ホモ・キュブリスト5

 ルーシーが他所の群れに譲渡されてから、十二ヶ月の月日が流れた。

 彼女が属している新たな群れは、ルーシーが生まれた群れとは異なる文化を持っていた。仕留めた獲物は乾燥させて干し肉にしてから食べる事、その時殺菌作用の強い(という知識はないが)植物の粉を香辛料として掛けて食べる事、土器などは作らず植物を編んだ籠を作る事……

 これまで生きてきた群れで学んだ知識にはない、様々な生き方をしている。それらを成体になってから習得するのは少し大変であるが、群れのメンバーも急かす事はない。苦労する事は分かっているのだ。勿論あまりにも馴染まないようなら困るが、譲渡された個体も馴染まなければ生きていけないため努力はするもので、そこが問題になる事はほぼない。

 何より婚姻の儀式で譲渡された雌個体に一番期待されているのは、繁殖である。そこの役目を果たせば群れは寛容だ。

 ルーシーは、既に役目を果たしている。


「フフーン。フフーンフーン。フンフー」


 工場が崩れて出来た瓦礫の山。そこに出来た隙間を崩して広げた洞窟の奥深くに、鼻歌を歌うルーシーはいた。

 この群れの使っている洞窟の天井は分厚く、昼間でも光は差し込んでこない。そんな環境での生活なので、明かりになる炎を扱う技術が進歩していた。ガレキブタの油を加工して作った『ロウソク』を使い、洞窟に明かりを灯す事が出来るのだ。尤も火が付くのは二時間ほどと短いため、基本的にはあまり使わず、昼間は雄も雌も外で働くのがこの群れの文化だが。

 しかし今のルーシーは昼間にも関わらず、洞窟の奥にいる。理由は、今の彼女は特別だから。

 ルーシーのお腹は大きく膨らんでいた。

 妊娠しているのだ。既に臨月を迎えており、出産は間近に迫っている。大きなお腹では服も着られないため、今は裸で獣の毛皮を布団のように掛けている。間もなく新たな命が誕生するだろう。

 ホモ・キュブリストの繁殖期は、人間と同じく明確なものはない。雄は何時でも射精が可能であり、雌は二十四~二十六日周期で排卵を行う。排卵しても雌に外見的な兆候は現れず、雄には何時交尾すれば子が出来るか分からない。

 妊娠のタイミングが分からない事は、雌にとって大きな利点がある。一般的に雄というのは、交尾を終えた後は雌への関心を失う。子孫を残すという目的を果たした以上、その雌はもう『用済み』だからだ。

 しかしホモ・キュブリストのように繁殖期が分からないと、雄は四六時中雌と交尾しなければ、本当に妊娠させる事が出来たか分からない。また、目を離した隙に他の雄と交尾して、それで妊娠してしまう事もあるだろう。確実に自分の子孫を残すためには、雌をしっかりと確保しなければならない。

 このため雄は雌を全力で保護する。またようやく出来た子を放置するのは、交尾のために費やした『コスト』を無駄にする可能性を高める。よって雄は子育てにも積極的に参加し、雌の負担は小さくなる。

 これはヒトでも見られた戦略だ。ヒトの子孫であるホモ・キュブリストでも、同じく採用されている。またこの群れでは子を保護するため、妊娠した個体は洞窟の奥で休ませる文化もあった。ルーシーが暗闇の中にいるのは、陰湿な虐めではなく、大切に扱われている証なのだ。


「フェフババ? フア、フフィバハ?」


 それとルーシーにとって幸運な事に、彼女の番である雄はかなり甲斐甲斐しいタイプだった。今のように、ロウソク片手に頻繁に様子を見に来てくれる。

 雄が積極的に子育てをする、というのは種全体で見た時の話。その程度には個体差がある。餌と雌が豊富なら一つの番にコストを掛けない方がたくさん子孫を残せて得であるし、逆に餌と雌が不足しているなら一つの番を大事に扱う方が適応的だ。どちらがより好適な生き方かは、環境次第である。

 ただ、雌にとって嬉しいのは世話をしてくれる雄だ。進化的に適応的か否かに関係なく。


「ファウナー、ファーファー」


「ブヌ。アフアファー」


 ルーシーは元気さをアピールし、番である雄を自分の傍に呼ぶ。雄はルーシーの横に座り、彼女のお腹を優しく撫でた。

 ヒトから進化した彼女達は、愛情という感情を持つ。

 雌からすればそれは好ましい雄を選択し、繁殖相手として行動と共にいるための本能だ。雄からしても、雌を保護するための本能である。しかし本能だとしても、それで幸福を感じる事は違いない。自然とルーシーの顔に笑みが浮かび、雄と共に笑い合う。


「ギゥッ……!?」


 ただしその笑みは、すぐに消える事となったが。

 一瞬表情を顰めるだけなら、雄は然程気にしなかっただろう。だがルーシーの苦悶の表情は何時までも続き、段々と身体が傾く。ただ座っているだけの体勢すら保てなくなる。

 ルーシーとしても自分の身体に何が起きているのか分からない。だが、優れた知能があるからこそ、想像は出来る。

 産気付いたのだ。もう、産まれる。


「アガ、ギ、ィ……!」


「フ、フェア!? フナ、バナハファ!」


 出産が近い事をルーシーは訴え、雄は慌てながら外に向かう。

 一体になったルーシーの股から、ばしゃりと水が溢れ出す。子宮に溜まっていた羊水が溢れ出た、破水と呼ばれるもの。いよいよ出産が間近に迫っている。

 ルーシーが苦しみから息を乱していると、やがて番の雄が他の雌を三体連れてきた。一体は年長の雌で、もう二体は十歳ほどの若い雌。若い個体は経験を積む意味もあるだろうが、人手がそれだけ多く必要だという事でもある。


「ファウバーヤ、ティヤ、バウナ」


 年長の雌は指示を出し、若い二体の雌はルーシーの傍に寄り添う。ルーシーの身体を支え、足を掴んで開かせた。

 年長の雌は開いたルーシーの股の前に座る。様子を確認し、ルーシーの出産を手伝う。

 ヒトにも言えた事だが……ホモ・キュブリストの出産は極めて難易度が高い。

 産まれてくる子供が大型のため、負担が大きいのだ。少産少死の哺乳綱は元々その傾向があるが、ホモ・キュブリストは特に大きな子を産み落とす。閉じている子宮口を抉じ開け、膣道は裂けんばかりに広がる。

 これほど負担が大きいと、周囲への警戒どころではない。一体で出産を行っていたら獣に襲われても逃げられず、食い殺される事もあるだろう。呼吸を自分だけで整えたり、生まれかけの子を自分で引き抜いたり、そこまでする余裕もない。

 しかしホモ・キュブリストには仲間がいる。

 仲間が周りを見張り、呼吸のタイミングを補助し、子が膣から出るのを手伝う。仲間がいるから、一体では難しい事も出来る。


「ア、アアアアアッ! ィギィイアアッ!」


 苦悶の声を上げ、力を振り絞りながら、ルーシーは新しい命を産むため力を振り絞る。

 周りにいる仲間達も真剣な面持ちだ。年長の雌個体は声を張り上げ、ルーシーを何度も鼓舞する。一時でも気を抜かさせないと言わんばかりに。

 仲間達が必死になるのは当然だ。出産には産まれてくる子のみならず、母体にも死亡するリスクがあるのだから。高度な技術を有していたヒト文明でも、所得の低い国では十万人中五百人以上が死亡し、所得の極めて高い国でも五〜五十程度が死亡している。

 死亡原因は多岐に渡るが、多くは産科危機的出血と呼ばれるものだ。これは出産時に子宮が破裂したりして大量の出血があり、死亡してしまうというもの。また心肺虚脱型羊水塞栓というものもあり、これは子宮内の羊水が体内に逆流する事で心肺にダメージを与え、死に至らしめる事もある。他にも脳出血のリスクもある。

 いずれの病状も、優れた科学力を誇るヒト文明でも全てを完璧には処置出来ないものだ。ましてやホモ・キュブリストの文明は、原始時代レベルまで退行していた。外科手術の技術は全くなくて、症状が起きれば間違いなく死に至る。

 無論、次世代を産む度に死亡しているのは適応的と言い難い。産んだ子が死亡率に見合う生存率の高さがあるからこそ、成り立つものであり……そうでないなら『進化』が進む。

 ホモ・キュブリストはヒトよりも出産時の危険を減らす進化を遂げている。


「ン、ンギ、ィ、イ……!」


 例えば息む時、母体の血液が脳に集まり難い体質となっている。正確にはある程度脳の血圧が高まると、脳への血管にある『弁』が閉まり、血流を抑えるのだ。

 この弁はまだまだ未発達なものであり、また血中コレステロール濃度が高いと血栓が詰まりやすいという弱点もあるが……未発達でも効果はゼロではなく、ホモ・キュブリストは体質が肉食に適応しているためコレステロール値もあまり高くならない。彼女達の生活水準では、適応的な進化だった。

 もう一つ母体側の変化として、子宮の耐久性の高さが挙げられる。ヒトよりも子宮が厚みを増し、破れにくくなっていた。その分エネルギーを多く使うが、足の小指の欠損で浮いたエネルギーが費やす事で賄っている。小指など微々たるものだと思えるが、平時の子宮でも厚さは一〜二センチ。小指分のエネルギーがあれば、十分厚さを増やせる。子宮は出産時には収縮して胎児を押し出す役割もあるため、子宮が厚みを増すのは出産を容易にする手助けにもなった。

 母体側は様々な進化をして、生存能力を高めている。そして生まれる子も、同じく進化していた。母体を殺してしまう事は、その母体に育ててもらわねば生きていけない幼体にとっても不利益からだ。


「デッハァ! デハァ!」


 赤子が膣口から出てきた事を、年長の雌が教えてくる。いよいよ生まれようとしていた。

 ホモ・キュブリストの幼体は、九割の個体が三十八〜四十三センチの身長で生まれてくる。祖先であるヒトは身長四十六〜五十二センチの範囲に九割の子が含まれており、つまりホモ・キュブリストはヒトよりも小さく生まれてくる。これはホモ・キュブリストの平均身長が小さくなり、子宮の大きさも縮んだ事で、ヒトと同じ大きさの幼体では負担が大きくなったためだ。

 また頭蓋骨がヒトの幼体よりも柔らかく、その形を大きく変形させる事が出来る。スムーズに膣道を通る事が出来、母体に負担を掛けない。

 子の持つ二つの形質も、出産の成功率を上げる。それは初産であるルーシーにとって、非常に有用なものだった。


「アィ、ィ、イイイイイイ……!」


 最後のもうひと踏ん張り。渾身の力を振り絞り、腹の中の子を押し出す。

 その力で頭の一番太いところが出れば、もう突っ掛かる部分はない。

 ずるりと赤子が生まれ出た。ルーシーも開放感からそれを実感し、息を荒らげながら横たわる。気を失いかねない疲労感が押し寄せてくるが、歯を食い縛って意識を保つ。

 年長の雌が抱えている我が子。せめてそれを抱くまでは、失神なんてしていられなかったのだから。


「ハァ、ハァ、ハァ……ハァ……」


「アァァ! アアアァアッ!」


 年長の雌が運んできた子は、大きな声で泣いている。また紫がかっていた体色が、一気に赤みを増した。

 産声により肺を大きく広げ、空気を取り込んで自発的な呼吸を行う。肺から取り込まれた酸素は赤血球によって運ばれ、色付いた血により肌の色が染まったのだ。つまり呼吸が上手く出来たという事。これから母親の体外で生きていくのに、最低限必要な行動が出来ている。

 力強い赤子の鳴き声に、ルーシーは笑みを浮かべる。初産ではあるが、育ってきた群れで子が産まれる時は何度も見た。だから泣く子が元気に生きていける事を知っている。我が子が元気に生まれてくれたのだから、喜ばない訳もない。


「ハァ、ハァ……フゥ……」


 子の無事を確かめたところで、ルーシーは気を失う。慌てふためく彼女の番を、年長の雌が宥めた。気を失っただけだ、と。

 大きな問題もなく出産を終える事が出来たのも、長年の進化により自身や幼体が身に着けた形質のお陰。

 しかし進化した形質には、欠点も付随するもの。

 ホモ・キュブリストの幼体の誕生時サイズは、ヒトよりもかなり小さい。このため出産時の負担が小さいのだが、身体が小さいと脳も小さくなってしまう。また頭蓋骨の変形に適応するため、脳の密度が低く柔らかい。これらの特徴は、成体になった時の脳の大きさを制限してしまう。このため成体の知能があまり高くならない。

 ホモ・キュブリストの知能は現在、退化する傾向にあるのだ。ヒトからすると、知能の退化が適応的な進化とは思えないかも知れない。ヒトというのは『高度』なほど優れていると思い込むものだ。

 だが、高い知能を生み出すにはエネルギーが必要だ。閉鎖空間故に獲物の数が限定されているキューブで、大きなエネルギー需要を満たす事は難しい。また、石器や土器を作る程度なら、ヒトほどの知能はいらない。知能を退化させる事に大きな問題はなく、エネルギーが浮く事、そして出産の成功率が高まるメリットが勝ったのである。

 では、彼女達の文明がこれから発展していったとして……安全な出産が行えるようになれば、また知能の高まる進化が起きるだろうか?

 それはない。何故なら文明が発達する要素がないからだ。というのもキューブ内は金属資源であれば豊富に存在するが、石油や石炭などのエネルギー資源は皆無。木材も乏しく、加工が容易な銅や錫が全くない。このため青銅器時代に到達する事が出来ず、金属加工技術が育まれず文明は先に進めない。進めない以上高い知能は必要なく、脳は小さくて低機能の方が得だ。

 これから彼女達は、どんどんヒトらしさを失うだろう。

 しかしそれは適応の結果であり、この地で更なる繁栄を遂げるためのもの。変化し、移ろいながら、彼女達はキューブで命を繋いでいく。

 ヒトの血筋は、これからも続いていくのだ。宇宙空間を漂う、大きな箱庭の中で――――

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