最広のパーソナルスペースを持つ男

@321789

最広のパーソナルスペースを持つ男

彼は、最広のパーソナルスペースを持つ男だ。その距離なんと10㎞!


そして彼は、ただの一度もパーソナルスペース内に人を入れたことがない。


ゆえに彼には、他人という概念がない。母の顔さえも知らない。会話などしたことがない。彼はずっと独りである。


彼には、特殊な能力がある。パーソナルスペース内に人や動物が入ろうとするとそれを察知してパーソナルスペースを維持できる力だ。この能力によって彼はパーソナルスペースを給ってきたわけである。


さて、今彼は歩いている。とにかく歩いている。目的は食料調達。彼の主食は、雑草や木の実類だ。何時間もかけて食料を確保する。


彼には、夢がある。肉を食べることである。ある時、彼は道端で動物の死骸を見つけた。初めは死骸のグロテスクに吐き気を催してしまったが、赤々とした肉に心を奪われた。なぜ、自分はこの謎の赤い物体に心惹かれるのか。それは、この赤い物体が食べられるものであったからだ。食べられるものだと分かった時、彼は激しく後悔した。あの時、食べていれば。なんて馬鹿なことをしたんだ!それからというもの、彼は血眼になって肉を探し始めた。山に行き、海に行き、街へ行った。しかし、全く見つけられなかった。そして、未だに見つけられないでいる。いつか必ず食べてやる。彼は不屈の闘志で肉を探し続けている。


彼には、悲しいことがある。年を取ることである。今年で48歳になった彼は、腰痛に苦しめられていた。20台の頃は、どんなに振っても元気だったのに。それと共に将来への不安が募ってきた。加えて、彼には身寄りもありようがないため、余計に不安なのである。そのため、彼の腰へのケアには余念がない。歩く際のフォーム、食料を採る時の姿勢、入念なストレッチ。だが、それでも不安は拭いきれない。何かの拍子で腰をいわしてしまわないか。いつもいつも不安でいっぱいになる。


彼には、楽しいことがある。痕跡収集である。能力で人や動物に会えない彼は独りで困ったことはないが、しかし、時々、誰かと喋りたいと思うことがある。そんな時は人や動物の痕跡を探すようにしている。そうすることで喋りたい気持ちが収まるのである。


彼には、腹が立つことがある。自分のこの能力にである。48年間、この能力と生きてきたが、ある時ふと、なぜ自分にはこんな力が備わっているのか不思議に思った。何かの意志でも働いているのか。それとも単なる偶然か。どちらでもいいが、とにかくイライラしてしまう。


彼には、喜ばしいことがある。双眼鏡を手に入れたことである。ある日、双眼鏡を拾った彼は遠くを見ることができる道具の存在に目を輝かせた。これでもしかしたら、人や動物を目にすることができるかもしれない。


もう一度言おう。彼にはパーソナルスペースを維持できる特殊な能力がある。そんな彼にも楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、腹が立つことがある。これからも彼と特殊な能力は共存し続けるのだろうか。未来は誰にも分らない。だが、これに関しては、共存しないと断言できる。


それは、今、彼について語ることができていることから明らかであろう。

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