテンダーとしてポストシーズンを戦う予定であった。
アナハイムに新戦力が加わったのは確かだが、日本のピッチャーは母国で実績を残していても、MLBで通用しないこともある。
オープン戦の様子を見ていて、それほどの脅威にはならないか、と判断していた。
その判断は早すぎた。
デビュー戦でパーフェクトピッチングをかました、史上唯一の人間になった。
それもその球数は、過去の記録を更新していた。
一試合だけでは終わらず、その後の試合も圧倒的な内容であったのは、もはや北米全土に知られている。
去年は大介がMLBの存在感を大きくし、今年もまた同レベルのパフォーマンスを見せている。
そこに直史が加わったのだ。
海の向こうから来た怪物。
かつては日本が、海の向こうからの影響を受けていた。
だが成熟したのか、それとも枠に収まらなかったのか、島国を飛び出してアメリカにやってきた。
そしてこの広大な大陸を、丁寧に几帳面に、日本人らしく蹂躙している。
そんな状況でもヒューストンは、安易にチーム解体などを考えたりはしない。
かつてヒューストンは許されない不正行為を行ったが、だからこそ今もまだ、強さを示す必要に迫られている。
チャンピオンには届かなかったものの、ワールドシリーズまでは進めた。
そこから今年も、チャンピオンになるべく補強はしたのだ。
地区でも二位と、ポストシーズンには進める位置にはいる。
フロント的にはおそらく、ポストシーズンのリーグチャンピオンシップぐらいまでは目指してほしかったのか。
また戦力の入れ替えも、近いうちには起こるのだろう。
直史に三者凡退に打ち取られた、一回の裏。
アナハイムはシュタイナーのソロホームランで一点を先制した。
そしてそれと同時に広がる、奇妙な期待感。
1-0の一点差で決まる試合は、現在ではとても珍しい。
先発のピッチャーが好調であっても、リリーフが必要となる状況がとても多いからだ。
ただし今日は、投げているのが直史であるのだ。
この時点で勝利を確信した人間が、どれだけいただろうか。
おそらく日本の方が、その数は多かっただろう。
しかしアナハイムのベンチの中で、直史は疲れたようなため息を漏らした。
まだ試合の中盤あたりで点が入るなら、その方がマシだ。
ここからヒューストンは死に物狂いで点を取りに来るし、その攻撃をあと八回も抑えなければいけないのだから。
試合が進むにつれて、守備へのプレッシャーも大きくなってくるだろう。
ならば早めにノーヒットノーランは、終わらせておいた方がいい。
直史の今日のピッチングは、いつも通りと言えばいつも通りだが、打たせて取るというタイプのものだ。
下手に早打ちをせずに、じっくりとボールの軌道を見てくるヒューストンのバッターたち。
おそらく打者一巡目までは、見ていくことを指示されているのか。
それで甘い球を投げても、いきなり打ってくれば困る。
追い込んだ後も緩急を使い、強い打球にはならないようにする。
必死で食いついていっても、せいぜいポテンヒットにしかならないような。
ものすごく遅いチェンジアップなどでスイングを崩しても、腕の力だけで外野にまで運んでしまうのがメジャーリーガーだ。
だが遅い変化球の後の高めの釣り球には、しっかりと反応してくれる。
直史の配球に関しては、基本的に分かっていても打てないというパターンを重視している。
だがあまりそれを続けていくと、逆にそこに狙いを絞ってくる。
理想的なのはその試合において、一人のバッターに投げる球が全て違うというもの。
同じようなコースでわずかにずらすというのも、それはそれで打ちにくいのだろうが。
ともあれ二回の表も、直史は三人で片付ける。
出来るだけ早く、追加点がほしいと願いながら。
単純に勝つことはともかく、徹底的に叩き潰すというのは、なかなか意識しては難しいことだ。
こう本気で思っているあたり、佐藤直史は罪深い人間である。
MLBの球団の分析力というのは、凄まじいものがある。
その分析をもってして、手に入る限りの直史のデータを分析しても、分からないものは分からない。
何というか、どこかの部分が優れていると言うよりは、ピッチャーとしての特性が違う。
プレイだけではなく過去のインタビュー記事なども、心理分析の対象になった。
経歴などから判明するのは、とてつもなく頭を使って投げている、ということである。
MAXが90マイルにも達しないアマチュアの頃から、普通に日本でも一番有名なリーグで、パーフェクトの試合を連発していた。
そしてある程度分かってきたのは、その制球力への執念。
一度だけとんでもなく乱れた試合があったが、それを除けば一試合に一つもフォアボールを出さないのが平均である。
制球への意識と思考回路が、一般的なピッチャーというか、野球選手とは違いすぎる。
ある程度他のスポーツもしている人間は、チップインのゴルフを延々と続けている感覚ではないか、と想像した。
単なるパットであれば、あそこまでの出力は出せない。
だがゴルフもしている野球選手は、なんとなく想像が出来た。
そして考える。もしもゴルファーになっていたら、歴史に残るプレイヤーになっていたのではと。
馬鹿な話である。
直史はゴルフに興味はない。誘われたことはあるが。
野球もそれなりに金のかかるスポーツであるが、ゴルフはさらにそれよりも金がかかる。
もっともそれは、一流の環境でやるとしたら、という但し書きがつくが。
それにゴルファーにならなくても、直史は既に野球史に残るプレイヤーだ。
おそらく100年後の野球の歴史においても、活躍の短いレジェンド、という括りで紹介されることは間違いない。
ただ一球を投げることへの集中力は、確かにゴルフのショットに似ているかもしれない。
そのコースのカップにボールを入れることを、一人のバッターとの対戦とする。
ならば決め球を投げるまでの構成は、そのコースをどう攻略するかに似ているとは言えないだろうか。
直史からすると、それもおかしな話である。
集中して投げるというのは、当たり前のことだ。
適当に投げても空振りが取れるのは、もっと肉体的な素質に恵まれた人間だけである。
直史の嫌な予感は、そこその時点で解消された。
味方が追加点を取ってくれて、三点差となったのである。
ただここからいつもなら、一点ぐらいは取られてもいいと考えるのが、本来の直史だ。
しかしヒューストンを相手にする場合、ポストシーズンまで見据えた上で、ここでボコボコにしておかなければいけない。
だがヒューストンは去年もワールドシリーズに行っただけあって、好打者がそろっている。
打率もあって長打も打てるという、そういうタイプがクリーンナップにいるのだ。
選手層を考えれば、おおよそアナハイムよりヒューストンの方が、ほとんどの部分でやや優っている。
だがそれらの条件全ては、エースの力でひっくり返すことが出来る。
パーフェクトだのノーヒットノーランだのは、結果論でしかない。
ピッチャーに重要なのは、まずフォアボールを出さないこと。
そしてMLBレベルになれば、ゴロを打たせればどうにかアウトにしてくれる場合が多い。
強すぎないゴロを、上手く打たせること。
それが至高のピッチングにつながる。
ボール球を振らせることと、ファールボールでカウントを稼ぐこと。
これらも直史が重視していることだ。
要はジャストミートさせないことが、ピッチャーの技術である。
あるいはジャストミートしても、ファールにしかならないように投げる。
投げて投げて、投げまくって勝負しなければ、その感覚は身に付かない。
直史が天才と言われるとすれば、この感覚を頭の中でシミュレートして、現実にフィードバックしていることだろう。
アナハイムが四点目を入れる。
このあたりから直史は、本格的にコンビネーションを広げるのが、いつものパターンだ。
しかし今日は、どうしても一点も取られたくない。
そんなベンチからの無茶なオーダーにも、出来るだけは応えてみようと思うのが、直史という人間である。
結局のところ、頼られると弱いのだ。
甘えられると簡単に見捨てられるが、頼られると弱い。
これはもう生まれてからずっと、育てられる過程で身に付いたものだ。
それがいいか悪いかは別問題だ。
自分にしか出来ないのなら、自分がやるしかないだろう。
そう思って実際にやってしまえる範囲が、直史にとっては非常に広い。
「あれ?」
九回の表、マウンドに立った直史は、今更ながらに気付いた。
ヒューストンはまだ、一人のランナーも出していない。
(おかしいな? あんまり今日は極限まで集中しているような感じでもないのに)
むしろ考える勝利条件が厳しくて、集中し切れていない。つまり打たれるのではないかとも思った。
それでもまだ、この先にヒューストンの攻撃がある。下位打線からだが。
高めの釣り球を使っていけば、三振が取りやすい。
だがそれは上手く打たれると、一発になる。
やはりここは無難に、最低でも完封出来るようにはしておこう。
球数もちょっと、100球は超えてしまいそうだし。
ツーアウトまで投げて、まだランナーが出ない。
ラストバッターに代打を送ってきたが、ヒューストンベンチの選手は、全員の目が死んでいる。
ここでパーフェクトをされることの意味を、だいたいの人間は知っていただろうし、知らなかったとしても知らされたはずだ。
過去にMLBにおいて、一人のピッチャーが二度以上のパーフェクトを達成したことはない。
そしてもし達成すれば、それはノーヒッターともなる。
過去にMLBにおいて、一人のピッチャーが一シーズンに、三度のノーヒッターを達成した例もない。
直史はそれを知らなかった。
知っていても、別に緊張などはしなかっただろうが。
バックの味方の緊張が、マウンドにまで伝わってくる。
直史はなので、最後は三振で片付けたい。
高めに浮いたボールを、打ったらふんわりと浮かんだ。
簡単な内野フライだが、これは自分でキャッチするべきだろう。
「アイガーリガーリガーリ」
そう言いながらグラブを伸ばした直史だが、三塁側からサードが突っ込んでくるのが視界の端に映った。
慌ててそれを避けたが、サードは直史と軽く接触し、そして自分でもキャッチするのに失敗した。
ボールが転がって、それをファーストが拾いにいったが、一塁に直史がカバーに入る時間もなかった。
エラー。間違いのないエラー。
さすがの直史も、これには驚かざるをえない。
死にそうな顔をしているサードのターナーは、マウンドの傍で座り込んでいる。
スタジアムの全てから、一斉にブーイングが噴出した。
ぎこちなく首を振るターナーの肩を、ぽんぽんと直史は叩く。
「ドンマイ」
ただベンチはこれを問題視したのか、サードの守備を交代させた。
気持ちは分かるが今更代えると、余計にターナーのショックは続くだろうに。
直史はずっとブーイングを続けるスタンド三方向に向かって、両手で抑えるジェスチャーをする。
ようやく収まってから、やっとボールを受け取った。
なおここから、壮絶な大逆転が起こるはずもない。
今季三度目のノーヒッターにて、直史は勝利。
ただヒューストンの心を折ったのはいいが、クリーンナップのターナーにも、それなりのダメージを与えてしまったようであった。
これだから野球は読めない。
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