第4話 たったひとつの豚汁

「お父さまに喜んでいただけて、良かったですねぇ」


 佳鳴かなるが言うと、星野ほしのさんは「はい」とはにかむ。


「本当にあんなに喜んでもらえるなんて思わなかったから、びっくりしちゃって。あの時のスーパーの定員さんにも本当に感謝だよ。何も判らずに野菜とか買ってたら、ちゃんと出来ていたかどうか。でも、作った料理を美味しいって食べてもらえるのって、すごく嬉しいことなんだね。それから僕も、誰かに手料理をごちそうになったら、美味しいって言う様にしてるよ。感謝の気持ちも込めて」


「それは素敵ですね。私たちも、お客さまに美味しいと仰っていただけたら、本当に嬉しいですもの」


「ここのご飯は本当に美味しいからね」


「ありがとうございます」


 その時、星野さんが何かに気付いた様に「ん」ともらし、手をジャケットの内側に添わせる。取り出されたのはスマートフォンだった。


「ああ、陽子ようこさん」


 画面を見て星野さんは呟く。女性の名前、彼女さんだろうか。星野さんはスマートフォンを操作して、手帳型のカバーを閉じるとまた内ポケットにしまった。


「陽子さんは父の再婚相手なんだ。ご縁があって2年ほど前に」


「仲良くされてるんですね」


「そうだね。反発する様な歳でも無かったし、父が良いなら良いかなって。まぁ僕はそのタイミングで家を出たんだけどね。一緒に暮らすのは気も使うし、ふたりの邪魔もしたく無かったし」


「なるほどです」


「ただね、父は再婚しても、豚汁だけは僕の作ったものしか食べないって言うんだよね」


 星野さんは呆れた様に、だがどこか嬉しそうに溜め息を吐く。


「自分でだって作れるし、もちろん陽子さんだって作れるよ。それに陽子さんは生の野菜を使うんだから、僕が作るものより絶対に美味しいはずなのに。でも何でかな、父はそう言うんだよねぇ」


「それは、星野さんが最初に作られた豚汁が、お父さまにとって本当に美味しくて、嬉しかったからなんでしょうねぇ」


 千隼ちはやのせりふに、星野さんは「あ〜」と空をあおぐ。


「やっぱり影響してると思う? そうだよねぇ。それしか考えられないよねぇ。だから陽子さん、また近いうちに豚汁作りに来てって」


 星野さんの言葉に、佳鳴は「ふふ」と小さく笑う。


「もちろんそれもあるんでしょうけど、お父さまと陽子さんは、単に星野さんのお顔をご覧になりたいのかも知れませんね。ご実家にお電話とかされたりしてます?」


「用が無かったらあんまりしないかなぁ。ひとり暮らしならともかく、陽子さんいるし、あんまり心配してないんだよね。まだまだ元気だし」


「それでもやっぱり、少しお寂しいのかも知れませんね。近々帰ってさしあげてくださいな」


「そうするよ。お味噌も僕が使う用に、出汁入りのやつ用意してくれているんだよ。液体のやつね。陽子さんだったら出汁から作ってくれるのに。でも父は「やっぱりお前の豚汁は美味しいなぁ」ってばくばく食うんだ。陽子さんも一緒になって「本当ねぇ」なんて言いながら食べてくれるんだよ。もう本当に申し訳無いやらなんやらで」


「お父さまは星野さんのお顔が見られて、星野さんの手料理が食べられるのが嬉しいんでしょうね。陽子さんもそれがお判りになるから、こうして星野さんにご連絡を入れられるんでしょうね」


「そうなんだろうねぇ。うん、これも親孝行って言うのかな」


 星野さんはそう言って、お椀に少しだけ残されていた豚汁をそっと飲み干した。




 それから星野さんは、もう少し話をして帰られた。そのあとも営業はつつがなく続き、料理が終わってしまったので、煮物屋さんも閉店だ。もうすぐ24時になる。


 後片付けをしながら、姉弟は星野さんの話をする。


「しっかし、星野さんの前の母親、なかなかアバンギャルドな人だったんだな」


「うーん、アバンギャルドと言うかデンジャラスって言うかねぇ」


 星野さんの実の母親は、後の再婚相手となる男性と駆け落ちした訳だが、数日後記入済みの離婚届を、何の一筆も無く送り付けて来たそうだ。


 それは母親にとって、父親への不満を表していたのかも知れないが、父親にとってはそんな身勝手は許せるものでは無かった。


 だが星野さんへの影響を考えたのだろう。父親は聞いてきたのだと言う。「お母さんをらしめて良いか」と。


 星野さんとて傷付いていたのだから、「うん」と考えることも無く頷いた。


 そこで離婚調停を起こしたのだが、その時渋々出廷して来た母親はこう言い放ったのだと言う。


「こんなに退屈な人だなんて思わなかった。毎日同じ時間に出て行って同じ時間に帰って来る、単調で何も無いつまらない生活。もうまっぴらだったわ」


 それは、普通の人の普通の、当たり前の生活である。だが母親はそれが我慢出来なかったのだ。


 母親の再婚相手は画家志望の男性で、ろくに働きもせずに絵ばかりを書いている人だった。


 そんな人と一緒になれば、芽が出ない限りは苦労するのは目に見えている。だが母親はそれを選んだのだ。


 苦労をしたいと言うよりは、刺激的な生活を求めたのだろう。


「そんなの会社勤めだったら、特に役所勤めなんだから結婚前から分かってたことなのに、何で結婚したんだろ、あの人」


 星野さんはそう言って首を傾げていた。


「もしかしたら、前のお母さまのお父さま、星野さんにとってはお母さま方のお祖父さまが、良く飲み歩いたりする方だったんでしょうかね?」


 佳鳴が言うと、星野さんは「ああ」と合点がいった様に声を上げた。


「そうかも知れない。あの人の実家に行ったら、お祖父ちゃんいつでもお酒飲んでた様な覚えがある。それを見て育ったから、男性はそういうもんだって思ってたのかも知れないね。だったらお祖母ちゃんは苦労したのかも。今はあの人もろとも音信不通だけど」


 再婚相手の雅号がごうも聞いたとのこと。佳鳴と千隼も教えてもらったのだが、あいにくさっぱりと聞き覚えは無かった。


「ってことは、まだ絵で身を立てれて無いってことかなぁ」


「どうかな。有名で無くても、食べていけるぐらいには売れてる人もいると思うよ」


「ああ、無名の画家ってところか。確かにそう言う人も多いんだろうな。俺らにはあんまり判らない世界だけどさ」


「私たちそっち方面無知だもんねー」


「でもさ、今は親父さんともその再婚相手の人とも仲良くしてるみたいだし、結果オーライってやつなんだろうな」


「そうだね。豚汁の思い出かぁ。何か良いねぇ」


「ああ。何か俺まで嬉しくなったぜ」


「私もだよ。お父さん、星野さんに会えるの楽しみにしてらっしゃるだろうなぁ。親子団らんの食卓、良いよねぇ」


「そうだな」


 それは、佳鳴と千隼にはとても羨ましいことだった。だからこそ星野さんにはその素晴らしい時間を、ぜひ大切にして欲しいと切に願うのだった。

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