過去と影絵とサイコさん

過去と影絵とサイコさん 1

 移動教室の途中、レンズを見かけた。

 階段を降りた先。少し広い、ホールのようになっている空間にレンズは立っていた。手には鞄を持っていて、おそらくは帰るところだったのだろう。玄関の方を向いていて、こちらからは背中しか見えない。

 レンズと向かい合うようにして、女子生徒が立っていた。上履きに緑のラインが走っている。三年生だ。背が高く、痩せている。癖のあるやや茶色寄りの髪を、顎の下あたりの長さですっぱり切りそろえていた。ぎょっとするほどに大きな目が印象的ではあるが、ごく普通の女子生徒に見える。

 その背後に、巨大な蟹のような影絵が顔を出してさえいなければ、だが。

 影絵蟹は、僕がこれまで目にした中でも一際巨大だった。タカアシガニのような長い脚で身体を持ち上げ、女子生徒を跨ぐように立っている。それでいて、両の手に備えたハサミはノコギリガザミのように大きい。アンバランスな、影絵の蟹だ。

 影絵蟹はぬうっと身を乗り出し、その大きなハサミをレンズの方に伸ばしていた。

「──レンズッ!」

 僕は階段を二段飛ばしで下り、レンズの元へ駆けつけた。はっとした顔で、レンズと女子生徒が僕を見る。それがきっかけだったのかはわからないが、蟹はゆったりとした動きで挟みを引くと、そのままするすると身を縮めて女子生徒の背中に引っ込んだ。それを待っていたかのように、女子生徒はぱっと身をひるがえし、早足で去って行く。なんだったんだ、あの人。

「レンズ。今の、知り合いか?」

「ううん、知らない。私、他の学年に知り合いはいないもの。……三年生だよね? 今の人」

「ああ。──なにか、言われた?」

「なにも。帰ろうとしたら、あの人が立ってて……目が合った、と思う。そしたら、なんか……」

 レンズは表情を曇らせると、僅かに首をひねった。

「なんだろう、眠くなった、とは違うんだけど。なんか、ぼおっとしちゃって」

「……そうか」

「目が大きくて……あと、色素が薄いのかな? そのせいか、なんか目を離せなくって。……ヤマヤドリは、どう思った?」

 意見を乞われたが、レンズが期待するような回答は出来ない。僕はあの女子生徒の目には注目していなかった。見ていたのは影絵蟹とレンズだけだった。

「わからない。目の大きい人だとは思ったけど」

「そっか。じゃあ、私の気のせいかもね」

 そうは言いつつ、レンズは腑に落ちない顔だった。女子生徒が去って行った方を見つめて、なにかを考えている。

 スピーカーが震えて、サァーっという砂時計の落ちるような音がする。あっと思ったときには、授業開始を告げるチャイムが鳴っていた。

「ヤマヤドリ。授業、行かないと」

「あー……」走りたくない。「まあ、いいや。一つくらい大丈夫だろ」

「よくないでしょ」

 上目遣いに僕を睨む。まったく迫力は無いし、ただ可愛いだけだった。

「いいんだよ、一度くらい。──これから、帰るのか」

 レンズはあっと声を漏らす。慌てて時間を確認することから察するに、あまり時間に余裕はないようだ。慌てるレンズを落ち着かせ、玄関まで送っていく。

「なにか、用事があるのか」

「病院。今日、カウンセリングの日なんだ」

「そうか。なら、おばさんが迎えに来てるのか」

「うん。裏のコンビニのところにいるはず」

 さすがにそこまで見送るつもりはない。靴を履き替え走っていくレンズを、玄関で見送る。足音は遠のき、やがて聞こえなくなった。

 下駄箱が整然と並ぶ、人気のない静かな玄関。

 そこで僕は一人、先ほどの女子生徒のことを考える。

 あんなにも大きな影絵を校内で見たのは、初めてだった。これまで目にしたのはごく小さいものか、せいぜいが子供サイズ程度。あんな大きな影絵は見たことがない。今まで気付かなかったのが不思議に思えた。

 おそらく、滅多に姿を見せないのだろう。

 影絵は常に宿主の周りを徘徊しているわけではない。それを僕は、経験から知っていた。影絵は普段、宿主の身体に姿を隠している。けれどなにかの拍子に、宿主の身体から姿を現す。そのきっかけまではよくわからない。頻繁に姿を見せる影絵もいれば、滅多に姿を見せない影絵もいることから、なにか共通したきっかけがある訳ではないらしいことはわかるけれど、それだけだ。

 なにがきっかけで影絵が姿を見せるのか。

 なにをしたら影絵は姿を消すのか。

 影絵は、わからないことばかりだ。

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