私だけのヒーローは死んだ!

如月姫蝶

私だけのヒーローは死んだ!

 彼は、憂い顔に儚い笑みを浮かべた。

「いつか、また逢えるさ……」

 次の刹那、彼が搭乗したコクピットは、内側から鮮血に染め上げられたのだった。


 私は、永らく三角形の結界に封じ込められていた身の上だった。

 しかし、いよいよその呪縛を打ち破り、恋しい恋しい彼の死にまつわる決着をつけるべく、某所の階段を駆け上がる。決着をつけるためには逢わねばならない人物が、その先に待ち受けているからだ。

 そう。私は階段を駆け上がろうとした。全速力で、なんなら、マッハのスピードで。十八才の女性たるこの身に、加速装置や対消滅エンジンを埋め込みたいというなら、喜んで応じよう。

 けれど、実際には、イベント参加券を提示して、階段の片側に寄るようにという係員の指示に従いつつ、長蛇の列に並ばざるをえないのが歯痒かった。

 ここは、アニメや漫画といった二次元を商う店へと続く、雑居ビルの階段である。

 そして、私が向かいつつあるイベントは、彼を演じた声優さんが、彼のキャラクターにフィーチャーした握手会なのだ。


 彼は、アニメのキャラクターであり、憂い顔の美少年だ。そして、戦闘用ロボットのパイロットとして、非凡な活躍を示した。どうせ女性人気を当て込んで造形されたのだろうが、私は、そうだとわかっていても、沼に身投げせずにはいられなかった。

 彼は、時には哲学的に悩みつつ、主人公の心の支えともなった。しかし実は、違法に製造されたクローンであることが発覚して、生みの親たる科学者の造反により、自爆に追い込まれて散華したのである。

 その死のエピソードが放映されたのは、よりによって、私の大学入試の前日だった。

 雷神と学問の神を兼任する有名な神様よりも、二次元のキャラクターこそを「俺の嫁」「我らが守護神」「私だけのヒーロー」などと勝手に祭り上げて心の支えとしている受験生は少なくないはずだ。

 私もまた、自宅・高校・予備校を結んだ三角形より外には出られないという人生の冬を、彼への恋慕を燃料として耐え忍んでいたというのに……


「こんにちは」

 声優さんは、まずは愛想良くそう言って、作り置きのサイン色紙を手渡してくれた。

 美少年を演じてはいても、笑い皺が印象的な成人男性である。ついでに既婚であることも公表済だが、だからといってあっさり醒められるほどのニワカでは、私はないのだ。

「ありがとうございます」

 お土産はありがたく頂戴して、冥土まで持って行くとしよう。私には時間が無いのだ。

 声優さんはサイン色紙を積み上げたデスクの向こう側で着席しており、ファンは一人ずつそのデスクの前に進み出て、ごく短時間の交流を許されるのみである。

 例えばの話だが、飲み物に偽装して持ち込んだアブナイ液体をぶちまけるなら、今しか無い。

「キミの話を聞かせて?」

 声優さんは、彼に成りきって言った。

「はい。私は、受験生で……大学受験のために、必死に頑張っていました。うちには経済的な余裕があまり無いので、国公立に不合格なら進学を諦めるよう言われていて……

 彼の存在だけが心の支えでした。

 それなのに、何も、入試の前日に死ななくたっていいじゃないですか!」

 だめだ。涙声になってしまった。

 声優さんの顔に、困惑の色が浮かぶ。

 そして、と警備を兼任するスタッフが、早くも私との距離を詰めた。

 そうだよ、例えば自爆するとか、飲み物に偽装した液体をぶちまけて火を放つくらい、腕力が無くたってできるんだから!

 私は、終わりが近いと知ってすかさず、を鞄から取り出した。


「……合格通知? 国立?」

 声優さんは、地声だった。

「はい! 私は、彼の弔い合戦に勝ちました!」

 合格発表までは眠れぬ日々を過ごした。不合格となり、自暴自棄となり、物理的かつ反社会的に暴れ回ってしまう悪夢にうなされたことも、一度や二度ではない。

 真面目に高校を卒業したのだ。実在の放火犯の手口を真似るだけではなく、市販の肥料からちょっとした爆弾を製造するための知識くらいは持ち合わせている。

 けれど私は勝ったのだ!

 だからこそ、悪夢を正夢にせずに済んだのだ。

 持てる知識や情熱をぶちまければやらかせるあれやこれやを、ただただ推しという壊れ物の神のために、密かに妄想するだけに留めておく——そうしたオタクの矜持を守り抜くことができたのだ!

 声優さんは大人で、やはり役者だった。すぐに笑顔と声を取り繕って、私の手を力強く握り締めた。

「おめでとう。ボクは、キミの中で生きて、キミとボクの未来を見るだろう」


 私は、声優さんに深謝して、潔くその場を立ち去りたかった。

 しかし結局、のスタッフの手を煩わせてしまった。

 どうやら耳が幸せすぎて、三半規管まで蕩けてしまったらしく、腰が抜けたのだ。

 階段を降りるのは無理そうだと正直にスタッフに伝えたら、慇懃無礼にエレベーターに放り込まれてしまったのも、今となっては良い思い出である。


 そう。私は、彼を思い出の花園に丁重に葬るべく、そして気持ちを切り替えるべく、あの握手会に参加したのだ。

「弔い合戦」を戦い抜く間、私は発熱して、眠気を感じず、食欲も極端に落ちた。そして、国立大学に合格できたとはいえ、一定の好成績を維持しなければ奨学金を打ち切られてしまう身の上となったのである。

 かくなる上は、弔い合戦モードを一旦強制終了して、もっと持続可能な精神状態で大学生活を送る必要があったのだ。

 ただ、彼の声であんなにも祝福してもらえるとは思ってもみなかった。おかげで彼は、私の中で、無機質な墓標ではなく、笑顔を湛えた残像となったのである。


 ところが、後日制作された続編において、彼は、「所詮はクローンさ」という、ただそれだけの説明台詞により、あっさりと再登場を果たしたではないか!

 ちょっと! 整合性は大切でしょうに! なんで主人公との関係性やら自爆の瞬間の記憶まで保持しちゃってるわけえ!?

 私は、文句をつけることによって抵抗を試みたが、彼と彼への思いは、私の中でもあっさりと蘇生した。彼が分泌する艶やかで煌らかなエキスは、たちまち私を満たす沼にしてオアシスを形成したのだった。

 私は、粛々と大学生活を送りながら、実は水底を歩いていた。頭上の遥か彼方で優しい月のように光を放っているのが水面だろうか?

 しかし存外、呼吸は楽で、悪くはないと思えたのだった。

 いつかまた弔い合戦に臨む日が来るかもしれない。そして今度こそ報われないかもしれないのだ。

 けれど、その恐怖は未だ月光よりも月虹よりも淡く透き通っていて、悪夢の羽衣を織り上げる糸とするにはとても足りないようだった。

 

 

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