見えない影絵、見えない人間 4

 一年生の時だ。

 夏休みを目前に控えた頃の、とある放課後。私は図書室に立ち寄った。目的は、読書感想文に使う本だ。

 私たちの通う学校は、課題図書というものがない。読書感想文は、好きな本で好きな内容を書いていいという制度だった。しかし私の家にある本は娯楽本か実用書ばかりで、読書感想文向きのものはあまりない。そうなると、新しく買うか、借りるしかなかった。

 高い書架の間を右往左往しながら、書きやすそうなものを探す。図書室には同じように本を探しに来た生徒や、自習スペースを使いに来た生徒などで、それなりに賑わっていた。もちろん、図書室なので誰も喋っていない。人の数に対して、喧噪はほぼゼロに近かった。

 だからだろう。片隅でひそひそと話す声が耳についた。

 そっと書架の影から見てみると、同学年の女の子数人が、テーブルにいくつかの書籍と模造紙を広げて、作業をしているところだった。作業をしながら、控えめな声で雑談をしている。内容は、おおむね恋愛に関連する話だった。ナントカ先輩がかっこいいとか、誰と誰が付き合っているとか、そういう話だ。

 立ち聞きをする気はなかった。私はそおっと踵を返し、その場を離れようとした。けれど、書架の向こうからヤマヤドリの名前が聞こえて、足が止まった。

「えー、どこがいいの。あいつ、すんごい無愛想じゃん」

「冗談とか通じなそうだよねえ」

「わかってないなー。そこがいいんじゃん」

 そう言う声を聞いて、私は再び、書架の影からそろりと出した。見つからないよう気をつけながら、様子を窺う。

「確かに愛想はないけどさー……かっこよくない?」

 そう言っていたのは、ボブカットの女の子だ。ヤマヤドリと同じクラスで、可愛いと評判の子である。そして実際、彼女は可愛い。容姿もさることながら、笑った顔がとても可愛い。そして彼女はよく笑う。いつ見ても楽しそうに笑っているので、まったく話したことがなくてもいつの間にか好印象を抱いている。そういう子だ。

 一緒にいるのは、さっぱりとしたショートカットの子と、くしゃっとしたロングヘアの子、そしてお団子頭の子の三人。うち二人は、何度か話したことがある。保育園と小学校が同じだった子だ。お団子頭の子は見覚えがないから、他の小学校からの来た子だろう。

 ボブカット女の子は作業の手を止めて、他の三人相手に熱弁を振るっている。

 しかし、その熱意は空回り気味だった。三人の反応は芳しくない。

「そうかなあ」

「全然わかんない。どこがいいの?」

「なんでわかんないのー、もう」

「や、わかんなくはないよ? 他の、馬鹿みたいなことやってへらへら笑ってる男子と比べると、落ち着きあるからね。相対的にかっこよく見えるんでしょ」

「相対的にとかじゃなくてー。普通に。かっこいいの」

「それはないわ」

「つーかあいつ、たまにすげー性格悪いこというよね」

「ああ。ストレート過ぎるんだよねえ。『いやちょっとはオブラートに包めよ』って思うときあるわ」

「わかるー。怖いんだよね。毒舌っていうかさー」

「適当なこというやつよりいいじゃんか」

 あんまり否定ばかりされたせいか、女の子はむくれた。それを笑っていたショートカットの女の子が、でも、と口を開く。

「昔は、もうちょい可愛げあったんだけどねー」

「えっ、そうなの?」

「そうだよ。まあ、大人しいほうではあったけどさ。結構、今とは違うキャラだったよ。お遊戯会で猟師の役がやだって駄々こねたりする奴だった」

「あー、保育園のね」ロングヘアの子が、うんうんと頷く。「赤ずきんでしょ。別に悪役とかじゃなかったんだけどね。なぜかすんごい嫌がってたよねえ」

「そう、先生に泣きついてねえ。懐かしいわ」

「小学校の運動会でずっこけて泣いたりねえ。わりと泣き虫だったよね」

「そうそう。あと恥ずかしがりだった。なんかのイベントでさあ、高学年の女の子たちに褒められて、恥ずかしがって真っ赤になってたことあったよね」

「あったわー。あいつ、小さい頃はかわいい系の顔だったんだよ。だから大人とか上級生とか、あと女の子からは可愛がられてたんだよね」

「本人は、恥ずかしいから嫌だったみたいだけどねえ」

 彼女たちの話すエピソードは、どれも私の覚えていない頃のものだった。だからどれも新鮮で、私はつい書架の影で耳を傾けてしまった。できることなら、もう少し聞いていたい位だった。

「それが──やっぱ、あれだよね?」

「神隠しでしょ。あれ以来、だいぶ変わったよね」

 突然、自分に関係のある単語が姿を見せて、私はぎょっとした。

 神隠し。私が突如行方をくらまし、記憶を持たずに帰還した。その一連の出来事を、周囲の人がそう呼んでいることは知っていた。私が影で、神隠しの子、と囁かれていることも。

「なに? それ」

 ボブカットの子とお団子頭の子は、きょとんとした顔をしている。この件は、小学校が違う子は知らないことが多い。学区が違うから、噂も広がりづらかったのだろう。でも中学に上がれば、みんな同じ学校だ。噂は、同じ学校だった子から違う学校だった子へと広まっていく。今まさに、それが起きている。

「あー……うちらの同級生の女の子がさ、行方不明になったことがあんの。二週間くらい。ぱっと消えて、ぱっと帰ってきて。そんでその間の記憶はないっていう事件」

 実際はそれ以前の記憶も、ないのだけれど。その件について、同級生は知らない。ヤマヤドリに隠した延長で、この件はほとんど周囲に知らせていなかった。知っているのは私の両親と病院関係者、捜査に当たった警察関係者くらいだろう。ヤマヤドリの両親が知っているのかは、わからない。

「その女の子ってのがさ、あいつの幼なじみなんだよ。親同士が知り合いで、保育園入る前から一緒に遊んでたっていう」

「え……、その子、今どうしてるの?」

「どうって、普通にしてるよ」

「隣のクラスだよ。最近、ちょっと休みがちって聞いたけど」

「らしいね。でもそれは、神隠しとは関係ないと思うよ。小学校は普通にその後も通ってて、ほぼ皆勤だったし」

「えっ、すごいね」

 お団子頭の子が、頓狂な声を上げる。静かな図書室内に声が響いて、慌てて口元を押さえた。そろりと当たりを見回した後、囁くような声で話を再開する。

「そういう事件に巻き込まれると、なんだっけ……トラウマ? そういうので辛い思いをするとか、周りが変な噂して外出しづらくなるとか、よくあるじゃん。ドラマとかマンガとかで。そういうことは、なかったんだ?」

「どうなんだろ。実際はわかんないなあ。うちらの知る範囲じゃ、そういう感じは見せなかったよね?」

「うん。むしろ、あんま気にしてないって感じだった。さっぱり覚えてないから、逆に平気なんだって自分で言ってたし。まあ、強がりもあったのかもしれないけど……」ショートカットの子は、軽く首を傾げた。「むしろ、変わったのはあいつのほうなんだよな。明らかに無口になったし、暗くなった」

「そう。あんまり笑わなくなった……っていうか、全体的に感情が出なくなったっていうのかな。最初は、そりゃ一番仲良しな子がいなくなったんだから、そうなるよねって感じだったんだけど」

「帰ってきてからも、元には戻らなかったんだよ。普通、心配の種がなくなったら、元気になるもんだと思うんだけど」

「えー、なんでだろうね」

「わかんない。正直、当時はあれこれ聞ける雰囲気じゃなかったからな。犯人捕まらなかったから、親も先生もぴりぴりしてて」

「話題に出すと、怒る先生もいたからねー」

 私はそっと、その場を離れた。

 その時、なにを考えていたのかはよく覚えていない。色々な感情がない交ぜになって、少しぼんやりしていた。ただ、驚いてはいたと思う。それが、ヤマヤドリに想いを寄せる人の存在を知ったからなのか、ヤマヤドリが自分の神隠しをきっかけに変化していたことを知ったからなのか、それはわからない。驚きと、あとは微かな不安のようなものを感じていた気はする。

 ただ、今までまるで気にしていなかった記憶の欠落が、妙に気になった。

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