記憶の片隅に眠るもの

杜右腕【と・うわん】

第1話 靄の中

 周囲は乳白色のもやに覆われている。視界は一〇メートルも無いのではないだろうか。

 靄の奥に建物や人の影が薄っすらと見える気もするが、気のせいかもしれない。

 なぜ、どこに向かっているのか、私にも分からない。でも、何かに惹かれるように何の迷いもなく歩いていた。

 どのくらい歩いただろうか。靄が徐々に濃くなり、伸ばした手の先がぼやけるぐらいになった頃、靄の中から古い家屋の玄関に使われるような、安っぽい合板の扉が現れた。建物は見えない。靄の中に扉だけが浮いているような不思議な光景。

 ドアノブを捻って入ると、そこは決して広いとは言えない部屋。

 やや擦り切れた安っぽい平織のカーペットも、日に焼けた壁紙も、全てあるべき色を失い、部屋の中はセピア調の古い写真のような光景だった。

 そんな部屋の隅には腰の高さしかない、二段の棚が置かれ、そこには大小様々な本が統一感なく収められていたが、なぜかその本だけは色があった。赤、青、黄色、ピンク。子供向けの本らしく、色とりどりの背表紙が部屋の中で浮くように目立っていた。

 私は惹かれるように一冊の小さな絵本を手に取ってみた。大人が読み聞かせるような大判の物ではなく、子供が自分の手で持って読めるような十数センチ四方の小さな絵本。

 題名は『たしざん』。

 中を見ると、シンプルな線画のかわいい小人とフクロウが、いろいろな物を使って足し算をしている。フクロウが先生役で、小人の活動に合わせて足し算を教えているが、押し付けるような感じは無く、自然に小人の興味を惹いて導いている感じが、シンプルな絵柄と相俟あいまって、とても優しい絵本だ。

 この本には見覚えがある。幼い頃持っていて、何度も何度も読み返した本だ。

 私は懐かしい気持ちになりながらそれを本棚に戻し、別の一冊を手にした。

 さっきの物よりずっと大きいサイズの絵本。表紙にはジャングルと思しき場所で顔のあるフライパンをヒョウが不思議そうに手にしている絵。

 題名は『ふらいぱんじいさん』。

 ああ、これも小さい頃に好きだった本だ。本がぼろぼろになるまで何度も何度も読んだ。

 ふと気になって本を閉じ、背表紙を見る。ぼろぼろになって剥がれかけた背表紙の様子に見覚えがある。

 私は『ふらいぱんじいさん』を棚の上に置き、他の本を次々に見て行く。どの本も古く汚れていて、その汚れ具合に見覚えがある。その中の一冊には、表紙裏に拙い字で名前も書かれていた。

 間違いない。ここにある本は、全部私が幼い頃に出会い、愛し、そしていつの間にか失っていた本たち。記憶の引き出しの奥にしまわれていた、私を本好きにしてくれた仲間たち。その多くが絶版であり、いずれこの世から消えていく運命の本たち。


 そうか。もうお別れの時間なんだね。


 みんな、ありがとう。

 人生の初めに君たちに会えてよかったよ。

 そして最期に君たちに見送ってもらえる私は、幸せな人生だったよ。


 願わくは、来世でも君たちのような本に出逢えますように。

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記憶の片隅に眠るもの 杜右腕【と・うわん】 @to_uwan

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