第17話 天と地と
トニー・スレイダーは優れたピッチャーである。
今年好調のアナハイム打線を、七回四安打一失点に抑えた。
ただ世の中、上には上がいるものだ。
そう、彼の敗因はただ一つ。
対戦した相手が、自分よりも圧倒的に強かったというだけのことだ。
ベンチの中から試合を見ているが、己のチームメイトを不甲斐ないとは思わない。
単純に相手のピッチャーが、何かおかしいのだ。
滑り止めだとかブラッシュボールだとか、そういうものではない。
純粋に何か、今までによく注目されていない何か、その数値がバグっている。
対する直史は、七回まで投げてまだ球数は70を超えたあたり。
リリーフ陣の温存のために、最後まで完投する予定である。
そしてこの時点で、MLBの連続無失点イニング記録を更新している。
ここから先は、記録が伸びていくだけ。
既にヒットとエラーで一人ずつランナーは出たので、守備陣にも変なプレッシャーはかかっていない。
「そういえばスレイダーはあんな名前のくせに、スライダーは投げないんだな」
ジョークなのかマジなのか、返答に詰まる若林だが、直史は言いっぱなしである。
もちろんジョークでもマジでもなく、単に気になっただけだ。
神聖ローマ帝国は、神聖でもローマでも帝国でもなかった。
そんな言葉遊びにも近い、単なる発想から出たぼやきである。
天才であったり偉業を達成していたりすると、なんの意味もない言葉にさえ、勝手に周囲が意味を見出そうとする。
直史はあまり冗談は言わないが、全く言わないわけではないのだ。
冗談にならないことは、たびたびしでかすが。
八回の裏にはアナハイムが追加点を二点。
これで点差は三点となる。
満塁ホームランを打たれれば、一気に逆転される点差。
しかし九回の表、セントルイスは内野の間を抜くヒットでランナーを出したものの、それをホームに帰すことも出来なかった。
最終的には完封にて直史は七勝目。
なお球数は96球であった。
100未満の球数で完封するマダックスは、球数制限の厳密な現在のMLBでは、下手にノーヒットノーランをするよりも、ピッチャーにとっては重要なことだ。
なぜならノーヒッターとなっても、そこで球数を大幅に超えてしまえば、次のローテまでに回復仕切らない可能性がある。
もちろんピッチャーのスタイルによっては、どちらが上とも判断はしきれない。
ただ直史は、長期的な視野に立って考える。
最終的に大介とは、絶対に勝負しなければいけない。
そこで安易に逃げてもいけない。これだけは絶対条件だ。
そして大介と確実に対決するためには、他のバッターを全員抑え込むのでは足りない。
まず味方の首脳陣を、納得させないといけないのだ。大介と勝負しても、勝てるピッチャーだと。
申告敬遠を使われたら、直史でもどうしようもない。
思えばピッチャーから勝負する権利を奪った、クソったれなルールだと思う。
ピッチャーがちゃんと敬遠をすれば、ほんの一分ほどで済む話だ。
強く投げるわけではないから、球数が増えてもそれほど負担にならないし、時間の短縮になどそれほど効果はなかった。
ただ自信のないピッチャーに言い訳を与えるためには、都合のいいルールである。
直史は本来なら、失点を防ぐためなら歩かせることも厭わない。
だが塁に出した場合と、普通に勝負をした場合、そして勝負に負けて打たれて試合どう影響するか、全てを含めて考えれば勝負という選択になる。
そして基本はゾーンの中で勝負するが、意表をついてボール球も投げる。
状況によってはボール球で、空振り三振は取れるものなのだ。
五月半ばの時点で、既にマダックスを四回。
なおMLBでの記録は、そもそもこの基準となった、グレッグ・マダックスが、通算で残した13回である。
一シーズンではない。MLB生活通算での13回だ。
二試合に一度はマダックスを達成している直史は、下手をすればこの最初の一年だけで、その記録を更新することすらありうる。
実際に完投試合が六回あって、マダックスにならならかった試合は、101球と103球での勝利であった。
重要なのはマダックスの達成回数ではない。
試合後のインタビューで、直史はそう回答する。
「先発のピッチャーは出来るだけ長いイニングを、出来るだけ点を取られず、出来るだけ消耗せずに投げるのが大切だ。少なくともレギュラーシーズンの間は」
面白みのない、本質を突いた言葉である。
「するとノーヒットノーランよりもマダックスの方がいいと?」
「それも違う」
わずかに考えなくても、論理的な答えは既にある。
「ヒットを打たれるということは、それだけ対戦するバッターが増えて、球数も増えることになる。だから球数を減らすためには、ヒットを打たれないように考える」
ノーヒットノーランが達成されたとしても、それはあくまで目標のための過程でしかない。
「先発のピッチャーはレギュラーシーズンではチームがリーグ優勝するために、より安定したピッチングをする必要がある。その安定感というのが私は、フォアボールを出さないこと、球数を減らす工夫をすること、主にこの二つだと思っている」
そんなことを思っていても、出来るのはお前だけである。
「だからとにかく楽に勝つことを考えていると、ノーヒットノーランやマダックスといった結果が出てくる。実はこれは副産物なんだ」
なんだか言葉遊びのようにも思える。
「球数が多くなってのノーヒットノーランと、マダックスはどちらの方が重要と考えますか?」
おおよそ最後になる質問に、直史は即答した。
「マダックスだ」
もっとも試合によっては、ノーヒットノーランを優先していくのだが。
たとえば相手の打線の心を折りたいときとか。
マダックスは普通にリーグ全体で、年に数回は達成される。
難易度はノーヒットノーランよりも低いが、それはピッチャーのスタイルによるのだ。
そしてこれで直史は、連続無失点イニング記録を、なんとデビュー戦からずっと続けて更新することとなった。
オープン戦でこそ少しは打たれたが、開幕から負けなしどころか無失点。
全く底が見えないこの記録は、もはや不気味ですらある。
誰かどうにか止めろと思っても、止められるものではない。
直史が調子を落とさない限り、この狂気の記録は続くのだろう。
そんな直史に封じられたセントルイスは、ここから怒涛の三連敗。
三試合でわずか一得点という惨状になった。
ナ・リーグ中地区のセントルイスとの対戦は、今年はこの三試合のみ。
だから徹底的に潰す必要はなかったのだが、勝手に向こうが徹底的に潰れてしまった。
直史は悪くない。
ホームでの試合が終わり、また遠征となる。
ただシアトルとの三連戦の後は、ついにハイウェイシリーズがやってくる。
アナハイムとトローリーズ、近距離にあるチームのリーグをまたいだ対戦。
なお現在のローテーションで行くと、その初戦で本多と対戦するな、と直史は分かっている。
直史は、と言うか白富東は、本多の帝都一に負けたことがある。
あれは一年生の頃で、スタメンをある程度落とした相手だった。
だがそれでもあの時点では、チーム力に圧倒的な差があった。
その後は公式戦で、しっかりと勝っている。
甲子園での対決がなかったためか、直史は本多に対して、あまり敵愾心を抱かない。
むしろワールドカップなどで、味方として共に戦ったという意識が強い。
だからと言って別に、手加減をしようなどとも思わないが。
シアトル戦での直史は、ベンチ入りはしているが、ほとんど試合に出る可能性はない。
ただ前の試合から中二日は空いているため、何かおかしなことがあって、登板しなければいけない可能性は0ではない。
たとえばMLBにおいては、基本的に天候などによる没収試合以外では、試合は引き分けがなく延長は延々と続く。
そんな時にはピッチャーを使い果たし、しかも勝てそうな試合であると、一イニングだけ投げるというのも、可能性としてはある。
また代走として、いるだけでいいからと使われる可能性もある。
実際には直史であれば、クロスプレイなども考えて、絶対に代走でも使わないだろうが。
シアトルは織田がいるチームで、直史は一度投げた。
ヒット一本の16奪三振のマダックスと、完全に抑えきった。
やりすぎたかなと思ったが、その後のシアトルはスタメンなどを変更して、チーム内の空気を変えることに成功した。
連敗は止まり、そこから五分以上には勝っている。
現時点のア・リーグ西地区は、アナハイムがトップでその次がヒューストン。
この二チームの間にはまだ対戦がない。
三位がシアトル、四位がテキサス、五位がオークランドと、割とはっきりと勝率の差がついている。
おおよそ事前の予想と違うのは、アナハイムの圧倒的な強さと、テキサスの思ったほどではない弱さ。
オークランドはまだまだチーム再建中となっている。
ただ圧倒的な首位と言っても、このシアトルとの三連戦は、ピッチャーが弱いところと当たる。
アナハイムは直史と、スターンバック、ヴィエラ、マクダイス、マクヘイルの五人が、ファイブメンローテーションとなっている。
登板間隔が短くなりそうなときは、90球で中四日登板ではなく、リリーフ陣を駆使して中五日体制を作っている。
その中ではリリーフ陣から、イニングイーターのウォルソンが先発をすることが多い。
この中で勝てる先発は、スターンバック、ヴィエラ、直史の三人。
マクダイスとマクヘイルは、とりあえずローテを回すための先発。
ただマクヘイルは防御率が5を超えているため、近くマイナーに落とされるかもしれない。
この試合の先発はマクダイスで、それほどいいピッチングとも言えないが、それでもアナハイムの打線の援護で勝ち投手の権利を得ている。
守備から戻ってきた坂本は、首脳陣と話してから、直史の隣に座った。
「そういやあおまんは、祭典はどうするがよ?」
「祭典……球宴のことか?」
直史の確認に、坂本は頷く。
わざわざオールスターという単語を使わなかったのは、試合中の雑談であったからだろう。
五月中旬の現在、まだオールスターは先のように思える。
だが六月に入れば、オールスターのファン投票は開始される。
「どうせ投げるのも一イニングぐらいだし、出るつもりだが?」
選ばれるかどうかの話ではない。
直史を選ばなければ、それはオールスタートは言えない。
直史としても、基本的には出場の予定である。
その前後のローテを見ても、ちゃんと休みの日にはなる予定だ。
ローテが崩れない限りは、出場するつもりがある。
ただ現在ではオールスターに選ばれることは、選手にとっては必ずしもメリットはない。
試合数が増えるということは、それだけ怪我のリスクも高まるということだ。
基本的にオールスターでは、一時期を除いてそれほどの真剣勝負とはならないが。
また出場するにしても、どうせならその分を休養に充てたいという選手もいる。
七月開催であるため、それなりに体力は消耗するのだ。
そもそも移動するだけで、下手をすれば西海岸から東海岸へと移動しなければいけない場合もある。
だが、大介との対戦の機会である。
ワールドシリーズまでは、ここを除けば一度もその機会はない。
そしてこれはあくまでも、お祭り騒ぎ。
直史にとってみれば別に他のシーズンの試合も、全ては非日常であるのだが。
プレイしている選手にと手は、日常と思えるのも仕方がない。
だが多くの観客にとっては、テレビの向こうや球場のグラウンドは、手の届かない場所。
違うところは給料に反映されるかどうかといったところだ。
娘が大暴れし、嫁が妊娠している直史としては、家族の傍にいたいというのが正直なところである。
オールスターに選ばれることには、特になんの感慨もない。
大介が何かの理由で出場しないなら、自分も辞退するだろう。
直史にとってのオールスターというのは、その程度の位置づけだ。
それに実際のところ、オールスターの注目度はどんどんと下がっている。
インターリーグである程度、両リーグの試合での交流戦はあるのだ。
それにせっかくのオールスターでも、ピッチャーなどもそれ以外のポジションも、数が多いだけに出番は少ない。
もちろんオールスターなどで怪我でもされれば、球団としても大損だ。
そんなわけで全力プレイを見られないせいか、試合自体の視聴率も奮わない。
むしろその前日のホームラン競争の方が、注目度は高いのだ。
直史の言葉に、ほうかほうかと坂本は頷くが、こいつもキャッチャーとしては打っているし、二番手三番手ぐらいには、選ばれてもおかしくないのだ。
ただ今年は、ア・リーグで直史が先発し、上杉がクローザーをするのは決まったようなものだろう。
最高でも三イニングしか投げないのだから、対戦するとしても一度。
まあ打順を変えてくれば、可能性はやや高まるが。
こんな時に直史は、つくづく思う。
プロ野球選手というのはブラック企業だと。
NPBにいた頃はまだ良かったが、MLBでは本当にひどい。
ロースターを拡大して、あがりの先発にはもっと自由を与えて欲しい。
MLBでも完投した次の日などは、ベンチに入らない日はあった。
ただシーズンが佳境になってくると、そういうこともなくなる。
NPBでは基本的に、先発は投げた次の日や投げる前日が、完全に休みになっていた。
特に在京球団であったレックスは、遠征には同行せずに、二軍で練習する日などもあった。
中六日で投げるというのは、ほとんどその間は、もちろん練習はするが自由度が高かった。
しかしMLBは基本的に、遠征では二カード以上が続くため、必ずチームに帯同する。
実際はそれなりに自由時間があるが、それでも拘束される割合がはるかに多いのだ。
これは先発ピッチャーをしていた直史だからこそ感じるものだ。
大介は野手であり、故障などがないかぎりは全試合に出場するぐらいの勢いだ。
だがNPBの先発は、MLBの先発よりもはるかに楽だ。
そのくせMLBで通用する日本人選手は、野手よりもピッチャーの方が多いのは、不思議なことである。
それでもプロスポーツは、オフシーズンが長い。
MLBでもスプリングトレーニングやポストシーズンを合わせても、二ヶ月以上はまとまった休みが取れる。
ならばいいのではと思うかもしれないが、実際には体は毎日動かしていないと、神経が鈍くなる。
よって直史はオフシーズンでも、完全に休む日などは、年末から正月の前後数日だけだ。
プロ野球選手というのは、引退するまでずっとシーズン中。
大介のような野球大好きにとってはともかく、他にやりたいことがある直史にとっては、それなりに苦痛である。
だからこそ少しでも早く終わらせるため、マダックスを狙うのだが。
こちらは誰にも言えない、直史の本音である。
シアトルとの対戦は、予定通り直史の出番はなかった。
二勝一敗と、弱いピッチャーのところで勝ち越せて、まずまずの結果だと言える。
特に重要なのは、相手がシアトルであったということ。
もっとも本当に重要なのは、ヒューストンを相手に勝つことだ。
勝率は七割五分に近い。
ナ・リーグまで含めても、全体でトップである。
直史の目から見ても、アナハイムの投手陣はまだ薄い。
それなのにここまで勝てるのは、リリーフ陣がいいからだろうか。
と言ってもそのリリーフも、ピアースに頼りっぱなしであるし、中継ぎはもう一枚はほしい。
自分の試合のときはともかく、他の試合では必要だ。
さすがにMLBのポストシーズンのシステムでは、NPBでの一年目のような、無茶はしたくない直史であった。
そしてシアトルとの試合が終われば、いよいよトローリーズとのハイウェイシリーズとなる。
ニューヨークの二球団の対戦のように、近場のチーム同士の試合は、両チームのファンが集まるため、球団にとってはおいしいカードとなる。
特に今年は直史が、とんでもないピッチングを見せ続けている。
さらには日本人ピッチャー同士の投げあい、というのも注目点の一つだ。
ただオーナーのモートンは、深々とため息をつく。
どうせならアナハイム側のスタジアムで、このカードをやってほしかったと。
四連戦の前の二戦が、トローリーズのトロールスタジアムで行われるのだ。
集客のためにはピッチャーよりバッター。このモートンの考えは、GMのブルーノとしばしば対立する。
だが決定的な亀裂とならないのは、前提さえブルーノが守っていれば、モートンは追加戦力については口を出さず、また補強の金もちゃんと出すからだ。
一時期は野手の大型契約をモートン主導で行い、そのためチームバランスが崩壊し、低迷した時期があった。
そこからは比較的、モートンの口出しも控えめにはなっている。
モートンはまた、GMのブルーノを飛び越えて、FMのブライアンにも指示を伝えようとする。
直史を出来るだけ、ホームゲームに先発させるよう、ローテを調整しろというものだ。
これにはさすがに無理があるため、ブルーノとブライアンの二人がかりで、どうにかモートンを説得したものだ。
金は出すが口も出す。
このあたりはメトロズのオーナーであるコールの方が、専門外の分野にまで口を出さないのでいいオーナーと言える。
球団というものは、確かにオーナーがいる。
だが本質的にはオーナーのものではなくファンのものだ。
ファンを楽しませて金を稼ぐという点で、モートンは経営者として正しい。
そこで一致しているため、どうにかこのオーナーとGMの関係は成立している。
そんなフロントの内輪のことは知らず、いよいよハイウェイシリーズがやってきた。
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