影絵とレンズ 6
西日の差し込む公園に入る。
レンズはいつも通り、物憂げな顔でブランコに座っていた。物憂げな顔で、ゆらゆらと僅かに揺れている。それを見て、揺り籠の赤子を思い出す。揺り籠を揺らすのは子供をあやすためだ。心地よい揺れは人を落ち着かせる。
「レンズ」
声をかけると、レンズはすうっと顔を上げた。
「ヤマヤドリ」
眩しそうに目を細めた顔が、特別な微笑みに見える。そんな風に感じたのは、やはり僕の願望が目を曇らせているからだろう。レンズが眩しそうに目を細めているのは、西日が眩しいからに他ならない。
隣のブランコに腰を下ろす。子供用のブランコは座面が低く、落ち着かない。
「今日は、会ったか?」
「ううん。会ってない」
それはもちろん、例の女性のことだ。
昨日、彼女は包丁を持ってあの家を訪れようとし、レンズによって止められた。僕とレンズはなんとか彼女をその場から移動させ、近くにあったコンビニのイートインスペースまで連れていった。そこで彼女はしくしくと泣きながら、なぜあんなことをしようとしたのか、断片的にだが僕らに語ってくれた。
彼女はあの家の住民である夫婦の、夫の元交際相手だった。けれど彼女は理不尽な理由で一方的に別れを告げられ──このあたり、詳細は語られなかった──一度は縁が切れた。その数年後、この春に転居してきた彼女は、通勤途中に建つある家の窓辺に、見覚えのあるクッションが飾られているのを見つける。それはかつて、彼女が手を尽くして手に入れたものであり、交際相手へのプレゼントだった。まさかと思った彼女だったが、数日後、その家から姿を見せるかつての交際相手を目撃する。
「すごく、幸せそうで……奥さん、赤ちゃんがいて……私は全然、幸せじゃないのに……どうしてあの人はあんなに幸せそうなんだろうって……」
私を不幸にしたのはあの人なのに。
彼女はそう言って、あとはもうなにも語らなかった。五分ほどで泣き止むと、丁寧に謝罪をし、もうこんなことはしないからと告げて、帰って行った。僕らはそれを見送り、家に帰った。
彼女の身になにが起き、どんな苦しみがあり、どれだけの葛藤があったのか。僕には想像もつかない。情報はあまりに断片的で、予想をつけることすらままならない。
ただ言えるのは、彼女が覚えていたことを、彼は覚えていなかった、ということだ。
彼女は、それを知らないけれど。
「あの人、本当にもうやらないと思う?」
そう問われて、確信を持った答えを返すことは出来ない。彼女がなにを考え、どう行動するか。予測することは不可能だ。それができるほど、僕らは彼女のことを知らない。
「……もし、また行動を起こすとしても、今度は僕らに知られないように気をつけると思う。一度、邪魔をされているわけだし」
「うん……そうだよね」
「どうしようもないよ、僕らには」
「うん……」
レンズは、悲しそうな顔で俯いた。その顔はただただ、誰かの悲劇と過ちを悲しんでいた。
「ねえ、もしまたあの人見かけたら──」
「駄目だ」
「なんで?」
「あのな」
僕は声を荒げそうになった。意識してゆっくり呼吸をし、心を落ち着かせる。
「声をかけたとき、刺されてもおかしくなかったんだぞ。自分が危ないことした自覚、ないのか」
「そ、それは……うん」
「次は刺されるかもしれない。もしあの人に──いやあの人だけじゃない。少し気になる人に会うことがあっても、関わったら駄目だ。次も無事に済むとは限らないんだから」
「…………」
レンズは沈黙する。その顔は不平不満でいっぱいだ。
それでも、この件については一歩も譲るつもりはない。
僕の顔を見て、それを察したのだろう。レンズはしゅんとして俯いた。
少し、強く言いすぎただろうか。
黙ってしまったレンズを見て、不安に駆られる。意見を変えるつもりはないけれど、もう少し別の言い方をした方が良かったかもしれない。
こういうことを、言う前に気づけたらいいのに。気づくのはいつだって、言ってしまってからだ。
「……三年生の自殺の話、覚えてる?」
後悔する僕に、レンズは突然、そう聞いてきた。
「覚えてるよ」
「私ね、あの話、全然納得できなかった」
幸せの絶頂で自殺した、男子生徒。
彼の感じた、将来への不安。
どれだけ考えてみても、レンズはそれに共感できなかったという。
「最初に聞いたときは、少しも理解できなかった。ヤマヤドリと話して、理屈はなんとなくわかったけど、やっぱり共感はできなくて……でも」
レンズはすっと顔を上げて、僕の顔をまっすぐ見据えた。
「なんかね、あのお姉さんを見てたら、妙に納得しちゃったんだよね」
「それはまた、どうして?」
「言い方が良くないかもしれないけど……こういうのが嫌で、自殺したんだろうなって」
「殺したいほど誰かを恨むのが?」
「過去の幸せを引きずって生きるのが」
「ああ」そっちか。
「あの人、昔はすごく幸せだったんだろうね」
そう。かつて彼女は幸せだったのだろう。少なくとも、入手が難しいグッズをなんとか手に入れてプレゼントするくらいには、彼女は彼のことが好きだった。そんな人と一緒に過ごす時間は、間違いなく幸せだったはずだ。
だからこそ、彼女はそれが終わったことに傷つき、苦しんだ。彼女の口ぶりから、納得のいく別れではなかったのだろう。突然の終わりを告げられた彼女は、今に至るまでその傷を引きずり続けていた。
そして今、彼女はかつての恋人の幸福な姿を目にしてしまう。今も傷ついた自分と、過去のことなど忘れたかのように幸せそうな彼。そのギャップは彼女の中の不満に火をつけ、怒りとして燃え上がらせた。
その結果が、昨日の凶行なのだろう。
「幸せが大きければ大きいほど、そうでなくなったときの辛さは大きくなるんだよね、きっと」
「落差が大きいほど、ショックは大きいからな」
「そうだよね……」
レンズは再び下を向いた。黒い髪がざらりと流れ落ちて、その横顔を覆い隠す。
「あの人、大丈夫かな」
その問いへの答えを、僕は持っていない。
ただ、最後に見た彼女はすっきりとした顔をしていた。家を見上げていたときの恨めしげな表情が嘘のような、穏やかな顔をしていた。あれなら大丈夫なんじゃないか、と僕は楽観視していた。
ああいう表情の変化は、初めて見るものではない。レンズに──影絵のレンズに影絵を食べられてしまった人は、たいていああいう顔になる。理由は、よくわからない。聞けば、気が晴れたとか落ち着いたという答えが返ってくるので、なにか精神に影響があるのだろうな、というのはわかる。だが具体的に、なにがどうなってそうなるのかは不明だ。
もしかしたら、とんでもない影響を及ぼしているのかもしれない。
確かめようのない話だが。
「あんまり、悩むなよ」
「うん……」
「帰ろう。あんまり遅くなると、君の家族が心配する」
ほら、と促すと、レンズは浮かない顔で立ち上がった。その身体が音もなくぶれ、二重写しになる。剥離するように抜け出した影絵のレンズは、レンズの隣に歩み出ると、まるで友人のように並んで歩き始めた。真っ黒な影であるその顔に、表情はない。だからなにを考えているのか──そもそも思考が存在するのかも、わからない。
隣を歩く黒い影絵に、レンズは気付かない。
レンズだけではない。影絵が見えているのは僕だけで、レンズにも、すれ違う人にも、その姿は見えていない。僕以外の人間にとって、彼らは存在しない。見えない、触れない、どんな障害物もものともしない彼らは、その存在を示す客観的な証拠がない。
だから、実は全てが僕の見る幻である可能性を、僕は否定できない。
影絵は、実在するものなのだろうか。
それとも、僕が見ている幻覚なのだろうか。
僕にはわからない。
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