愛すべきひとのために

 テオドール・ルモワーヌの死は、公式には確認されていない。

 彼が30歳になった年の晩夏、秋も近いというのに異常な猛暑の日に、彼は数人の随員とともに国都アルジャントゥイユに増設中の水車を視察に出た。遷都以来、アルジャントゥイユは空前の建設ラッシュで、街のあちこちで運び込んだ木を切ったり、石を整形する音が鳴り響いている。

 国都を潤すアリエージュ川は、数日来の大雨の影響で増水しており、彼は天候不良の場合でも水車が問題なく稼働するのかを確認しに訪れていた。

 やがて随員の一人が、増水した川に足を取られ流される少女を発見した。見る限り、まだ7歳か、8歳くらいの非力な子供である。あのまま流されれば十中八九は死ぬ。しかし大人だからといって助けに入れるほどの川の様子ではない。

 すると、戸惑うばかりで足のすくんでいる随員らを尻目に、テオドールは迷いなく激流へと飛び込んだ。

 川を少し下ったところで、少女は岸辺にたどり着き救助された。が、テオドールの姿がない。

 随員たちは人を呼び集め、夜半まで捜索を続けたが、ついに発見することがかなわなかった。

 急報が新王宮レユニオンパレスに届けられたのは夕刻のことであった。このとき、テオドールのかつての想い人であったソフィアは、王宮の渡り廊下に壁画を描いている最中であった。彼女はテオドールの行方不明の報を聞き、にわかに気を失い、10分後に覚醒した。

「テオ、テオ」

 彼女は青白い顔で、いとおしい名前を何度も呼びつつ、思念を探った。どこにも、彼の気配がない。それは距離が遠いために感じられないのか、それとも彼が思念を完全に失った、つまりは亡くなったからなのか、それは分からない。

 ただ、彼女はたとえ個人的な関係を失っても、彼のことを愛しており、そのためにその死に直面して絶望に陥ったのは確実である。

 遺体が見つからぬまま、二週間後には弟のジョシュアとトルドー枢密院長代理によって国葬が執り行われた。生前、テオドール・ルモワーヌは必ずしも天才的な政治家ではなかったが、温厚で誠実な君子人として知られ、多くの者から慕われた。妻を持たず、一途にソフィア女王を愛していたことは、ルブラン・サロンと呼ばれていた頃のメンバーであれば、誰もが知っている事実であった。

 国は、悲嘆に暮れた。

 特にソフィアは、悲しみのあまり精神的活力を失い、食が細くなり目立ってやつれた。ソフィーがどう話しかけても上の空で、このままではやがて深刻な状態になるであろう。

 妹をどう立ち直らせるべきか、今回ばかりはソフィーも困り果て、古くからの側近らに相談したが、この件に関しては賢人であるマリアナでさえ、目新しい提言を出せなかった。

 ふと、彼女は馬車を国都の郊外まで走らせ、旧知の人に面会を求めた。

「あら、ソフィー」

 と、そう呼ぶのは今となってはこの人物だけかもしれない。アレックスやシャルルでさえ、女王である彼女を呼び捨てにするのは遠慮している。権力や権威を軽視しているのか、あるいは単に図々しいのか、そのどちらもか、いずれにせよ恐れを知らぬ人物ではある。

「ブラニクさん、ご無沙汰しています」

「テオのこと、というよりはソフィアのことで来たのかしら」

「えぇ、そうです。ソフィアと親しいあなたからなら、何かお知恵をお借りできるのではないかと」

 ブラニクは枢密院を離れてからは、解放戦争前に営んでいた娼館も畳み、薬商人としての活動に専念している。ソフィアともよく連絡があり、女王だからといって隔意もなく付き合ったから、ソフィアの方もかえって気楽に親しくできたようだ。

 ソフィーからソフィアの近況を聞き、精神的な健康を取り戻す策を尋ねられたブラニクは、小一時間ほど考え、ある提案を披露した。ソフィーはそのあまりにも思い切った提言に驚いたが、同時にそれが妹のため、国のためになると理解したので、すぐに実行しようと思った。

 ソフィーは帰路で、テオドール亡きルモワーヌ家に立ち寄り、その弟で家を継いだジョシュアと話をした。そして彼の了解をとりつけた上で、ソフィアの部屋のドアを叩いた。

「ソフィア、入るわよ」

 ソフィアは、ベッドに腰掛けて背中を丸め、ぼんやりと抜け殻のように過ごしている。ソフィーの姿を見ると無理に笑顔をつくろうとするのがいじらしい。頬の肉がやせてしまい、元来はみずみずしい美貌がこのときばかりはずいぶんと老けて見える。

 ソフィーの表情がいかにも心配げであったのだろう、

「姉さん、私なら大丈夫よ」

「そうは見えないわよ」

「そうね、世界で二番目に好きな人を失ったから。でも、いつまでもくよくよしてられないことも、分かってる」

「ソフィア、頭で分かってても心がついていかないことがあるわ」

「今はまだそうかもしれない。けど、時間が経てば解決すると思うの」

「私もそう思ってた。実は今朝、ブラニクさんに会いに行ったの」

「ブラニクさんに」

「彼女は言ってた。大切な人を失ったとき、必要なのは時間ではなく、希望だって」

 希望なんかない、とソフィアはぼそりと漏らした。伏せたまつ毛には濃い影が落ち、彼女の言葉そのまま、絶望にむしばまれた心情を映している。

 ソフィーは、妹の手を握った。奇跡の術者、神聖なる女王の手に無条件で触れることができるのは、この世ではもはや彼女ひとりである。

「希望はある。私たちが、養子を迎えるの」

 妹の寂しげな横顔が動き、ブルーサファイアを思わせる青い瞳が、ソフィーに向けられた。

「養子?」

「そうよ。テオの姪っ子のエヴァンジェリン。あの子を、私たちの養女、つまりこの国の王女として迎えるの」

「そんな、どうかしてる! どうしてそんなこと」

「あなたが育てるの。テオのこと、愛してたんでしょ。その愛情を、彼女にも分けてあげなさい」

「そんなこと、考えられない……」

「そう、それならあなたは無理しなくてもいいわ。ただ、エヴァは私の養女にする。ジョシュアの同意はとってあるし、後継者のことは何年も前から懸案になっていたから」

 ソフィーの声にはわずかながら冷たい響きがある。だが言ったことは事実である。エヴァンジェリンは、ソフィアをテオドールの死の悲しみから救い出すための道具ではない。ソフィーも、我が子を迎えるにあたって、そのような不憫ふびんな扱いをするつもりはなかった。養女にするからには、精一杯、愛してやりたい。

 ソフィアにとっても、それが最良であると信じた。傍流とはいえテオドールの血を受け継ぐ娘であれば、愛情を持ちやすいであろう。

 また、この場合の実親であるジョシュアは、無能で小心な性格で有名であり、兄のように枢密院長どころか、中級の官僚でさえ、まともに務め上げるのも難しいほどであった。兄によく似ているのは、人柄がとびきり善良であるという点であり、その意味ではルモワーヌ家から養子を迎えることに反対する者は少ないように思えた。この数年、女王位の後継者選びについてはいずれかの名家から養女を迎えようという動きが何度もあったが、その都度、有力諸侯の勢力バランスを崩す懸念があり、反対の声が多くまとまらなかったのである。

 エヴァンジェリンはこの年4歳であり、無論、彼女自身には選択権はない。

 ソフィアが賛成せぬまま、翌日は早速、エヴァンジェリンがレユニオンパレスに招待された。現女王との顔合わせのためである。

「両陛下、本日はお招きにあずかり光栄でございます」

 舌足らずな物言いで懸命に話そうとする姿が、いかにも健気けなげである。その瞳は亡きテオドールを思わせるチョコレート色で、決して珍しい色合いではないが、ソフィアにはどうしても、生涯で唯一のその恋人の面影が重なって見えてしまう。

 ソフィアは玉座から進み出て、少女と表現するにはまだ幼すぎるエヴァンジェリンの前にしゃがみ込んでその目を見つめた。

「エヴァンジェリン、こんにちは」

「こんにちは、陛下!」

 この国で最も高貴で最も美しい人に親しく声をかけられ、エヴァンジェリンは喜びを隠せず、明るい笑みがはじけるように顔じゅうに広がった。あたたかく、真っ直ぐな心を持っている。まるで、あの人のような。

「エヴァ、あなた、テオドールおじさんのこと覚えてる?」

「うん、覚えてる。優しくて大好きなテオおじさん!」

「会えなくなって、つらい?」

「寂しいけど、我慢する。テオおじさんは天国に行ったの。いつかまた会えるんだって!」

「そうね、いつか天国でまた会えるわね」

 それだけを言うと、ソフィアはせきを切ったように涙があふれて止まらなくなり、しがみつくようにしてエヴァンジェリンを抱き寄せた。ソフィアとテオドールが結んだ愛情を知るソフィーやジョシュアは、その光景に思わず目頭を熱くし、改めて運命の残酷さを思った。ふたりが政治とは無縁の世界にしりぞき、ともに寄り添って穏やかに暮らせたら、彼らのためにどれほど幸せだったことであろう。

 エヴァンジェリンという名は、福音ふくいんの意を持つ。その名の示す通り、この年端もゆかぬ少女は、ソフィアに生きるための希望をもたらしてくれたようであった。

 翌年、エヴァンジェリンは正式に王女としてレユニオンパレスに迎えられ、女王位継承者としての養育と指導を受けることとなった。

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