私の消しゴムヒーローさん

朝倉亜空

第1話

 和也のご両親とも会った。結納も済ませた。式はあまり派手にせず、身内だけでこぢんまりと執り行う予定だ。

 もうすぐ、私は和也の妻になり、一緒に暮らすことになる。大学進学を機に一人暮らしを始めたこの部屋ともサヨナラだ。今日は部屋の片付けに和也も手伝いに来てくれている。私たちの新生活にいるもの、いらないものを分け、いらないものは思い切って捨てる。断捨離だ。趣味で集めた手芸の本は、半分以上、捨てなければならないだろう。他にもいろいろと。

 必要なものは部屋の隅っこに固めて置き、不要なものは大きめの段ボール箱に放り込んでいた。

「ん? その消しゴムは……」机の引き出しの奥から出てきた、小さな消しゴムを見て、和也が言った。「マスクドセブンのこれ、懐かしいなあー」

 それはカッターで真ん中から上下二つに切り分けられた下半分の、小さなものだった。厚紙性の保護ケースには、私や和也が小学生の頃にテレビで流行っていた、「戦闘部隊マスクドセブン」の絵柄が描いてあり、カッターはちょうどその厚紙の真ん中あたりで切ってあった。

「当時、大人気でさ、クラスの男子のほぼ全員が持ってたっけ」和也が言った。

「ああ、これね……」私は言った。

 長年、私はこの消しゴムが捨てられないでいた。こんな小さなものなのに、今もまだ捨てるかどうか迷っているのだ。

 和也には少し気が引けて言いづらいのだが。

「小学校時代の友達がくれたのよ」私は和也に話し始めた。「友達っていうのかな……。実は名前も知らないんだけど……」

 それは、小学六年生の時。私は地元では少し名の通った中学を受験した。ところが、人生初の受験ということで気負いすぎていたのか、試験当日に私は消しゴムを持っていき忘れてしまったのだ。何度、筆箱の中を探しても、消しゴムは見当たらない。無いものは無い。テスト開始まで、あと数分。パニックになり、思わず私は小さな嗚咽を漏らして泣いていた。

「君、どうかしたの?」

 隣の席の男の子が、気遣って、声を掛けてくれた。消しゴムを忘れたことを私が話すと、彼は「じゃあ、こうすればいいよ」と言って、工作用のカッターで自分の消しゴムを保護ケースのところで真っ二つに切り、下半分を私に手渡した。

「中学になるのに、ヒーローものの消しゴムってガキみてーで笑っちゃうだろ。まあ、これにて一件落着~」ちょっと照れ気味にニコッと笑い、彼は言った。

「あ、ありが、とう……」私は言葉を詰まらせながら言った。安堵と彼の優しさで胸がいっぱいだったからだ。その時、ヒーロー消しゴムを渡してくれた彼は、まさに私の救いのヒーローだった。そして、そのニコッと笑うヒーローの笑顔に私は好印象を持った。

「君って、消しゴムは忘れても、お弁当は忘れてなくてよかったね」

 昼休みの時間に、屈託なくニコッと笑いながら、彼が話しかけてきた。

「い、嫌だな。からかわないで。でも、本当にありがとう。テスト終わるまで、消しゴム借りとくね」私は言った。

「いいよ、そんな子供っぽいもんなんか。君にあげるよ」彼は答えた。

「それじゃ悪いわ。まだまだ使える大きさだし」

「うーん。じゃあ、こうしよう。春に、この学校で返してもらうよ。だから、午後のテストもお互い頑張ろう!」彼はまたニコッと笑った。瞬間、私の心臓がドキッと震えた。

「そうね。そうしましょう!」私も笑顔を返した。

 彼の消しゴムのおかげで、私は午後からのテストも安心して臨むことができた。

 けれど、結局、私は不合格で、その学校には通えず、消しゴムも返せずじまいとなったのだ。

 思えば、彼は私にとって、忘れられない初恋のヒーローだったのかもしれない。だから、捨てられずに、今日までこれを持っていたのだ。

 高校時代に一度、大学に通うようになって二度、異性と付き合うことがあった。皆、優しくて頭の良い男の子たちであった。だが、捨てられないこの消しゴムを見るたびに、何か心に引っかかりが残り、結局、すぐに別れるのだった。

 和也とは就職して三年目に知り合い、付き合い始めた。いつまでも子供のように初恋がとか、心に引っかかりがとか、言っていてもしようがない。

「今の私には和也がいるのに、なんかゴメンね。こんな話、今まで言わずにいて……。未練がましくて女々しいよね、私……」これは捨てるね、と言って、私はその小さな消しゴムを取って、段ボール箱に捨てようとした。ところが、和也の手がそうしようとする私の手を握り、止めさせた。

「別に捨てなくていいと思うよ。それに、女なんだからさ、女々しいのは当たり前、でしょ?」和也は言った。「……タイプだなって。俺の中学入試の時にさ、テストに集中しなきゃいけないのに、試験会場で自分の隣の席の女の子がタイプだなってドキドキしてさ。そしたらその子、ベソかき始めちゃってさ、わたしぃ、けしごむわすれましたぁ、うえーんって……」言った後、わははと和也は大笑いした。

「え?」

 少し戸惑う私に和也は話し続けた。

「その時、初めて好きになった女の子と自分の消しゴムを半分個した」

 だからその消しゴムは捨てるんじゃなく、俺に返してくれなきゃと、和也はニコッと笑って言った。

 私は、なぜ和也の屈託のない笑顔にどうしようもなく惹かれていたのか、その理由がようやく分かった。

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