黄色い車が教えてくれたこと

星名雪子

1、プロローグ

俺は途方に暮れていた。どれだけキーを回してもエンジンがかからない。もう一度キーを回してみる。ブルル、と聞き慣れた音が響くが、その後はうんともすんとも言わない。俺は舌打ちをしながらキーを引き抜き、車から降りると乱暴にドアを閉めた。あまりの苛立ちから思わずドアを蹴ってやろうと思ったが、うんともすんとも言わなくても、こいつは俺の大事な相棒だ。傷をつける訳にはいかない。ドアに背中を預け、腕組みをしながら暫く考え込んだ。


これからみどりを迎えに行かなくてはならない。レンタカーでも借りに行くか? いや、今からでは時間に間に合わない。俺は再度舌打ちをすると、スカジャンのポケットからスマホを取り出した。しかし、そこではたと気付いた。そういえば古い車庫の中に親父の車がある筈だ。俺はスマホをしまうと家の反対側にある今は全く使われていないその古い車庫目がけて走り出した。


それはひっそりと佇んでいた。入り口のシャッターは茶色く所々錆び付いており、車庫の周りは雑草が生い茂っている。俺はシャッターを開ける為に下から思い切り持ち上げようとしたが、錆び付いている所為か開かない。悪態を吐きながらもう一度、今度は全身の力を振り絞ってシャッターを持ち上げると軋んだ音を立てながらガラガラと勢いよく開いた。俺は膝に両手を当てながら息を吐くと、目を上げた。見覚えのある黄色い車が俺のことをじっと見つめていた。


「……」


何となく視線を外すことができず、暫くそいつと見つめ合っていた。丁寧に磨き上げられ、丸みを帯びた車体は年季が入っているにも関わらず新品のように輝いており、側面には車種のロゴが入った太くて黒いラインが引かれている。最近の車に比べると一回り小さく、見るからに古いタイプの車だと分かる。そいつはまるで自分の相棒である運転手の帰りを待っているかのようだった。


「そんなに見ても、お前の相棒はもう二度と帰って来ねえぞ」


俺は酷く苛立っていた。そいつに「俺が待っているのはお前じゃない」と言われているような気がしたからだ。舌打ちをしながらドアを開けようとして気が付く。キーがない。俺は車庫の中を探し回り、片隅で埃を被っているそれを見つけると急いでドアを開けた。長年使われていない所為か車内は埃っぽい。どこか懐かしい匂いがした。親父が乗ったのを最後に奴はまるで時が止まってしまったかのように依然として沈黙を守っている。


最近の車と違って搭載されている機能は全て古い。窓の開閉は手動、カーステレオは未だにカセットテープ、今は殆ど見かけなくなったシガーソケットと灰皿もまだ健在だ。親父はこの車が好きで俺が物心付いた頃から既に乗り回していた。俺はその時、忘れかけていた幼い頃の記憶が微かに脳裏に蘇るのを感じた。その独特の雰囲気に飲まれ、暫く放心していたが、ハッと我に返ると慌ててキーを回した。こいつも動かなかったら……と、いささか不安はあったものの不思議な事に驚く程すんなりとエンジンが作動した。二、三回アクセルを踏んでエンジンのかかり具合を確認する。問題はなさそうだ。


俺は発車する前に一旦身だしなみの確認をした。パーカーの上にスカジャン、下はデニムだ。バックミラーで自分の顔と髪型を見る。髭はきちんと剃ったし、短い髪はワックスで軽く整えてある。どんなに急いでいる時でも最終確認は怠らない。これは婚約者である翠と会う前に、車内で必ず行う俺のルーティンだ。ギアを操作し、車を発車させる。マニュアル車を運転するのは久々だったが、不思議と恐怖はなかった。


スピードを緩め、見慣れたマンションの前に車を寄せるとエントランスから翠が顔を覗かせてこちらの様子を伺っているのが見えた。見慣れない車に怪訝そうな表情を浮かべている。ふんわりとした明るく茶色の髪は耳の下辺りで切り揃えられ、春らしい花柄のワンピースにカーディガンを羽織っている。ハッとするような美人でもないし派手さもないが、明るくよく笑うとても愛嬌のある子だ。ハードな見た目の俺とは正反対の雰囲気である。俺は手動で窓を開け、声を上げた。


「悪い、遅くなった」


「……すばる? その車なに?」


「説明は後だ。とにかく乗ってくれ」


俺が助手席を指すと翠は軽く頷き、小走りでエントランスから出た。道路に車がいないことを確認して素早く助手席に乗り込んだ。


「これ、古い車だよね?」


「ああ、親父のやつだ。俺の車が突然、動かなくなっちまって……急いで古い車庫から引っ張り出してきた。それで遅くなった」


「なかなか来ないし、電話もないから何かあったのかと思ったんだけど……そっか。これ、お父さんの車なんだね」


翠はそう言うと、車内をぐるっと見回した。それは先程、初めてこいつを見た時の怪訝そうな表情とは違っていた。大きな目を更に丸くして興味深そうな様子だった。それはまるで、初めて買ってもらったおもちゃを前にして目を輝かせる子供のようだった。彼女は特に、運転席と助手席の間に設置されている機能の数々に興味をそそられたようだった。カーステレオの中に手を突っ込んで、中身を確認している。


「カセットテープ……聞いてみたかったな」


俺と翠にとってこの車や搭載されている機能はどれも自分達が生まれ育ってきた時代と全く違う時代の代物だ。親父が長年、好んで乗っていた影響で俺にとっては珍しいものではなかったが、彼女にとっては全てが新鮮に見えるようだった。翠はふと、フロントガラス付近にある古い小さなカーナビに気が付いて言った。


「カーナビ、スイッチ入れないの?」


「必要ないだろ」


今日はドライブがてら俺と翠が気に入っているイタリアンレストランへランチをしに行く予定だ。そこにはこれまでもう何度も通っており、ルートは頭に入っている。カーナビに頼る必要はない。翠は普段から好奇心旺盛で、特に初めて目にする物や体験する物に関してはとても興味を示すが、深く考えもせずに思った事をそのまま口にする癖がある。彼女の事は好きだが、その性格には度々頭を悩まされている。


「確かに必要ないかもしれないけど……せっかく車を動かしたんだから試してみようよ」


目を輝かせながら満面の笑顔でそう訴えかけられ、俺は言葉に詰まってしまった。


「……仕方ねぇな」


少し面倒だとは思いながらも俺はカーナビのスイッチを入れた。ぼんやりとメーカーのロゴが浮かび上がったが、画面は動かない。俺と翠は暫くその真っ黒な画面を見つめていた。が、やがて諦めたように翠が口を開いた。


「やっぱり駄目かな……」


「そうだな、諦めた方がいいかもな」


この車は親父が死んだ時を最後に使われなくなった。何かあった時の為にと車検にだけは出すようにしていたが、カーナビのことまでは気が回らなかった。この車が世に出回った当時、もちろんカーナビはまだ存在しなかった。その為、親父は地図を使っていたが、カーナビが登場するとすぐにそれを購入し、愛車に取り付けたのだ。親父が死んだのは二年前だが、それからずっと放置されていたのだから使えなくなって当然かもしれない。


俺はカーナビのスイッチを切ろうと手を伸ばした。その時だった。急に画面が真っ白になり、地図が表れた。古い地図ではあるが、翠が住んでいるマンションの名前や近くの店の名前が表示されており、思うほど不便さはなさそうに見えた。


『目的地に進みます』


「お、おい、俺は何も設定してねぇぞ」


「私もだよ⁈」


俺と翠は酷く動揺し、顔を見合わせた。慌ててスイッチを切ろうとしたが、電源ボタンを押しても画面は消えない。カーナビはずっと同じ場所を指し示していた。俺は苛立ちを覚え、翠に言った。


「こいつは無視するぞ」


「えっ⁈ なんで⁈」


「こんな訳の分からないものに付き合ってられるかよ」


俺は吐き捨てるように言ったが、翠はその反対だった。にこりと笑いながら口を開いた。


「昴、せっかくだからカーナビの指示通りに行ってみようよ」


「はぁ? お前、マジで言ってんの?」


「うん。だって何だか面白そうだから」


「今日はいつもの店に行くんじゃなかったのか? いいのか?」


「それはいつでも行けるから。今日はカーナビで冒険してみようよ」


翠はそう言うと、楽しそうににこりと笑った。俺はまた言葉に詰まってしまった。暫く彼女の笑顔とカーナビの画面を見比べていたが、俺は諦めて溜息を吐いた。


「……仕方ねぇな」


俺の言葉に、翠は一層嬉しそうに微笑んだのだった。

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