4章 光の向こう側

第1話 それは小さな世界を創る

 冬の気配もすっかり濃くなり始め、息もそろそろ白くなるころだろうか。朝ベッドから出るのが嫌になるだろうかというころ。


 煮物屋さんの常連さんで、毎週日曜日の遅めの時間に来るお客さまがいる。いつもはつらつとしていて、大きな声で笑う、とても気持ちの良い女性だ。


 今日は日曜日。そろそろ21時になるだろうか。佳鳴かなるは厨房に置いてある小さな置き時計に目を走らす。


 そのタイミングで、煮物屋さんのドアが開かれた。


「こんばんは!」


 鼻を赤くして元気な挨拶とともに入って来たのは、先述の女性の常連さん、高橋たかはしさんだ。


「こんばんは、いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませー」


 高橋さんはせかせかとコートを脱いで椅子に掛け、千隼ちはやからおしぼりを受け取った。


「あ〜お腹ぺっこぺこだぁ。ハヤさん、まずはハイボールください! お米とお味噌汁はいつも通り締めにいただきますね」


「はい。かしこまりました」


 この高橋さん、とても良く召し上がるお客さまで、まずは酒を飲みながら料理を食べ、その後に白米と味噌汁を召し上がられるのだ。


 ハイボールを作ってお渡しし、続けて料理を整える。今日のメインは豚肉と長芋の煮物。彩りはほうれん草だ。


 豚肉はロースの塊肉を買うことができたので、贅沢に厚めに切り、軽くお塩を振ってフライパンで香ばしく焼き付ける。


 長芋は半月切りにし、こちらも厚めに切ってある。火を通すとほくほくになる長芋のお陰で煮汁にほのかにとろみが付き、豚肉に良く絡む。味沁みも良く、柔らかな旨味が口に広がる。


 小鉢はタラモサラダと青ねぎたっぷりの卵焼きだ。


 タラモサラダは明太子を使った。マヨネーズは控えめに、明太子のぷちぷちとふくよかな辛みを活かす。


 荒く潰したじゃがいもに和えるので、和え衣は少し強い味でも大丈夫なのだ。隠し味に、じゃがいもが熱いうちにバターを落としている。


 少しぴりっとしつつもしっかりとした甘さと旨味が感じられる一品だ。


 青ねぎの卵焼きにはお出汁を加えてあるので、青ねぎの爽やかなアクセントがありながらも優しい味わいである。


「あ〜っ、ハイボールが沁みるぅ。この煮物、白いのが長芋ですよね?」


「そうですよ」


「長芋のこんな食べ方、私初めてです!」


 高橋さんはさっそく長芋をはしで割り、口に入れる。そして「へぇ〜」と目を丸めた。


「ほっくほくだぁ。あ、でもそっか、串かつの長芋もほくほくですもんね。長芋って火を通すとこうなるんですよね。美味しいです! 豚肉も美味しいです!」


「ありがとうございます」


「タラモサラダとか卵焼きとか、こういうのも作るのって地味に面倒だったりしますもんね。だから嬉しいです! ここで食べたら確実に美味しいの判ってますから!」


「ふふ、ありがとうございます」


 高橋さんの称賛に、佳鳴は笑みをこぼす。こんなことを言ってもらえて、嬉しく無い訳が無い。


「あ、高橋さん、お預かりしていたフライヤー、終わりましたよ」


「本当ですか!? ありがとうございます!」


 千隼のせりふに、高橋さんはぱぁっと満面の笑みを浮かべた。


「本当に助かりました! そう数を刷った訳じゃ無いので、ノルマも多くは無かったんですけど、実際問題、どこに配ったら良いんだって話で。会社で配っても限度がありましたから」


 高橋さんが心底ほっとした様に笑みを浮かべると、少し離れた席から声が上がった。常連の男性、赤森あかもりさんだ。


「高橋さん、俺もフライヤーもらったぜ。絶対に観に行くからな!」


「わぁ赤森さん、ありがとうございます!」


 赤森さんの活きの良いせりふに、高橋さんは笑顔を投げた。


 この煮物屋さんで、高橋さんが所属する小劇団の公演のフライヤーを預かっていたのだ。それを会計の時にお客さまに手渡ししていた。


 ハガキサイズなので店内で場所を取ることも無く、お客さまも受け取りやすかった様だ。


 劇団員のおひとりがデザイナーで、その方が制作を手掛けたのだと言う。確かに素人臭さのまるで無い、格好良いフライヤーだった。


「もう来週なんですねぇ。練習はどうですか?」


 佳鳴が聞くと、高橋さんは「順調です!」と元気に応える。


「まだまだつたないって解ってはいるんですけど、皆一生懸命です。少しでも良いものを観てもらうんだって。お話そのものは著作権の切れた名作の現代版アレンジですから、オリジナルよりは馴染んでいただけるかなって思うんですけど」


「そうですね。取っ掛かりがあれば、ご覧いただきやすいでしょうしね」


「それはそれで、ご覧いただく方との解釈違いとかもあるかと思うんですけど、そこは違いを楽しんでいただきたいです」


「奥が深いんですねぇ」


 高橋さんは舞台女優なのだ。ご本人は「そんな大げさなものじゃ無いですよ」と謙遜けんそんされるが、1度舞台に立てば、そしてそれを継続されているのなら、もう立派な女優さんだと佳鳴たちは思っている。


 高橋さんいわく、これは「クラブ活動」の延長の様なものなのだと言う。毎週日曜日の夜の2時間ほど、スタジオを借りてストレッチや発声練習をしているのだ。


 そして本番は1年に1度。発表会の様な感覚らしい。舞台と客席の境があまり無い様な、そしてその客席も座布団敷きの小さな小さな劇場をレンタルする。


 お客さまからいくばくかの入場料をいただくが、それは全て経費に消える。


 気楽に活動をしてはいるが、決してふざけていたり手抜きをしている訳では無い。皆さん、楽しみながら真剣なのだ。それは高橋さんの話からも伝わって来る。


 年に1回の本番前、その週だけは毎日練習をするのだと言う。


「来週は毎日練習です。せりふを覚えたりは個人で家でも出来ますけど、合わせるのはそうも行かないですからね。本番まで少しでも良いものにしたいですから」


「私たちも拝見したいんですけど、お店がありますからねぇ」


 公演日は来週末の土曜と日曜の晩。計2回公演である。


「思い切って休みにしちゃえば? あ、高橋さん、私たちも観に行くからねー」


 門又かどまたさんが言い、さかきさんと並んで高橋さんに手を振った。


「ありがとうございます!」


 高橋さんは門又さんたちにがばっと頭を下げる。


「そうですねぇ」


 佳鳴はふわりと笑う。


「ふふ、そんなことを言われたら揺らいじゃいますねぇ。前の時も拝見出来ませんでしたからねぇ」


 高橋さんがこの煮物屋さんの常連になってから、今回が2回目の公演なのだ。前回の時もフライヤーを預かった。


 まだ煮物屋さんに来始めたころの高橋さんが、フライヤーの束を手に大きな溜め息を吐かれていたものだから、佳鳴がつい声を掛けてしまったのだ。


 するとフライヤーの配り先に困っていると言うので、煮物屋さんでお預かりすることにしたのだった。


「でも店長さぁん、まだ1週間もあるからぁ、今からだったらお休みするって言っても大丈夫じゃ無ぁい?」


 榊さんの言葉に佳鳴は「そうですねぇ……」とうなってしまう。


 高橋さんの公演を見たいのは本心なのである。劇団のことを話す高橋さんは本当に楽しそうできらきらしていて、そんなにも打ち込めるものがあるのが羨ましい、そして素晴らしいと、微笑ましく思っているのだ。


 そんな佳鳴の気持ちを千隼も知っているので、千隼は「たまには良いんじゃ無いか? 姉ちゃん」と軽く声を掛ける。


「ここ始めてから月曜以外の休みって無かったじゃん。今からチラシとか貼って周知したら大丈夫だって。たまには2連休しようぜ」


 千隼にも言われ、佳鳴は心を決めた。


「じゃあそうさせていただこうかな。申し訳ありません皆さま、来週末の日曜日はお休みをいただきますね」


 佳鳴が言ってカウンタの向こうに頭を下げると、お客さま方は「はーい」「楽しんで来てね〜」と暖かい言葉を掛けてくださった。


「店長さんとハヤさんにも来ていただけるなんて、本当に嬉しいです! がんばりますね!」


 高橋さんは本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、佳鳴と千隼も笑顔を返した。

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