第2話 卵が羽化するとき
「絵は悪く無いんですって。でもコマ割りが細かすぎてくどいって言われました」
「コマ割りって、ええっと、あの枠で区切っていくことですよね?」
「そうです。そのひとつひとつをコマって言って、それを1ページに構成していくことをコマ割りって言うんです。だいたい1ページ6コマ前後が読みやすいと思うんですけど、私は余白がもったいないなって思って、つい詰め込んでしまうので」
片桐さんは言って、だが楽しそうに笑う。酷評されたわけでは無い様だし、良いところも言ってもらえた様だ。片桐さんにとってはおそらく手応えがあったのだろう。
「そういうのもバランスなんでしょうか」
「そうですね。大きなコマと小さなコマ、コマから飛び出させる工夫とか見開きとか。そういうのをもっと勉強しないとです」
「そういうのってどうやってやるもんなんですか? 僕たち漫画は読むばっかりで、全然詳しくなくて」
「読んで勉強するしか無いんだと思います。そう思うと凄いお手本が世の中には溢れてますもんね。家にもたくさんあるんですけど、また新規開拓もしようかな」
「それはまた楽しみですねぇ」
「はい」
片桐さんは嬉しそうに言って、かんぱちの切り身を頬張った。
それから数週間が経ち、煮物屋さんはいつもの様に営業を始める。
「店長さん、ハヤさん、聞いてください!」
そう言いながら息急き切った片桐さんが飛び込んで来た。
「あっ、お騒がせしてごめんなさい。あ、あの!」
そう興奮した面持ちで片桐さんは胸元で拳を握る。
「片桐さん、落ち着いてください。いらっしゃいませ」
「ごめんなさい。あの、あの」
片桐さんはもどかしそうに手近な空いている椅子に掛ける。
「私、漫画家デビューが決まりました!」
片桐さんがそう叫ぶ様に言う。すると一瞬店内がしんと静かになり、次には「わぁっ!」と歓声が上がった。
「凄いじゃないか!」「おめでとう!」
常連さんたちからそう称賛の声が次々と上がる。常連さんは片桐さんが漫画家を目指して
「ありがとうございます! あ、まずは注文ですよね。酎ハイの、今日はライムで」
「かしこまりました」
佳鳴と千隼が飲み物や料理の用意をしている間にも、片桐さんは口を開く。
「実はイベントで見てもらうのとは別に、投稿用も描いていたんです」
「投稿って、編集部に送るやつですか?」
「そうです。定期的になんとか賞みたいなのをやってて、そこに送ったのが目に止めてもらえたんです」
「じゃあそれがデビュー作になるんですか? はい、酎ハイお待たせしました」
「ありがとうございます。いえ、それが」
片桐さんは少し沈んだ声で言うと、酎ハイをひとくち飲んで息を吐き、ほんの少し眉尻を下げて苦笑の様な顔を見せた。
「実は原作とネーム、あ、コマ割りとか構成とかそういうのなんですけど、それは別の作家さんなんです」
「そういうことってあるんですか?」
「原作と作画が別の作家さんって言うのは、そう珍しいことでは無いんです。なのでそれでデビューでも全然おかしくは無いんですよ」
「そうなんですね」
「賞に応募していたんですけど、その賞とは全然関係無いところで話が進んだそうで。コマ割りとか構成は、前にも編集さんに言われたのと似たことを言われました。細かくてくどいって。でも表紙の1枚絵とか、絵柄そのものをとても気に入ってくださったそうで」
「それは喜ばしいことでは無いんですか? はい、お待たせしました」
今日のメインは豚だんごと春きゃべつと人参と焼き豆腐の味噌煮だ。彩りは絹さやで添えた。
お味噌や日本酒などの味付けでことことと煮た豚だんごはふくよかで、しんなりしたきゃべつや人参にも優しい煮汁が良く絡み、焼き豆腐にもしっかりと染み込んでいる。
小鉢はクレソンとじゃこのおひたしと、豆もやしとにらの酢の物。煮物が少しだが強いめの味なので、小鉢はあっさりとしたもので整えた。
「それはもちろん。それが無かったら引っかかりもしなかったんですから。なのでその会社が出してるライトノベルとかの絵師、ええっと表紙とか挿絵とか、要はイラストレーターとしてのデビューはどうかって言われたんです。でも私はやっぱり漫画が描きたかったので返事に困っていたら、じゃあ原作とネームを用意するから作画しないかって」
「それは、私たちは素人なのでとても良いお話に聞こえるんですけど」
「そうですよねぇ」
片桐さんは唸る。そして豚団子にかぶり付き「あ、美味しい。豚と味噌すごく合う」と嬉しそうに口角を上げた。
「私なんてデビューもできていないひよっこです。なのにそこまで絵柄を見てくれるって凄いことなんだと思います。でも私は自分で考えた世界も含めて漫画が描きたいんです。でもデビューできることは凄く嬉しいので、提案してくれたことに了解したんですけど、私の漫画、世界そのものを否定されたみたいで、そこは少しへこんでしまいました。漫画の才能が無いのかなって。あ、何度も言いますけどデビューは本当に嬉しいんですよ。親にもですけど、これまで話を聞いてくれた店長さんとハヤさんにも早く聞いて欲しくて、お店まで走って来ちゃいました」
「複雑なお気持ちなんですね」
「そうなんです! 複雑なんです〜」
片桐さんは
「じゃあ片桐さん、お勉強して見返しちゃいましょうよ」
「え?」
佳鳴の言葉に片桐さんはきょとんと声をもらす。
「言ってしまえば、授業料を払わずに、むしろ原稿料って言うんですか? そういうのをいただきながら、コマ割りとかのお勉強させてもらえるってことになりませんか?」
「あ、はい、そうですね。確かに勉強にはなると思います。プロの方のコマ割りを見て実際に描くことができるんですから」
「それで今以上にスキルを上げて、編集さんに片桐さんがいちから全部描いた漫画を突き付けちゃいましょう。お話はもちろんコマ割りや構成も、こんなに巧くなったんだぞって」
すると片桐さんはほのかに頬を紅潮させる。その目は輝いていた。
「私にできるでしょうか」
「継続は力なり、努力は裏切らない、なんて言いますよね。何もしないと発展は無いですが、まずは始めることだと思います。プロの方のものを見て描くのでも、ただ描き写すだけじゃ無く、自分の勉強のためにって思えばまた違って来るんじゃないかなって思います」
「そう、ですね。そうですよね。私やってみます。今よりもっとおもしろい漫画を描ける様になりたいです!」
片桐さんは力強く言って、両手で拳を作った。
「描けたら、自信作が描けたら読んでくれますか?」
「もちろんです。楽しみにしていますね」
「はい!」
片桐さんは笑顔になると酎ハイをぐいとあおり、「がんばります!」と明るい声を上げた。
数ヶ月後、移り変わった季節は初夏を映し出していた。また今年も猛暑になりそうな気配だ。
買い出しから帰って来た佳鳴と千隼は、買って来た食材などを煮物屋さんの冷蔵庫に手早く放り込み、並んでカウンタに掛けると1冊の雑誌を広げた。これも今買って来たものである。
「どこどこ?」
「姉ちゃん待って。目次どこだ」
普段あまりこの手の雑誌を読まないふたりは慣れていない。前から後ろからとぱらぱらとめくって、巻末に目次を見付けたふたりは、目的のものを探し出す。
「えっと、苗字は本名なんだよな」
「そうそう。あ、あった!」
佳鳴が指を差したページを開く。すると現れたのはふたりの若いエプロン姿の男性の立ち姿が描かれたカラーページだった。中頃にタイトルが大きく書かれており、その下には手掛けた作家の名前が記されている。
「わ、きれい。イケメン」
「本当だ。こりゃ確かに巧い」
これは片桐さんのデビュー作なのだ。原作は佳鳴たちでも知っている小説家が書く文芸書籍で、定食屋が舞台のお話だ。
片桐さんによる作画での新連載が、この女性向け月間漫画雑誌で始まったのだ。
今や電子書籍での連載も多い中、片桐さんは紙の本でデビューした。
掲載号が決まった時に片桐さんが嬉しそうに教えてくれた。作画も順調だとその時に言っていた。だが料理の描写に四苦八苦しているとも言っていた。
「雑誌が発売したら持って来ますね!」
片桐さんはそう言ってくれたが、佳鳴たちは待ち切れなくて買ってしまったのだった。
煮物屋さんの仕込みの時間もあるので、しっかりと読み込むのは夜にするとして、今はざっと流れる様に読んで行く。そして最後のページまで進むと、佳鳴たちは「はぁ〜」と大きな息を吐いた。
「さすが原作が有名なだけあっておもしろい。片桐さんの絵ももちろん凄いね! 華があって表情も豊かで、デッサンって言うの? そういうのがしっかりしてるのかな、スタイルとかのバランスが凄く良く見える。ご飯も美味しそうに描かれてたね」
「ああ。俺ら片桐さんの完全オリジナルを読んだこと無いけど、絵柄が良いって言う編集さんの言葉も解る気がする。これさ、片桐さんがいろいろ勉強してもっと巧くなったら凄いんじゃね?」
「そうだね。オリジナル読ませてもらえるのがますます楽しみになっちゃった」
佳鳴は楽しそうにそう言うと、「あ、そうそう」と口を開く。
「お持ちいただく前に読んじゃったことは、片桐さんに内緒ね」
「もちろん。俺の演技力が試される時だな」
「大根なんじゃ無いの〜?」
「アカデミー賞ものだっての」
そんな軽口を叩きながら、佳鳴は漫画雑誌を大切に胸元に抱いた。
「あとでちゃんと読むのも楽しみ。さ、仕込み始めようか」
「おう」
そしてふたりは立ち上がる。千隼は厨房に入り、佳鳴は漫画雑誌をリビングに置きに上がった。
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