私が殺しました

宿木 柊花

裏切り

「あの人は私だけのヒーローでした」

 女性は革張りのソファーに座って、一言一言を紡ぎ出すように話す。

 目の前の高級なカーペットにはまだ白いテープで人の形が描かれている。


 事件は高級住宅街の中でも一際大きな屋敷で起こった。

 敷地内には果樹園や畑などが備わり、屋敷の食料は全てここで賄われるという。


「とても優しい人。私は食品の育成過程や調理方法の全てを知らなければ口にできません。そんな私でもあの人は何も言わずに受け入れてくれました」

 ずっと女性は目の前の最期の痕跡を見つめている。心が抜け落ちたような顔だった。


 その人は毒殺された。

 この女性によって。


「私が殺しました。正確には過去の私が」

 このまま自供してくれれば証拠も見つかり、ようやく事件が終わる。

 そう思ったらふいにお腹が空いた。

 テーブルにはお茶とお茶請けとして杏仁豆腐が出されていた。杏仁豆腐は近くの百貨店で買ってきたようでこの先お目にかかれる保証はない。

 食べようと手を伸ばすとピシャッと先輩にその手を叩かれた。

 先輩は鋭い眼光で睨む。蛇に睨まれた蛙の気持ちが種を越え理解できた。

 事件関係者から出されたものを気安く口にするな! 幻聴に先輩の声で叱責された。


「最初のきっかけは分かりません。ただ……あの人が一度だけ、私の食事にトリュフを混入させたことがありました。きっと優しさだったのでしょう。人工栽培が難しいトリュフを食べさせたかったのかもしれません」

 カラカラと氷の入ったグラスをかき混ぜる。暖炉で暖められた部屋でグラスの下には水溜まりができはじめていた。もう少しで彼女の前に置かれた杏仁豆腐の皿にも到達しそうだ。

 女性は黙ったまま氷を回す。

「あの、それが動機ですか?」

 しびれを切らせて先輩が聞く。

「そんなことって思いますよね。私もそう思います、普通なら。ですが私は初めに言った通り、知らない過程があるものは体が受け付けないんです。混入に気付いたとき、それはもうトリュフでなく毒でした」

「それで犯行に?」

「それは違います。大喧嘩にはなりましたが殺そうとまでは思いませんでした」

「ではなぜ?」

「屋敷でパーティーを開催した時のことです。ある女性があの人に『あなたは私のヒーローです』と笑いあいながら話していたのを聞きました」

 誰もが黙った。

「あの人は私のヒーローなんです。あんな女になんてあげない」

 乱暴に持ち上げたグラスから氷を一つ口に含むとガリガリと噛み砕いた。それでも女性の顔からは表情が読み取れない。魂のない人形のようでもあった。

「きっとその時に作ったロシアンルーレットが今回当たってしまったのでしょうね」

 口元だけ儚げに微笑む。

「ロシアンルーレットとは?」

 先輩は前のめりになった。

「あの人杏仁豆腐が好きだったんですよ。常備して毎日一つずつ食べていました」

 いとしそうに目を細めてテーブルの上の杏仁豆腐を見る。

「前に私も一緒に食べようとして杏仁豆腐を作ったことがありまして、こだわる性格も幸いして完全再現できました。杏仁豆腐は種の中のじんを使って作ります。大変だったのであまり作りませんが、今回はその仁に毒を混入しました」

 食べなくて良かった、とこの時ばかりは先輩に感謝する。

 女性はまた氷を頬張る。

「そしてその杏仁豆腐の素を空の容器に注いで蓋をし、固める。かなり完璧にできたので混ぜてしまえば私でも見つけるのに一苦労します。それが確か十日ほど前の話です。あの人が亡くなるまで作ったことすら忘れていました」

「それが凶器……被害者がその毒入り杏仁豆腐を食べてしまったということですか?」

「そうなのでしょうね」

 先輩は眉をひそめた。

 被害者が食べたと思われる杏仁豆腐の容器からは検出されなかったからだろう。

「毒物はどこから入手しましたか?」

「毒はどこにでもありますよ。知らないだけ。今回は果樹園で愛情いっぱいに育てた子からいただきました」

「あの、すみません。容器からは毒物が出ませんでした。これはどういったことでしょうか?」

 突然の僕の問いに先輩は呆れ、女性はクスクスと笑った。

「あの日、あの人は杏仁豆腐を2つ食べたみたいですよ」

「分かりました。この後は署でお話を聞かせてください」

「でも……そうですよね」

 女性はブツブツと呟くとまた氷をガリガリと食べた。そして何かに採り憑かれたように目の前の杏仁豆腐を食べ始めた。


 あまりに一心不乱に頬張る姿に不安がよぎる。

「先輩、あの杏仁豆腐ってもしかして」



 先輩が急いで止めたが、もう遅かった。

 女性は人の形を取ったテープの枠に重なるように倒れて絶命した。



 女性は自作の物しか食べられない。最近作った杏仁豆腐はロシアンルーレット用のみ。

 氷を食べるのはストレスから来る衝動も含まれていたようだ。

 もっと早く気付いていれば女性は死なせずに済んだのかもしれない。

「彼女はあれで良かったんだろうな」

 先輩はちゃっかり持って帰って来たお茶請けの杏仁豆腐を食べていた。

「ちょっ! え、先輩、えっ!」

「大丈夫だよ。賞味期限が現場にあった物よりかなり先だから」

 ずるい! そう叫ぼうと開けた口にとろける甘さが広がった。

「うまいな」

 ニッといたずらっぽく笑う先輩が杏仁豆腐を口に突っ込んだと分かるまで数瞬を要した。

 これだから先輩は憎めない。


 先輩に一本の電話が入る。先輩の顔が引き締まる。

 どうやら事件が新展開を迎えたらしい。

「これから忙しくなるよ」

 先輩は僕の背中を力強く叩き、ポケットから出した杏仁豆腐を投げて寄越した。

「先輩、これ」

「君の分だよ」

 先輩はまたニッと笑った。



 僕にとっては先輩が憧れのヒーローです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私が殺しました 宿木 柊花 @ol4Sl4

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ