第1章

第1話 非日常「……さよなら」

 キーンコーンカーンコーン。ガラガラガラガラ……。



 授業が一通り終わって、帰宅するべく生徒達がガサガサと動き始める。それに便乗するように、俺もカバンに物を詰め込み始めた。



「ねえ、照橋てるはし君」



 真横から声を掛けられた。声の主はいつものようにいつの間にかそばに立っていた俺の幼馴染――真淵心葉まぶちここは


 そして彼女の呼びかけどおり、俺の名前は照橋てるはしであり――フルネームは、照橋望信てるはしみこと


「ねえ、聞いてる?」


「………………」


 心葉のいつもの問いかけに、俺はいつものように無視を貫いた。


「はあ……」


 と、心葉はいつものようにため息をついた。それを合図にするように、俺は荷物をまとめ終える。いつものようにカバンを肩にかけ、いつものように心葉に背を向けて歩き始める。その様子を見て、彼女はいつものようにもう一度、はぁぁと深いため息をついた。


 ガラガラガラ……。俺は教室の戸を開けて出ようとする。いつもと全く変わらない。


「――待って!」


 ……でもこの瞬間から、いつものようにはいかなかった。


 背後から気配を感じたときには、もう遅かった。


 タタタタタタと小さな足音がして……


「な、何すんだよ!」


「やっと…………私の目を見て喋ってくれたね」


 彼女は驚いて振り向いた俺の目を、真っすぐに見つめてくる。


 俺が教室を出ようとしたとき、心葉が走って来て、後ろから抱き着いてきたのだ。彼女は力強く俺を締め付けて、俺を外から出させまいとしているようだ。


 いつもなら何も起こらない。起こされない。俺が戸を閉め終えるまで、心葉はただこちらを見つめているだけで一歩も動いたことは無かった。今日もそのはずだったのに……。


「いつもなんで無視するのよ」


 彼女の瞳は朝飲んだミルクティーより甘そうで、最後のプリンより切なかった。けれど、それは彼氏に向けられたものでも意中の相手に向けられたものでもない――その事実を理解した俺は、どうしようもないほどにむしゃくしゃした。


「…………もい……」


「……何?」


「重いっつってんだよ! 離れろよ!」


 俺は乱暴に彼女の身を振り払う。俺の精一杯で彼女の手は離れたが、その手は俺を離そうとはしていないようだった。そして、諦めたように彼女の瞼がすとんと落ちる。よく見ると心葉の手は小刻みに揺れていた。震えている……のだろうか。


「もう、重いって何よ! 重いって!」


「う、うるせぇ……!」


 一瞬にして頬が紅潮した心葉を見て罪悪感に苛まれ、俺は汚い言葉でごまかそうとする。……俺は事実を言っただけなんだ。ただ、邪魔だったんだ。言い訳がましいことなんてわかってる。でも、俺はずっと自分の信念に従ってるだけだ。それをちょっとくらい尊重してくれたっていいだろう……。


「かわいい女の子になんてこと言うのよ!」


「突然抱き着いてくるようなやつに言われたくない!」


 傍から見れば女を泣かせた最低な俺の言葉に、なぜか心葉の顔はますます赤くなっていく。自分で自分をかわいいとか……自意識過剰じゃねえの。別に思いたくもない嫌な思考が……頭の中を遊泳している。



「……っ……さよなら」



 漂う非常的な空気管につかれた俺は、そっと言い残して心葉の前から去る。廊下を走り、心葉から逃げるようにして昇降口へ向かった。


「逃げないで!」


 と、心葉が何度か俺を止めようと叫んでいるのが聞こえたが、追ってはこなかった。逃げてなんてない。早く帰りたいだけだ。


 俺は素早く靴を履き、走って門を出た。俺の家は学校に近い方だ。家から十五分くらいの距離。そのため、いつも歩いて帰っているのだが……今日はなんだか、寒気がする。


 さっき、いつもと違ったことが起こったせいで、過度に敏感になっているのかもしれない。俺は息を切らして、走り続ける。途中、横断歩道で足を止めたが、それ以外はずっと走り続けていた。


 そして、住宅街の真ん中を突っ切っていき、自宅を視界に捉えたときだ。



 にゃ〰〰お。



 ――鳴き声がして、俺が声のする方を探すと、俺の想像した通りに、子猫が塀の上にちょこんと座っていたのだ。真っ白な毛に、くりっとした眼。ピンと立った尻尾に、柔らかそうな耳。



「…………かわいい」


 猫の感情など分かるはずもないが、その猫はなんだか気持ちよさそうに見えた。


 猫は癒しを求めて飼う人もいるぐらいだし、大抵そういう風だと割り切れるかもしれない。でも、猫には言葉にできない愛らしさがある。よく観察すれば、その猫はぐったりしていて、今の俺と似ているかな……とも思った。


 しかし、やはり猫の第一印象は、可愛いとか、愛らしいとか、そんな感情だ。それは人間の母性本能なのだろうか。あまり動物が好きではない俺が、なぜか夢中になっていた――。




 ――サササ…………。……数分経って、その猫は立ち去った。


 ……俺はそれまで夢中で考えていた。我を忘れて、猫に見惚れてしまっていた。


「よし、帰るか」


 そうして俺は晴れやかな気分になって、再び帰路に就いた――だがその時だ。



「きゃーーっ!!」


 誰かの悲鳴。それもかなり遠くから。……どこから聞こえたのかはよくわからない。何か事件でもあったのだろうか。だとしても、俺が正義を理由に向かったところで、距離が遠すぎて手遅れだろう。


 俺は少し不安に思ったが、自分の家の扉を開け、呟く。


「何か聞いたことがある声だな……」


 俺は耳がいいので遠くの悲鳴もかなり鮮明に聞こえていた。


 ……それは聞いたことのある声だった。だけれど俺にとってはどうでもいいことだ。


 確かに犯罪者とか嫌いだし、正義のヒーローに憧れていないと言えばウソになる。


 しかし、自分に可能か不可能かの区別はできてると自負している。だから今回も――俺には関係のないことだ。だって俺には、どうすることもできないだろうから。

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