第10話
いつもより遅い登校時間。卒業式に参加するため、両親や友達と登校する同級生達をぼんやりと眺めながら、3年間通い続けた通学路を歩く。
秀樹さんが家で美緒を見てくれることになっていたから、母と一緒に来ることもできたけど、俺は一人で登校することを選んだ。
それは別に、母と二人で歩くのが恥ずかしいという、思春期の少年らしい理由ではなく、昨夜のこともあって、母と二人きりになるのが気まずかったのだ。秀樹さんは、中学最後くらい一緒に登校したらと言ってたけど、母は、お互い一人で行った方が気楽だからいいのよと、俺を先に送り出してくれた。
昨夜からの憂鬱を引きずったまま、重い足どりで歩いていると、突然後ろから声をかけられる。
「朱音ちゃん!」
振り返ると、晴翔の母親が笑顔で俺に駆け寄ってきて、その少し後ろでは、晴翔が少しきまり悪そうな表情を浮かべていた。
「一人?お母さんは?」
「後から来ます」
「だから言ったじゃん、中学生にもなって、卒業式だからって親と登校するやつなんていないって」
「そんなことないわよ、さっきもクラスの子ご両親と歩いてたじゃない」
「ほぼ女だろ」
「男だってたまにいたわよ!」
なんやかんや言い合いながらも、見た目図体のでかい晴翔が、母親に逆らえず一緒にくる姿が微笑ましくて、俺は思わず笑ってしまう。
「でも中学卒業しても、朱音ちゃんと優樹君が同じ高校で本当に心強いわ。二人がいなかったら、こいつ高校いかないでプー太郎かヒモになってるところだったわよ」
「は?なんねえよ!ちゃんと働くって言ってただろ」
「中卒と高卒と大卒じゃ就職しても給料が全然違うのよ!全く世の中のこと何もわかってないんだから。ねえ」
同意を求められたけど、俺もあまりよくわかってないから、今度は曖昧に苦笑いすることしかできない。
「ところで朱音ちゃん、晴翔また変なこと言ってない?」
「え?」
急に声を密め尋ねてくる言葉の意味がわからず聞き返すと、晴翔のお母さんは、小声のまま大真面目な顔で言った。
「朱音ちゃんが行くからって、晴翔がやる気だして西校受かったのは嬉しいんだけど、小さい頃からこの子、朱音ちゃんお嫁さんにするとか馬鹿なこと言ってたでしょ?もしかして、いまだにしつこくしてるんじゃないかしらって心配になっちゃって」
「おいババア!何訳わかんないこと言ってんだよ!」
「ババアとは何!今度言ったらあんたの股間蹴り上げるわよ!」
どう答えたらいいのか迷って一瞬固まったけど、おばさんの晴翔への切り替えしがおかしくて、すぐに力が抜ける。
「全然大丈夫ですよ」
「本当!ならよかった。あら、あれ優樹君じゃない?優樹くーん」
見ると数メートル先の角から優樹が一人歩いてきて、騒がしい俺らにすぐに気づく。
「あ!お久しぶりです」
「何よ、優樹君も一人で登校なの?」
「だから言っただろうが!男で卒業式だからって親とくるやつなんていないって」
「そうかしら?」
そのまま4人で中学まで一緒に行き、学校に着くと、俺と優樹と晴翔は校舎の玄関へ、晴翔のお母さんは体育館へと向かった。
「それにしても、晴翔のお母さん相変わらずパワフルだよな」
「マジ勘弁してほしい」
下駄箱に靴を入れながらそう言う優樹に、晴翔が舌を出し顔を歪める。でも俺は、晴翔のお母さんのおかげで、気が紛れたからよかった。
「朱音と晴翔は、卒業式終わったらそのまま彼女とデート?」
「…」
だけど、屈託なく尋ねてくる優樹の言葉で、俺はすぐに、今日自分のすべきことを思い出し心が沈む。
「俺のは彼女じゃねえって何回も言ってんだろ?それより優樹は卒業式の後どうするんだよ」
応えられない俺の代わりに、 晴翔が何気なく話題をそらしてくれた。
「俺は陸上部のみんなとファミレスに集まって卒業パーティ。でもさ、今日じゃなくてもいいから春休み3人でも遊ぼうぜ」
「うん!」
優樹が3人でと言ってくれたことが嬉しくて頷いたら、優樹はなぜか戸惑ったように俺から目を反らす。
「だから朱音は笑顔が眩しい、はあ、俺も彼女作らなきゃな」
「いいよ優樹は作らなくて」
「なんでだよ!」
優樹に突っ込まれたけど、それは紛れもない俺の身勝手な本音だった。
谷口と優樹が仲良くしていただけで激しい嫉妬に苛まれ、こんな状況を生み出してしまった自分。もし本当に優樹に彼女ができたらどうなってしまうのか、想像するのも怖い。
「早く行こうぜ」
下駄箱の前で話す優樹と俺を、上履きに履き終えた晴翔が廊下から促す。久しぶりに3人並んで3階の教室に向かいながら、俺は、懐かしいような切ないような、寂しさにも似た感情が込み上げる。
小学生の時は、こんな風に毎朝3人で小学校に通い、放課後も飽きるほど一緒に遊んで過ごしていたのに、中学に入ってからは、3人で登下校することも遊ぶこともほとんどなくなった。
(このままなら良かったのに、小学生の時のまま、好きだとか、彼女がほしいだとか、そんな感情気づかないまま、3人で過ごせたら…)
教室に入ると同時に、俺たちはそれぞれ自分の席へ向かう。空のカバンを机に置き、いつものように谷口を目で探すと、槙野達と何やら楽しそうに話していた。俺の告白のせいで孤立した谷口が、槙野や渡辺といるようになってから、もしかして無理してるんじゃないかと心配だったけど、意外にも3人は気が合ったようで、特に槙野とは、時々二人で出かけたりもしているようだった。
(よかった、谷口に友達ができて)
谷口は俺に気づくと嬉しそうにおはようと笑い駆け寄ってくる。その笑顔を見たら、本当に、今日謝って別れを告げることが正解なんだろうか?という迷いが生じる。
『同じ気持ちじゃないのに、傷つけちゃ悪いからなんて理由で、自分に噓ついて相手に合わせるのは優しさなんかじゃない!ただのエゴよ』
だけど、母の言葉を思い出し、俺は決意を込めて谷口に言った。
「卒業式が終わった後、二人たげで話したい。大事な話があるんだ」
すると途端に、谷口の顔から笑顔が消え、その顔は怯えるように歪む。
「他の日じゃダメ?」
まるで、俺が言おうとしていることがわかっているように谷口の反応に、俺は戸惑う。
「樹莉が卒業式の後みんなでカラオケ行こうって言ってるの。今日はみんなで楽しく過ごしたい!ね?お願い!他の日にして!今日は嫌」
今まで付き合っていて、谷口がこんなにもはっきりと拒絶を示したことはない。どうしようと思っているうちにチャイムが鳴り、先生が教室にやってくる。
谷口は俺から逃げるように自分の席に戻り、結局その後何も話せないまま、俺たちは卒業式が行われる体育館に向かった。
「かな~し~こと~が~ある~と~ひら~く~皮~の~表~紙~」
「樹莉なんだよこの歌?暗いし。誰?」
「ユーミンの卒業写真知らないの?名曲だよ?ていうか今歌ってんだから黙ってて!そつぎょお~シャシ~んのあの人は~」
和気藹々とした空気が広がるカラオケルームで、見た目に反したしっとりした声で歌う槙野を、松井が囃し立てる。卒業式の後、俺は結局谷口に何も言うことができず、いつものメンバーに流されるままファミレスでお昼を食べて、駅前のカラオケに来ていた。時折晴翔が窺うような目で俺を見てくるけど、俺の隣で、いつも以上に楽しそうにはしゃぐ谷口を見ていたら、昨夜の決意なんて簡単に萎んでしまう。
そうしているうちに、あっという間に時間は過ぎさり、使用時間は残り30分。それまで流行りの曲やノリのいい曲で盛り上がっていたが、槙野の、最後はみんなそれぞれ卒業にちなんだ曲を歌おう!という提案で今に至っていた。
「朱音は最後なに歌う?」
俺が決めていないというと、谷口が、レミオロメンの3月9日歌って欲しいと言ってきた。カラオケは、水商売をしていた母の影響で、男は歌える方がモテるからと小学生の頃からよく歌わされていて、定番や有名な曲は大体歌える。この曲を歌うのは久々だったけど、俺は谷口に言われるがまま曲を入れた。
「あれ!これ本人映像じゃん」
「本人?この女優さんが歌ってるの?」
「違う違う、PVってこと」
映像を指差し話す槙野と渡辺の会話通り、その画面は、いつものカラオケ映像と違っていた。女子高生役の女優が、少し谷口に雰囲気似てるなと思いながら歌い続けているうちに、俺はそれが、妹の卒業と姉の結婚をテーマにして作られていることに気づいた。
ただの被害妄想なのはわかっているけど、こういうのを見ると俺は、これが正しい人間の営みなのに、なぜおまえはできないんだと責められているような気持ちになってしまう。それでも最後まで歌いきり谷口を見たら、嬉しそうに口元を綻ばせながらも、その目は涙で濡れているように見えた。
「朱音って歌上手かったんだね。聴き惚れちゃった」
「母親がカラオケ好きでさ、ヒット曲は古いのから新しいのまで、よく歌わされてたんだ」
「そっかあ、朱音が歌ってるところ、携帯で映しておけばよかった。受験終わった後、朱音と沢山カラオケデートしておけばよかったなあ…」
と、次の瞬間、突然部屋の電話が鳴り響き、槙野が受話器をとる。
「ハイハイ!わかってまーす。みんなー!あと10分だって。どうする?あと1時間くらい延長する?」
「するする~!!」
渡辺と松井が声を揃える中、谷口が立ち上がった。
「ごめん!私先帰るね」
「え?」
「オッケー!またラインするから春休み中も遊ぼう!」
槙野はわかっているというように頷き、バイバイとすんなり手を振る。
「送るよ」
「いい!朱音はみんなと楽しんでって、さよなら!」
俺の言葉をキッパリ断り、谷口はあっという間に部屋から走り去った。
「谷口今日なんかあったの?」
「夜卒業祝いで、家族と都内に食事行くんだって」
「おー!セレブじゃん」
「お嬢だからね、真央は」
何も聞いておらず呆然とする俺の肩を、真向かいに座っていた晴翔が叩く。
「どうするの?」
晴翔の言葉の意味をすぐに理解した俺は、すぐに立ち上がった。
「俺もやっぱり帰る」
「おー!さすが彼氏ー!」
「俺も…」
「おまえは絶対来んな!来たら絶交!」
槙野や渡辺が茶化す中、自分まで立ち上がり俺について来ようとする晴翔を制止し、俺は部屋を飛び出す。
さっき出たばかりだからすぐ見つかると思ったのに、外に出ても谷口の姿は見当たらなかった。カラオケは駅の西口にあり、俺は駅の階段を駆け上がって、東口のロータリーにむかう。そのまま走って、谷口の家に行こうとしたけど、谷口が駅から時々バスを使うことを思い出した俺は、東中方面のバス停に視線を向ける。すると、今まさにバスの扉がしまるところで、窓から、後部座席に座る谷口の後ろ姿が見えた。
「真央!」
必死に走って名前を呼んだら、奇跡的に谷口が振り返った。でもバスは無情にもあっという間に俺から離れていく。今日謝らなかったら一生後悔するような気がした俺は、再び全速力で走りだした。
「ハア…ツ」
息を切らし、普段歩いたら15分はかかる距離を10分前後に縮め、谷口が降りたであろうバス停の前にたどり着く。当然、谷口の姿は、もう既にそこにはなかった。今日はもう諦めようと思いながらも、俺は、皆でよく行く川沿いのファミレスを背に、谷口の家の方向へ、今度はゆっくりと歩きだす。
谷口の家からうちへは少し遠回りだったけど、いつも五十嵐達と帰っていた谷口が一人で帰るのを見るのが嫌で、付き合いだしてからは、毎日一緒に、この道を歩いて下校した。バス通りから左てに曲がってすぐの場所に、駄菓子屋へ行く時皆で集まった公園があり、閑静な住宅街が広がっている。そこから更に数10メートルほど歩いた角を曲がった先に、谷口の家はあった。
思えば俺は、付き合っている間一度も谷口の家に行ったことがない。一回家まで送ろうとした時、お母さんが煩いからと断られ、それ以来、谷口を送る時はこの公園の前で別れるのが常になっていた。
『ありがとう。ここまででいいよ』
背中を向け歩き出した谷口が、時折振り返り名残惜しそうに手を振るのを知っているから、俺はいつも、谷口が角を曲がり見えなくなるまで、この公園の前で立っていた。自分のやっていることに違和感を感じながらも、中学の間だけだからと、俺は優しい彼氏を演じ、義務のように谷口を送り見守り続けた。その行為が、どれだけ残酷なエゴでしかないのか、自覚しないまま…
(最低すぎだよな、俺…)
ため息をつきながら、ふと公園を見ると、一人ブランコに座る谷口の姿を見つけ、俺は驚愕する。
「真央?」
公園に入り近づいて行くと、谷口はまるで、俺が来るのをわかっていたかのように微笑んだ。
「朱音の大事な話し、本当は今日聞きたくなかったけど、聞かなかったらまた期待しちゃいそうだから…」
(それはどういう意味だろう?やっぱり谷口は、俺の嘘に気づいていた?)
その真意をつかめず何も言葉を発せずにいると、谷口は俺を見上げておもむろに話し始める。
「私、今夜家族で食事行くんだ、お父さんもお母さんも、私が桜ヶ丘受かったこと凄く喜んでくれて、中学受験では落ちちゃったから、余計に嬉しいみたい」
「そうだったの?」
「うん、でも朱音と出会えたから、東中来て良かった」
いつものように真っ直ぐ見つめられて、俺は何も言えなくなる。
「本当は朱音と同じ西校行きたかったんだ。でもお母さんにそれ言ったら、そんなことで進路決めるんじゃありません!て凄く怒られて。朱音にも、そういうのはいいよって言われたし…でもさ、朱音わかりやすすぎるよね。私、本当はあの時気づいちゃったんだ…」
谷口の言うあの時がいつを指すのか、すぐに分かった。
『いやだ!俺優樹と一緒に西高行きたい!』
言い訳のしようもない。優しい彼氏を演じられているなんて思っていたのは、俺だけだったのだ。
「だったらもう一度、桜ヶ丘に挑戦してみようと思ったの」
桜ヶ丘は、女子校だからとか以前に俺の頭では到底及ばない、偏差値70以上の超難関有名私立進学校だ。
「真央は凄いよ。俺なんて、真央に好かれる資格ない、真央には俺よりずっと…」
相応しい男がいる、そう言おうとした途端、ブランコから立ち上がった谷口に、頬を思い切り引っ叩かれた。
「自分が私と別れたいだけのくせに!私のためみたいな卑怯な言いかたしないで!」
涙目で睨む谷口に、返す言葉もなかった。殴られた頬の痛みよりも、自分が谷口にしてきたことの方がよっぽど残酷で痛い。
「ごめん…」
「謝らないで!私を好きだって言ったなら!最後まで嘘つき通してよ!ごめんなんて聞きたくない!謝って、自分だけ楽になろうとしないでよ!」
ただ立ち尽くす事しかできない俺の学ランの両脇を掴み、谷口は嗚咽を漏らす。見下ろした先の、震える谷口のつむじと細い頸が便りなくて、俺は思わず手を伸ばし、妹にするようにその髪を撫でた。
「ごめん、ごめん真央…」
夕焼けに染まっていく空の下、谷口は俺の手を振り払わず、俺の胸に顔を埋め泣いている。暫くしてようやく落ち着いてきたのか、谷口はゆっくりと顔を上げた。
「朱音って、本当に優しくて残酷だよね」
「ごめん…」
「だけど…楽しかった。中学最後の半年、ずっと好きだった朱音と一緒にいられて、樹莉達とも本当に仲良くなれて、すごくすごく、楽しかった…」
一瞬だけ躊躇うように言葉を止めた後、谷口は俺を真っ直ぐ見つめ言った。
「だから、許してあげる」
そう俺に告げる谷口の表情は、とても大人びていて綺麗で、俺はこの時、谷口を愛せない自分を心の底から呪った。
「さようなら」
谷口はそれだけ言うと、地面に置いていたカバンを持ち去っていく。
少し猫背で華奢な背中は、追いかけて支えてあげたくなるほど便りなかったけど、谷口は一切、後ろを振り返ることはなかった。
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