影絵ウサギ 2

 公園に行くと、レンズがいた。ブランコに座っているのはいつも通りだったが、いつも以上にぐったりしているようだった。背中を丸めて俯き、長い髪が柳のように顔を覆い隠している。僕の接近に気付いて顔を上げる仕草も、重い疲労を感じさせた。

「レンズ」

「ああ、ヤマヤドリ……」

 レンズは青ざめた顔で、うっそりと微笑んだ。そのまま萎れて枯れて消えていきそうな顔だった。どうやら疲労度は上限値まで達しているようだ。

「大丈夫か」

「うん……だいじょぶ……」

 駄目そうだ。僕は自販機でお茶を買ってきて渡した。

「ありがと……」

「どうした」

「久しぶりに、午前中から登校したから……」

「疲れたか」

「うん……」

 レンズは力なく頷いて、お茶を飲んだ。顔を上に向けると、髪がさらさらと流れ落ちて、白い顔と細い首が露わになる。喉が上下する様が妙に艶めかしくて、僕はそっと目をそらした。

 さすがのレンズも、今日は寄り道をする気にならなかったらしい。珍しく、まっすぐ帰途についた。いつもこうだったらいいのに、と思う反面、すぐに家に着いてしまうことが惜しいようにも感じられる。一貫性のない思考が反映されたのか、歩くスピードはだいぶ落ちた。

 ゆっくりと、家までの道を辿る。

「なあ、レンズ」

「なに?」

 途中、信号に引っかかって足を止めたとき、僕は思いきって前々から思っていたことを聞いてみた。

「先生のこと、どう思う」

「先生って、私の担任の先生?」

「そう」

 レンズは最初、質問の意図を計りかねたのだろう。訝しげな顔で僕の顔を見上げていた。それでも、そこは聞かずに僕の問いに対する答えを考え始める。

「……嫌いではない。けど、うーん」

「好きでもない?」

「まあ、そう。あの先生、すごく前向きでポジティブでしょ。あと、熱血系? 努力とか友情。あとは絆とか、団結とか、そういうのが好きな人だよね」

「そうだな」

「そういうところは、苦手。私はそんなに前向きになれないし、他の人との関係を過信できない」

「うん」

「あと、人は話せばわかり合える、互いに理解し合えるって本気で思ってるところ。あれは、嫌。話せばわかるって、そんなわけないじゃない」

 レンズは吐き捨てるようにそう言った。その口ぶりから、そこが最も嫌いな部分であることがわかる。レンズは先生の持つ相互理解の価値観を嫌っている。

「レンズは、人はどれだけ話してもわかり合えないと思うのか」

「わかり合える部分はあるよ。でも同じくらい、わかり合えない部分もあるはずだって、私は思う」

 レンズは僅かな沈黙を挟んで、「例えば、」と言う。

「ヤマヤドリの家の卵焼きって、甘いじゃない」

「うん、甘い」

 僕の家の卵焼きは、多めの砂糖と気のせい程度の塩で作られる。味のほうは、果たして塩を入れた意味はあったのかと疑問を抱かざるを得ない程度には甘い。僕は子供の頃からこの味なので驚かないが、レンズはそうではない。レンズの家で卵焼きと言えば、それはだし汁と少々の醤油の卵焼きなのだ。

「最初に食べたとき、頭がおかしくなったかと思った。卵焼きなのに甘いとかなに考えてるの? って。──ごめん」

「いや、いい」

 律儀に謝るレンズが面白くて、つい笑ってしまう。

「それで?」

「うん。つまりね、私は甘い卵焼きは好きになれないし、理解できない。甘いのが好きって人とはわかり合えない。私はしょっぱいのが好きだから」

 でもね、とレンズは言う。

「私は好きじゃないけど、甘い卵焼きがあるのも、甘い卵焼きが好きな人がいるのも、別にいいと思うんだよね」

「?」

「甘い卵焼きは嫌いだけど、この世からなくなってしまえとまでは思わないってこと」

「ああ、なるほど」

「逆に、しょっぱい卵焼きのほうが美味しいんだからしょっぱい卵焼きを食べろ、とヤマヤドリに言うつもりもないの」

「言われても、断るよ」

「うん。それでいいと思う」

 レンズは首元の髪の毛をさっと払いのけた。

「でも先生はたぶん、そうじゃない。先生が言う『わかり合い』っていうのは、私が甘い卵焼きを受け入れて、ヤマヤドリがしょっぱい卵焼きを受け入れて、それでお互いに『こっちも美味しいね』と言って微笑みあう──みたいなことだと思うのよね」

「ある意味、理想ではあるかもね」

「そうかもしれない。けど、なんか嫌。上手く言えないけど、人間扱いされてない気がする」

「それは、『レンズは甘い卵焼きが嫌い』という部分が否定されてるからじゃないか」

 わかり合おう、理解し合おうというのなら、それを好む気持ちと同じように、拒む気持ちもまた理解しなくてはいけないはずだ。けれどそれをせずに自身が好ましいと思うものを相手に押しつけるのなら、それは相互理解とは言えない。それは、一方的な強要だ。

「好き嫌いは良くないのかもしれないけど、だからって嫌がる人に嫌いな食べ物を食べさせるのは、ただの自己満足だよ」

「自己満足」レンズはオウム返しに呟き、そして目を見開く。「それだ、私が先生のことあまり好きになれないの」

「そうなのか?」

「うん、多分……」

 レンズは黙り込んだ。難しい顔をして、なにかを考えている。担任に感じていた微かな嫌悪の正体。その端緒を掴んだレンズは、それをたぐるように一気に思索の海へと潜り込んでいた。邪魔をしたくなかったので、僕はそれ以上は話しかけなかった。ぼんやりと、その横で自分の考えを巡らせる。

 レンズが学校に行けなくなった理由──教室の居心地の悪さに、あの影絵ウサギは関係しているのだろうか。影絵のレンズは、影絵ウサギがレンズに手出しするのを拒んだ。つまり、少なくとも影絵のレンズは影絵ウサギが危険なもの、あるいは悪いものだと認識しているのだろう。そんなものが徘徊しているであろう教室に、レンズは登校している。

 過去の例から見ても、影絵と宿主はまったく無関係に存在しているわけではない。影絵を食われると、宿主の精神状態にはなにかしら影響があることを、僕は知っている。つまり、影絵と宿主の間には少なからず同調、あるいは干渉している部分があるのだろう。相互のものなのか、一方的なものなのかはわからないが。

 そう考えると、影絵のレンズが感じたものを、宿主であるレンズも少なからず受け取っている可能性はあるだろう。レンズ自身は認識していなくとも、影絵のレンズが危険を認識し、警戒しているのを感じ取っている。あるいは影絵のレンズが不安や不快を感じたとき、レンズも同じように不安になったり不快感を覚えたりしているのかもしれない。

 もしそうなら、登校を拒む理由もそのあたりにありそうだ。教室には、あの影絵ウサギがいる。そして、影絵ウサギからなにかされたクラスメイトたちも。

 クラスメイトまでもが、影絵のレンズになにかしているとは思えない。だが影絵のレンズが警戒している可能性はある。信用できないものだと認識し、それがレンズ自身に伝播する。その結果として、レンズはクラスメイトとなじめない。そういうことも、十分、あり得るのではないだろうか。

「…………」

 影絵ウサギの宿主は、先生だ。先生がいる限り、影絵ウサギの出没は止められない。先生自身も知らぬ間に姿を現し、生徒に影響を及ぼしている存在だ。排除しようと思うなら、先生自身をどうにかしなくてはいけない。

 先生がいなくなったら、レンズは学校へ通えるようになるのだろうか。

 レンズは不登校だが、一応、登校の意欲自体はある。だから時々は登校して、学校と言う場所と自分とを繋ぐものが切れてしまわないよう、努力をしている。僕としては、そんなレンズの努力が実ることを祈っているし、そのために出来ることがあるなら協力したいと思っている。

 とはいえ僕は、なにか特別な能力や技能を持ち合わせているわけではない。性格や人格という面で特段優れているわけでもない。そのほかの部分でも──例えば金銭面だとか、人脈だとか──僕は秀でた部分がない。というか大抵の部分で僕は人並みを下回っている。

 そんな僕に、出来ることはあるだろうか。

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