影絵とレンズ 5
「ヤマヤドリ?」
頭上から、声が降ってきた。
顔を上げると、レンズが驚いた顔でベンチに座る僕を見下ろしている。今日は制服ではないが、黒いのは変わらない。手にはコンビニ袋を提げていた。
「なにしてるの?」
「待ち伏せ」
「私には、関わるなって言ったのに?」
「どうせ聞かないだろ、君は」
ここにいるのがなによりの証拠だ。レンズは彼女に対する興味を失っていない。
「私だって、来るつもりはなかったよ。ただ……」
「ただ?」
「朝、少し様子が変だったから」
今朝も犬の散歩中、レンズは彼女を見かけていた。その時の様子が普段と何処か違っていて、レンズは気になっていたのだという。
「どんな風だった?」
「上手く言えないんだけど」
「それでもいいよ」
「学校に行く時の私、みたいな」
「…………」
わかるような、わからないような。
普段は登校していないレンズが、久しぶりに登校する。その時レンズは、どんな心持ちで通学路を歩いているのだろう。これまで考えたことのないことだった。
「なんていうか、こう、行くぞ! って気合いを入れないと駄目なのよ。覚悟を決めるっていうのかな?」
レンズは考えながら、ゆっくりと語る。
自分がなにを思いながら、通学路を辿るのかを。
「そうしないとまず家を出られないし、歩いている間もずっと、今日は学校に行くんだ、ちゃんと授業を受けるんだって自分に言い聞かせてないと駄目。そうしないと、途中で足が止まっちゃうから」
「登校するとき、いつもそうなのか」
「そうだよ」
「……知らなかった」
まさか、そこまで自分を叱咤しないと登校できないような状態だとは思っていなかった。僕は自分の認識の甘さを恥じた。
「私のことは、今はいいの。それより──」
レンズは顔を東へ向ける。表情が強ばった。そちらを見ると、遠くから人がやってくるのが見えた。蹴散らすような早足でやってくるのは、見覚えのあるスーツの女性だ。俯くことなく、まっすぐにあの家を見上げて、歩いてくる。その顔は能面のように白く、表情がない。芋虫のような影絵が、その肩の上でゆらゆらゆれていた。
女性は左肩にかけた鞄の中に、右手を差し入れていた。家に近づくにつれ、その手が引き抜かれる。眩しい西日を受けて、取り出されたものがきらりと光った。
「ちょっと!」
「待て、レンズ」
僕の声を無視して、レンズがそちらへ駆けていく。僕は慌てて追いかけた。レンズは運動嫌いのくせに、瞬発力は他人より高い。ついでに短距離走は得意中の得意としている。あっという間に女性との距離を詰めてしまった。もたついた僕は出遅れて、その背中を追いかける。
女性はぎょっとしてレンズを見つめていた。凍ったように動かない。その手には抜き身の包丁が握られていた。まだ新しい、曇りも欠けもない滑らかな刃。このために買ってきたのだろうか。
「なにをする気ですか」
レンズが問う。その背中が、ゆらりとぶれた。二重写しになったように、レンズの輪郭がぼやける。いや、『ように』ではないのだ。レンズは実際に、二重写しになっている。僕の視界に限って、だが。
レンズから剥離するようしてに現れたのは、影絵だ。レンズの形をそのまま写し取った、黒い影絵。レンズの形をした影絵が、すっとレンズの身体から抜け出して、本物のレンズの横に立つ。レンズはそれに気付かない。女性もそれには気付かない。気付いているのは僕と、女性の肩に乗るデフォルメした芋虫のような影絵だけだった。
「あの、私、あなたの事情とかは知らないです」
レンズが女性に語りかけている。
その横で、影絵のレンズの髪の毛がゆらりと揺れた。
するすると音もなくそれは伸びていく。ゆらゆらと風に揺れる花のように、けれど確かな意思を持って揺れている。その証拠に、影絵のレンズの髪はある一点を目指して動いている。
「きっと、なにか拠ん所ない事情があるんだと思うけど──」
するすると伸びた髪は、女性の肩にもったりと乗っていた影絵の芋虫を目指して伸びていく。影絵の芋虫は慌てて逃げだそうとして、もたもたと動き出す。けれどそれより、影絵のレンズの方が速い。するりとその髪を伸ばし、巻き付け、絡め取る、影絵の芋虫の抵抗はなんの効果もなかった。
「でも、悪いことはしないほうがいいと思う」
影絵の芋虫を絡め取った髪はするすると影絵のレンズのもとへ戻っていく。芋虫は逃れることを諦めていないのか、まだもぞもぞと身を捩っていた。だが影絵のレンズは、それにも動じない。髪と芋虫が一体になった黒い塊は、芋虫の抵抗も虚しく、そのまま影絵のレンズの中にするっと呑み込まれた。影絵の芋虫は影絵のレンズに重なって、そのまま形をなくす。
「悪いことをすると、幸せになれなくなるから」
影絵のレンズは身を翻し、レンズの元へ戻る。すっと重なり、そのまま消える。影絵のレンズはいなくなり、レンズだけがその場に残る。
からん、と軽い音を立てて、包丁がアスファルトの上に落ちた。
女性はまるで魂を抜かれたように放心した顔でその場にへたり込み──そして、しくしくと静かに泣き出した。
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