第5話
赤ちゃんがいる家の朝はバタバタだ。
夜何回も起きる妹の美緒の世話ですっかり寝不足気味の母に代わり、俺より30分ほど早く家を出る秀樹さんが朝食を作っておいてくれる。ベビーチェアに座り、ブーアーと謎の言葉を発する美緒の丸々としたほっぺをプニプニと触った後、俺は、離乳食だなんだと、起きて早々台所で忙しなくしている母の元に食べ終わった皿を運んだ。
「あ、後で洗うから置いといて」
「いいよ俺やっちゃうから、それより美緒待ってるから、早く持っていって食べさせちゃえば」
「ありがとう!朱音!」
嬉しそうに笑い、ハイハイ今あげまちゅよーと言いながら美緒の元へ行く母の背中を、微笑ましいような、少し切ないような複雑な気持ちで見やる。俺はとっとと洗いものをすますと、学校へ行く準備をするため、リビングを後にした。
自分の部屋に戻ったら、丁度ドアを開けたタイミングで、机に置いてあった携帯の通知音が鳴る。
〈今日学校来れるか?〉
「行けるっつうの」
案の定それは晴翔からのラインで、その内容に、俺は思わず声に出して突っ込んだ。返信しようか迷ったけど、どうせこれから学校で会えるしいいかと、携帯を部屋の机に置いたまま、俺はいつものように家を出る。
中学は必要な時以外、原則携帯禁止で、内緒で持ってくやつは結構多いが、俺はほとんど持っていく事はない。携帯依存ぎみの晴翔も、受験生になってからあんまり見ないようにしていると言っていた。なのに昨日も今朝も、大丈夫か?とか、早まるなよとか、慰めてるんだか揶揄ってるんだかわからない内容のラインがしつこいくらいきて、正直ウザかった。だけど晴翔のおかげで、ドロドロの沼に落ちていきそうだった心が救われたのは確かで…。
俺は、中学までの道を一人歩きながら、昨日晴翔と過ごした階段踊り場での出来事を思いだす。
(あいつ、鼻息は荒かったけど、前みたいに、キスしようとしたり迫ってきたりしなかったな。まあ、そんなことしてきたらぶん殴るけど)
とその時、通学路の先に優樹を見つけ、俺は走って近づき声をかけた。
「優樹!」
「お!朱音おはよう」
俺を見上げ破顔する優樹の笑顔は相変わらず可愛い。やっぱり、好きな子が元気に学校へ来てくれると凄く安心する。
「熱下がったんだ、良かったな」
「一日寝たらあっという間に元気になったよ」
「優樹陸上で鍛えてるから身体強いのかもな。高校でも長距離続けるんだろう?」
「うーん、ちょっと今悩み中なんだよね、先生もこの成績なら陸上の推薦で入れるって言ってくれてるんだけど、そうすると高校入った後陸上部以外選べなくなっちゃうからさ」
「そうなんだ、俺てっきり陸上強いから、優樹少しレベル下げて西高選んだんだと思ってた。え?じゃあもっと上の高校にするの?」
不安になって尋ねると、優樹は首を横に振った。
「それはない、俺、あの高校の自由な感じに惹かれてるし、それに、やっぱり俺も朱音と同じ高校行きたいし…」
優樹の顔が少し紅くなった気がして、俺はドキリとする。そういう意味じゃないとわかっていても、こんな風に好意を示してくれると、つい期待してしまう。
「ほら、やっぱりさ、仲良い友達と一緒だと心強いじゃん、俺3年生になって朱音と晴翔と同じクラスになって嬉しかったもん」
だけど、期待はすぐに否定されて、俺は、心の中で苦笑いした。
(そうだよな、俺や晴翔が珍しいだけで、同性も恋愛対象になる人間が、そんなどこにでもいるわけない)
「おう、優樹、お前熱さがったんだ」
「おお、晴翔おはよう」
後ろから晴翔が声をかけてきて、俺たちは当たり前のように3人で並び一緒に中学へ向かう。この、何気ない日常が、当たり前に過ごせる時間が、俺にとってはすごく大切だ。でも…
(いつか優樹も、今俺を好きだと言ってくれてる晴翔も、母さんと秀樹さんみたいに結婚して、子供ができて、俺から離れていく時がくるんだろうな…)
二人と話しながら、なぜか突然、一人だけ暗く深い落とし穴に落とされ這い上がれなくなるような、どうしようもない孤独を感じた。けど、そんな感情見ないふりをした。
二学期は色々なイベントが目白押しで、今日のホームルームでは、今年の文化祭何をやるかについて話し合われた。受験シーズンだから、あまり時間を拘束されたくない生徒と、最後なんだから心に残るものを!と張り切る生徒の攻防戦が繰り広げられ、最終的に3年1組は縁日をやることになった。
射的、ビンゴゲーム、ヨーヨー釣りにお菓子くじ引き、色々な出し物が決まり班決めの段階まできた時、俺は、廊下側の一番前の席に座る優樹の背中を見やる。どれを担当したいとか特になかったけど、中学最後の文化祭、折角なら優樹と同じ班になりたい。
「よし、じゃあ早いもん勝ち、挙手で決めてくぞ、まずヨーヨー釣り」
ちらほら手が上がり、7人くらいずつの班ができていく。
「晴翔はどうするの?」
「別になんでも…」
「射的にでもすっか?」
なんとなくグダグダな雰囲気の中、窓側の一番後ろの席に座る晴翔達の会話が聞こえてくる。多分射的は、晴翔の取り巻き女子と松井達のグループになるだろう。
「私お菓子くじ引きがいいな」
「先生!私と真央はお菓子くじ引きで」
だけど、谷口真央と五十嵐彩の言葉で、男子の雰囲気が一気にピリつき、俺の前の席に座っている倉林が即座に手を上げた。
「先生俺も!お菓子くじ引き」
「先生俺と優樹も!」
倉林に続いた鶴田の言葉で、俺は血の気が引く。
「よし、じゃあお菓子くじ引きはあと二人」
早いもん勝ちの言葉通り、五人の名前が黒板に書かれ、反応が遅れた谷口目当ての男達が我先にと手を挙げる。俺も慌てて挙手した時には、二人なんて人数制限とっくに超えていた。
「仕方ねえな、じゃあお前たちジャンケン」
なんだかまるで、俺まで谷口目当てに見えてしまうかもしれないけど仕方ない。
「俺も!」
そこへ突然晴翔が入ってきて、クラス全体が騒ついた。どうせなら、晴翔とも同じ班になれたらいいなと思ったけど、そんな願いも虚しく、五人のうちまずは一人が勝ち抜け、その途端、晴翔はやっぱりいいやと、ジャンケンから抜けてしまう。残る一つの座をかけて、谷口目当ての男二人と優樹目当ての俺のジャンケンが繰り広げられる。
「ジャンケンポン!」
男達の叫びが響き渡り、俺は決死の思いでパーを出した。力みすぎたのか、俺以外の男二人はグーで俺が勝ちのこる。
「よっしゃ!」
思わず叫んでガッツポーズをすると、優樹が一緒じゃん!と笑いかけてきたので、俺も笑顔で手を振り頷く。自分の席に戻り、黒板のお菓子くじ引きグループに書かれた自分の名前を満足気に眺めていたら、前の席の倉林が、振り向き言った。
「なんだよ、一ノ瀬も谷口狙いだったのかよ」
「そういうわけじゃねえよ」
優樹だよとは言えないので、適当な返事をしていたら、倉林が急に声を顰める。
「でも谷口が心配だよ」
「え?」
顎で示された方を見ると、晴翔の取り巻き女子の槙野〔マキノ〕と渡辺〔ワタナベ〕が、谷口の方を見て何やらコソコソ話していた。でも、谷口目当てではない俺には、悪いけど全然関係ない。
「おまえが守ってやれば?」
「いや、神谷ファンだけじゃねえよ、おまえもさあ、ちょっと自覚持った方がいいんじゃねえの?」
「何が?」
「わからねえか、まあそこがおまえのいいところでもあるからな」
「なんだそれ?」
倉林が何を言いたいのかよくわからなかったけど、そんな事よりも俺は、中学最後の文化祭、優樹と同じ班になれた事が嬉しくてたまらない。
(5月の修学旅行では別の班だったもんな)
俺は一人喜びを噛み締め、短髪の襟足から真っ直ぐ伸びた優樹の日に焼けた頸を、こっそりと見つめた。
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