その少年の初恋は灰色の空に溶けた

つかさ

第1話

 年が経つにつれ、記憶というものは薄れていく傾向にあるが、こと初恋の記憶についてもそれがどれだけ若かりし頃であってもうっすらとでも覚えているもんだ。

 僕の場合はたしか小学校3年生くらいの頃、毎年冬に家族旅行で訪れている新潟の旅館でのことだ。その年に訪れた日はたまたま旅館を営んでいる老夫婦の娘さん夫婦が遊びに来ていた。ご夫婦は新潟の別の町に住んでいて、毎年この時期の数日間、手伝いに来ているらしい。中学一年生になる娘さんがいた。

 日も落ちかけて夕食までもう少し時間があるという中、昼間はずっとゲレンデでそり滑りにはしゃいでいたのに、まだ体力が余って旅館内をソフビの人形片手にせっせと歩き回る僕に苦笑いした両親を見て、彼女は「お姉ちゃんも一緒に遊んでいいかな?」と首を横にかしげながら聞いてきた。

 子守役を買って出てくれた彼女に、両親はへこへこと申し訳なさそうに何度も頭を下げる。「いいですよ。私も暇だったんで」と笑顔で言う彼女を見て、僕は誰かと遊びたくて仕方ないんだ、と盛大に勘違いをして、「いいよ!遊んであげる」と無邪気に上から目線で答えた。それを聞いて、両親はまた頭を下げた。


 旅館の中はほかの客に迷惑なので、僕はうまいこと旅館の外に誘導された。もちろん、そんなこと気づくわけもない。

 お昼ごろはゲレンデの雪を溶かしそうなほど強い日差しが照らしていたのに、今は灰色一色のの空に覆われている。寒さも一段と増しているけれど、そんなこと子どもの頃の僕には関係なかった。雪かきで集まった小さな雪の山の頂を両手で掬い、それをぎゅっと握った僕は「えいっ!」と彼女に向かって投げた。雪玉は防寒具をしっかり着こんだ彼女の胸あたりに当たった。雪玉は弾けて、顔にも雪が少しかかった。


「きゃっ!つめた……」

「へっへーん!打ち取ったりー」

「……やったなぁー!」


 火が付いたのか、そこから彼女の猛攻がはじまる。たっぷり雪が積まれた場所に陣取り、右手と左手でそれぞれで器用に小さい雪玉を作っては的確に僕を狙う。しかも、全て顔に。恐るべきコントロール力。これが本場雪国に住む者の実力か……と思ったか思わなかったかは覚えてない。顔にぶつかるたびに僕は後ずさりしていく。


「うわっ!?」


 長靴がつるりと滑り、僕は背中から雪の中にダイブした。大の字に凹みができて、小さな少年の体を雪がすっぽりと包み込む。首元や長靴の隙間から雪が入って冷たい。


「ちょっと大丈夫!?」

「だいじょーぶ!」


 慌てて駆け寄ってきた彼女に精一杯の虚勢を張る。本当は冷たくてしかたなかった。早く旅館の温泉に入りたかった。でも、男の子としては女の子に見栄を張りたかったのだ。そんな強がりもきっと見透かされていたんだろう。


「うん。かっこいいぞ。でも、ほら一人じゃ立つの難しいから。ね?」


 彼女が右手を僕のほうにすっと伸ばす。

 しんしんと雪が降りはじめ、赤いニット帽から頬へ流れる彼女の艶やかな黒髪に白い結晶がデコレーションされる。その雪のような肌は頬だけ薄紅に染まり、言葉を紡ぐたびに吐き出される白い息は空に舞い上がっていく。


「うん……」


 紺色の毛糸の手袋に包まれた彼女の右手は暖かかった。


 いや。あれだけ雪玉を投げた手だ。すっかり冷えているはずなんだ。それなのに暖かいと思ったのは、それを握る僕の手の体温がどうしようもなく高くなってしまっていたから。でも、それが理解できるほど小さかった僕はかしこくもないし、自分の心模様に気づけるかなんてまさに論外だ。


「それじゃ、戻ろっか」


 彼女に連れられる。引き上げられた時に繋いだ手はそのままで。

 旅館の玄関まで戻ってきて、僕はその手を振りほどき、


「……今度は負けない!来年また勝負だからな!」

「うん。また来年会おうね」


 僕はなぜかわからないけど真っ赤になった顔で宣戦布告して、ダッシュして熱々の温泉に駆け込んだ。

 夜、寝付くのが早かったのはやっぱりまだ僕が幼かったからだろう。



 それから、彼女と再びあの旅館で会うことはなかった。

 なに、別に悲しいことなんて起きてはいない。僕たち家族が旅行する日と、彼女たち家族が手伝いに来る日が同じになることが珍しいのだ。

 中学を卒業するころ、その旅館は廃業したと両親から聞いて、冬の家族旅行もそれから行くことはなくなった。


 こうして、僕の初恋は音もたてず、ただ熱だけを帯びたまま灰色の雪の空へ溶けてなくなった。

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その少年の初恋は灰色の空に溶けた つかさ @tsukasa_fth

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