見えない影絵、見えない人間 6

 しばらく、どちらも口を開かなかった。

 ヤマヤドリは前を向いたまま、少し早めの歩調で住宅地の中を歩いて行く。私は手を引かれて、それを追いかけている。会話はない。目線も合わない。重苦しい沈黙が、私たちを取り巻いている。

 ──気まずい。

 なにか言わなくては、と思う。けれど、なにを言えばいいのかわからない。

「あの、ヤマヤドリ……?」

 恐る恐る呼びかけると、ヤマヤドリはぴたりと足を止めた。必死で追いかけていた私は、勢い余ってその身体にぶつかった。図らずも、ヤマヤドリの顔を覗き込む形になる。

 ヤマヤドリは、なぜだか、今にも泣きそうな顔をしていた。初めて見る──いや、かつて見たことがあるのかもしれないけれど──その表情に、心臓の辺りが絞られたように苦しくなる。

「……ごめん」

 ヤマヤドリは、少し掠れた声でそう言った。小さな声だった。

「どうして謝るの?」

 いったい、なにについての謝罪なのか。心当たりがまったくなくて、私は動揺した。

「私、ヤマヤドリに謝ってもらわなきゃいけないことなんて、されてないよ」

「説明をしなかった」

 ヤマヤドリは少し落ち着きを取り戻した顔で、私を見下ろした。おおむね、いつも通りの顔。それを見て、ほっとする。

「えーと、それは、この前のこと?」

「そう。本当なら、きちんと説明をしないといけなかった。でも僕はそれをしないで、要求だけを押しつけた」

「それは『関わらない方がいい』って言ったこと?」

 僅かに顎を引いて、頷く。

「押しつけられたとは、思ってないけど……でも、そうだね。説明は、欲しかった」

「ごめん」

「いいよ。なにか、理由があるんでしょ」

「…………」

 ヤマヤドリは、なにかを考え込むそぶりを見せた。

「少し、長くなる」

「わかった。そのつもりで聞く」

 私がそう応じると、ヤマヤドリは少しだけ目を細めて、笑った。


 ◇◇◇◆



「そもそも、あの女の人は最初からいたんだ」

 ゆっくりと歩きながら、ヤマヤドリはそう話し始めた。

「最初から?」

「お兄さんがレンズに気付く前から」

「どこに?」

「オブジェ、あるだろ。あの向こう」

 当日の記憶を引っ張り出す。お兄さんが立ち話をしていたのは、駅前のシンボルにして正体不明の謎のオブジェの前だった。その向こう側に、さっきの女の人がいたという話だが──

「全然、覚えてない。いた?」

「レンズの位置からじゃ見えなかったかもしれない」

 ヤマヤドリは煩わしげに前髪を指で払った。

「あの人は、そこからずっとお兄さんを見つめてた。あんまり隠れたりはしてなかったけど、お兄さんは気付いてなかったんじゃないかな。少し、様子が変で──ゴミ袋を抱えてたんだ」

「ゴミ袋って……あの、可燃ごみ捨てるでっかいやつ?」

「いや、生ゴミとか捨てる、黒い奴。それをこう……あかちゃんを抱えるみたいにして抱いてたんだ。たぶん、中になにか入ってたんじゃないかな」

「それは……不気味だね」

 想像すると、ぞっとする姿だ。

 中身がなんだったのかは、考えたくない。

「それも変だったし、お兄さんをじっと見てる目も、なんか変でさ。さっき、レンズも感じなかったか。笑ってるようでいて、実は笑ってない顔っていうか」

「うん、わかる」

 マネキンじみた顔が思い出される。

 あれは確かに、異様だった。

「まあ、そういうわけで、変な人だなーと思ってたんだけどさ。お兄さんがこっちに気付いて、店に入ってきただろ。そうしたら、あの人も後を追いかけて来たんだ」

「えっ」

「お兄さんのすぐ後に店に入ってきたんだよ。それで、レンズとお兄さんの後ろのテーブルについた。そこからずっと見てたよ、二人のこと」

「ええ……そんな」

 ぞっとすると同時に、納得する。

 私の後ろに座ってこちらを見ていたのなら、ヤマヤドリにとっては私を挟んで真っ向から向かい合う形だったはずだ。さぞや居心地は悪かっただろう。不自然なくらいに目を逸らしていたのは、そのせいだったのだ。

「僕としては、お兄さんがストーキングされていること自体はどうでもよかったんだ」

 ヤマヤドリは、ふっと息を吐いた。

「ただ、お兄さんと仲良くすることでレンズに飛び火する可能性があるのが気がかりだった」

「だから、関わるなって言ったの?」

「そう。まあ、無意味だったんだけどさ」

「? どういうこと?」

「お兄さんが帰った後、僕はあの人もいなくなると思ったんだ。お兄さんを追いかけていくんだろうと思ってた。でも、そうはならなかった」

「……お兄さんがいなくなった後も、ずっといたの?」

 恐る恐る聞くと、ヤマヤドリは暗い顔で頷いた。

「それどころか、今度は僕らを──というか、レンズを追いかけ始めたんだよ。駅までついてきた」

「駅って、太郎橋駅?」

 ヤマヤドリはげんなりした顔で首を横に振る。それが意味するのは、彼女は自宅の最寄り駅までついてきていたということだ。電車内でも、ずっと見られていたのだろう。

「どうりで……全然説明してくれないから、どうしたのかと思ってたけど、本人がそこにいたからなのね?」

 ヤマヤドリは軽く顎を引いた。

「迂闊に話題に挙げたら、なにをしてくるかわからなかったから」

「そういうこと……えっと、家まではついてきてないよね?」

「正直、わからない」

 ヤマヤドリはゆらりと首を振った。

「電車から降りたときの混雑で、見失ったんだ。だから、そのあとどこに行ったかはわからない。家までは、多分、着いてきてないと思うんだけど……」

「そ、そっか……」

 不安な返答に、落ち着かない気分になる。もしも家まで着いてきていたら、という考えが心をざわつかせた。別にあの人が私になにかをしてきたわけではないのだけれど、それでもやっぱり、知らない人に家まで着いてこられるというのは怖いと感じる。どうしてだろう、と考えてみると、やはり家を知られているというのが嫌なのだと思う。家は、自分にとって安心できる場所であってほしい。だからこそ、知らない人に知られているのが嫌だし、それを知ろうとされることに恐怖を覚えるのだろう。

「でも、それならそうと、後からでも説明してくれたらよかったのに。どうしてあれっきり、なんの説明もして暮れなかったの?」

 私がそう言うと、ヤマヤドリは難しい顔になった。

「……僕は最初、あの人のことをストーカーだと思った。お兄さんに執着していて、つけ回しているんだと。でも途中でターゲットがレンズに移った。お兄さんと仲良くしていたことで目をつけられたんだ、と最初は思ったんだけど……」

「違うの?」

「わからない。でも、もしかしたら特定の誰かじゃなくて、目についた人を追いかけていく人なのかもしれない、と思ったんだ。とりあえず気になった人を追いかけて、その途中で別の人に興味が移ったら、今度はそちらをつけていく。そういう人である可能性もある」

「そんな人、いる?」

「いないとは、言い切れない」

 それは確かにその通りだったので、私は頷いた。

「もしそうなら、あの人がお兄さんのストーカーとは限らない。たまたま目をつけられただけで、別に関係ないのかもしれない。もっと言えば、僕らをつけてきたように思えたのも、気のせいなのかもしれない。あの人は別に、僕らをつける気なんかなくて、たまたま同じ路線を使っただけかもしれない。そういうことを、まあ、色々考えて……」

「私に言うのを止めちゃったの?」

「まあ、その……勘違いだったかもな? と思って」

 ヤマヤドリにしては、歯切れが悪い。

 これに限らず、今日のヤマヤドリはずっとそうだった。普段はもっと、すっぱりとわかりやすく話すのに、今日は違う。終始、奥歯にものが挟まったような物言いだ。一連の話だって、一応、筋は通っているけれど、どこかしっくりこない。

 なにか隠しているのではないだろうか?

 そんな気がしてならない。

 思えば、これまでにも何度か、こういうことはあった。妙に断定的になにかを言った後、とってつけたような説明をする。そういうことが、たまにある。それはたぶん、断言するだけのなにかがありながらも、そのなにかについての説明をぼかしているからだ。だから判断ははっきりしているのに、説明は曖昧になる。

 私に言えないなにかがあって、それによってヤマヤドリは判断を下している。

 そういうこと、なのだと思う。

 いったいなにを隠しているのだろう。

 気にはなるけれど、しかし私だって他人のことは言えない。自分の記憶に起きている異常について、私はずっとヤマヤドリに隠している。さもなんの異常も無いかのように振る舞って、ヤマヤドリを騙している。

 そんな私に、ヤマヤドリの隠し事を暴こうとする権利なんて、あるだろうか?

 ない、と思う。

 そんなことをする権利はない。ヤマヤドリに限らず、人は誰しも秘密の一つ二つは抱えているものだ。それを好奇心で暴くようなことは、してはいけない。それは人の心を土足で踏み荒らす、残虐な行為だからだ。そんなことは、してはいけない。誰であってもしてはいけない。──まして、相手が大切な人なら尚更だ。

 私はわき上がる疑念と好奇心を押さえ込む。

「──それも含めて、説明してくれればよかったのに」

「うん……そうだな。そうすればよかったんだけど、その時は……その、やっぱり、怒ってるかなって」

 だんだん声が小さくなっていく。

「あれきり、レンズから連絡も無かったし」

「それは、だって、なんか気まずかったから……」

「悪かった」

「ううん。私の方から、連絡すれば良かった」

「いや……」

 ヤマヤドリはなにかを言おうとして、そのまま困ったような顔になった。

「……ごめん」

 小さい声でぽつりと呟いて、口を閉ざす。

 ううん、と答えて、私も続ける言葉を無くした。

 このまま会話を続けても、同じやりとりを繰り返すだけだと感じたのだろう。

 お互い口を閉ざし、しばらく黙って歩いた。

 いつもは居心地のいい沈黙が、今は少し、気まずい。

「──お兄さん、大丈夫かな」

 耐えかねてそう聞いた私に、ヤマヤドリは、

「大丈夫なんじゃないか」

 と答えた。突き放すような言い方だった。

「自分でなんとかするだろ」

「でも、ただならぬ感じだったよ?」

「そうだったとして、僕らになにが出来る?」

 そう聞かれると、返す言葉がない。

「うーん……警察、とか?」

「なんて説明するんだ。言い合ってるわけでも、殴り合ってるわけでもない。凶器で脅したりもしてない。ただ、顔見知りらしい男女がいて、ちょっと気まずそうにしてるだけだろ」

 そう言われると、確かに緊急性のある状況ではない。

「でも、ストーカーでしょ?」

「かもしれない。けど、証拠はない。仮にそうだったとしても、僕らは第三者だ。被害を訴える立場にはない」

「うん……」

「なにより、僕はあの人と関わりたくない。レンズにも関わって欲しくない。関わるだけ損だし、危険だ。見えてる地雷を踏みに行くようなものだよ」

「そんなに?」

「僕はそう思ってる、という話」

 やけにきっぱりと言い切る。

 やっぱり、なにか隠しているのだろう。根拠となるなにかを知っていて、伏せている。そうでなければ、こうもきっぱり『危険だ』と断じることは出来ないだろう。

 いったい、なにを知っているのか。どういう経緯で、それを知ったのか。

「ヤマヤドリって……」

「なに?」

「危ないこととか、してないよね?」

 訝しげな目が、私を見下ろす。

「なに、急に」

「ううん、ごめん。なんか、急に心配になっちゃって」

「全体的に、こっちの台詞なんだけど。危ないことに首突っ込んだり、変な人に寄っていったりしてるのは、レンズの方でしょ」

「そ、そんなことないよ」

「いつだったか、包丁持ったお姉さん相手に説教してなかった?」

「う……説教は、してない」

「そうだっけ」

「その件は、反省してるから」

「それは、よかった」

 まったく信用していない顔で言われると、心が痛む。

 私の自業自得ではあるのだけど。

「あの、言っておくけどね。私だって、いつもあんな無茶してるわけじゃないんだよ」

「無茶をしてる自覚はあるんだな」

「あのときは、ヤマヤドリがいたから、つい」

「僕のせい?」

「そうじゃなくて! ……ヤマヤドリは、いつも私を助けてくれるし、守ってくれるから」

 だから、つい大胆になってしまう。

 一人ではできないことが、できてしまう。

 いざとなったら、ヤマヤドリが助けてくれるのだと信じているから。

「頼りになるんだもの」

「やっぱり、僕のせいにしてない?」

「してない。感謝はしてる」

「どうだか」

「本当だよ? ──いつもありがとう、ヤマヤドリ」

「はいはい」

 どうでもよさそうな返事をして、ヤマヤドリは私から視線を外した。西日を真っ向から受けて、眩しそうに目を細める。

 その口元が少し笑って見えたのは、気のせいだったのだろうか。

 気のせいではないといいな、と思った。


 ◇◇◇◆


 あれ以降、お兄さんには会っていない。

 近隣で刃傷沙汰があったとは聞かないから、おそらくは平和的な解決を迎える事が出来たのだろう。

 それに、本人こそ目にしていないけれど、健在であることは解っている。小母さんが相変わらずあちこちで愚痴を言っているのだ。それが時々、母を経由して私の耳にも話が届く。

 最近は、新しい彼女が出来たそうだ。

 今度は長続きするかしら、と小母さんはぼやいている。


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