南方都市エクランへ

 朝の診察前、姉妹はそれぞれ風に当たり、水に触れて、心を清め、思念を充実させる。ここ最近では彼女らのたゆまぬ努力の結果、都であるカーボベルデのペスト患者は激減し、診療を願う患者の半ばはペスト以外の病気や事故で苦しむ人々である。無論、数万人規模の都市であるから、毎日、体調の悪化や苦痛を訴える人は尽きないが、以前よりも軽症の患者の割合が高い。そのため、姉妹の活動にも比較的、余裕がある。

 診療所になっている倉庫も、時折ではあるが、患者の列が途切れることがある。

 その途切れのなか、ソフィーは出し抜けに妹に尋ねた。

「ソフィア、都もだいぶ黒死病が落ち着いてきたわ。これから、私たちはどうすればいい?」

 ソフィアはぽかんとした表情で、姉を見返した。思えば都に来てからというもの、ともに必死で患者の診療にあたり、今後の方針をゆっくり相談するような時間もなかった。だが突然にその機会を与えられたものだから、少し面食らっているらしい。

「これから?私は姉さんの行くところならどこでも行くよ」

「ふたり、いつでも一緒?」

「うん、そうよ」

 ソフィアはにっこりと微笑んだ。人見知りが激しく、想いを寄せるテオドールにすら、ぎこちない笑顔しか向けられない彼女が、唯一、姉に対しては素直な表情を見せる。心を許しきっている証だ。

 しかしその笑顔も、ソフィーが微笑んだまま何も言わないので、すぐに不安げな表情に取って代わられた。

「姉さん、どうかしたの?」

「考えたの。都は黒死病もだいぶ抑えられてる。けれどほかの町や村では、まだ感染が続いて、多くの人が亡くなってるって」

「じゃあ、ふたりで助けに行こう、一緒に」

「でも、都を留守にして出ていくことはできない」

「だったら」

 と言いかけて、ソフィアはうつむいた。彼女のなかでも、最善と思われる答えが浮かんだのであろう。つまり、ひとりはここに留まり、ひとりが出てゆく、という答えである。帝国最大の都市であるカーボベルデと、第二の都市エクランにそれぞれ術者がおれば、彼女たちがともにあるより、さらに多くの人々を救うことができることは疑いない。だがそれを言えば、姉と離ればなれになる。

 ソフィアは迷い、しばし迷ってから、顔を上げた。蒼い瞳が、きらきらとサファイアのように濡れて神秘的な光を放っている。あぁ、とソフィーは見惚みとれつつ胸中で嘆息した。彼女は、妹のその瞳より美しいものにその生涯で出会ったことがない。

「姉さん、私ずっと思ってたの。テオやほかのみんなにもだけど、私はいつも姉さんに守ってもらってる。守ってもらってばかりだって」

「そんなことは」

「ううん、そうなの。私が悲しい思いやつらい思いをしたくなくて、そんな私を守るために、いつも守ってくれる人がいる。このままじゃいけないって分かってるのに」

「ソフィア」

「私、頑張ってみる。ひとりでも頑張る」

「ソフィア、ありがとう。でも無理はしないのよ。ずっと会えないわけじゃないし、私もときどき会いに来るから」

「姉さんが、都を出るの?」

「そう」

「どうして姉さんなの?私、姉さんに大変な役目を押し付けたくない」

「あなたは、テオの帰りを待ってあげて」

 ソフィアには、姉の言わんとすることが理解できたらしい。テオドールも、今まさに危険な任務に就いている。その帰る場所には、確かにソフィアがいるべきであろう。

「ソフィア、テオのことも、真剣に考えるのよ。誰よりも、あなた自身の気持ちを大切にして、その気持ちに精一杯に向き合って行動するの」

「姉さん、ありがとう」

 テオドールの出発からわずか3日後。まことに慌ただしいことではあるが、ソフィーはヴァレンティノとシャルルを護衛に伴い、さらにカッシーニ、トルドー、トスカニーニ、ブーランジェ未亡人といったサロンのメンバーのなかでも重要人物とされる人々が同行する。ヴァレンティノもシャルルも腕利きであるし、名士たちの役割としては、カッシーニが全体のまとめ役、トルドーが思想や時勢を説いて同心する兵を募り、武器商人のトスカニーニがそれらに武装を供与し、ブーランジェ未亡人が組織編成を行う、といった具合で動くことを想定している。

 別れ際、姉妹は確固たる決意を固めていたはずではあったが、それでも互いに涙ぐんで、物言わず抱擁を交わした。長いこと抱き合ったまま、立ち尽くした。次はいつ会えるか分からない。このような情勢では、あるいは別れたまま二度とは会えないかもしれない。だから、ふたりは自分自身とさえ言っていい相手のぬくもりを、においを、そして思念を決して忘れまいとするように、しがみつくようにして抱き締めた。このようなとき、言葉はむしろ邪魔になるようであった。

 都をち、南へ向かう細い街道の道すがら、ヴァレンティノはしばしば後ろを振り返った。彼にとっては、生まれ育った都を離れるのは初めてなのである。

 彼はこの年、16歳。

 体格はすでに並の成人男性を追い抜き、剣の腕もすでに武技の師匠であるシャルルをしのいでいる。ソフィーが初めて彼と出会った頃、彼は母を亡くし、身寄りの一人とていないみなしごであったが、今では立派な青年に成長し、ソフィーを心から敬い、水火をも辞せぬほどに敬愛し抜いている。ソフィーもまた、彼を弟のように思い、愛していた。彼女自身、ヴァレンティノと同様に親を黒死病で亡くしている。たまさか、姉妹に術者としての異能があり、それを活かすことによって今や国内第一の名士となったわけだが、もしその力がなければ、彼女らも親を失い、家も失い、姉妹ともによくて富裕の家の召使いとなるか、都に流れて路傍の乞食となるか、その美しさを買われて娼婦になるか、あるいは野垂れ死んでいたかもしれない。そう思うと、ソフィーには姉妹や多くの名士たちの薫陶を受け見違えるような成長を遂げたこの青年に特別な愛情を抱かざるを得ない。

「ソフィア姉さん、大丈夫かな」

 最前から何度も振返っているのは、どうやら故郷との別れを惜しんでいるのではなく、ソフィアが気がかりのようであった。彼は、ソフィーとソフィアを、その名前とともに姉さんと呼ぶ。ソフィーにとっては、ソフィア以外で唯一、彼女を姉さんと呼ぶ者である。

「ソフィアなら、きっと大丈夫。護衛も、たくさんついているから」

「そりゃあ、数だけは向こうが多いけど、俺やシャルルほどの腕はないし、機転も効かないさ」

「また、そんな口を叩いて」

「それに、俺はソフィー姉さんのためには死んでもいいと思ってる」

「ヴァレンティノ、命を粗末にするようなことを言ってはいけないわ」

「粗末にする気はないさ。ただ、ソフィー姉さんに救ってもらった命だ。ソフィー姉さんのためなら喜んで捨てるよ。俺と同じように思ってる連中は、数限りないだろう。おっさん連中も、それを期待して、姉さんをエクランに行かせるんじゃないかな」

 口は少々軽いが、なかなか鋭いところがある。それに、肝も据わっているようだ。彼のソフィーに対する感情は、敬愛を超えて、崇拝に近いものがあるし、確かに彼の言うように、彼女たちに同様の信仰を抱いている者は少なくないであろう。ペストは発病すれば半分は死ぬとされている恐ろしい病だが、姉妹はそれをまるで粘土細工を修復するよりも容易に、完治せしめる。ペストに感染し、死を覚悟したような者たちからすれば、彼女たちは神としか思えない。そうした者たちを解放軍に取り込もうというのが、ルブラン・サロンの主導者たちの狙いでもあるのは疑いようがない。

 エクランに着くと、その惨状はソフィーが妹ともにカーボベルデに初めてやってきた頃を思い出させるほどであった。ペストの状況が小康に持ち直したように思われたのは、あくまで姉妹の周囲に限っての話で、依然、半島全域、もしくは大陸全土で、その猛威はふるわれていたのである。

 一行は、カッシーニの別荘へと投宿した。彼の商売は帝国の主要都市すべてに広がっていて、支店や別荘のたぐいも両手の指では数えきれないほどに所有している。

 同行したサロンのメンバーは勇んで活動を開始しようとした。だがすぐに、プロパガンダを行うための大きな障害を発見することとなった。

 当地の軍官僚ディエゴ・ペドロサなる者が治安部隊を完全に掌握し、その統制は見事の一語に尽きるとカッシーニが評したほどで、とても大っぴらに反体制の工作活動を行えるような状態ではない。

「どうも、事前の調査が甘かったようだ」

 カッシーニ、トルドー、トスカニーニ、ブーランジェ未亡人の四者は額を合わせ、この町に足を踏み入れてようやく知った由々しき事態に眉をひそめた。

 帝国のたがは緩み、軍も役人もほとんど機能していないというのが彼らの一致した見解であったが、この地では軍に規律が行き届いて、ペドロサの号令があれば1,600もの兵があやまたずに動くよう、実によく訓練され、統御されている。

「ディエゴ・ペドロサ、なかなかの人物のようだ」

 しかし彼らとしては感心してばかりもいられない。軍が軍として充分に機能しているあいだは、彼らの目的達成のためずいぶんと動きにくくなる。というよりほとんど動けないであろう。

 となると、まずどうにかして軍の統率者たるペドロサを排除せねばならない。最上位者たるペドロサがいなくなれば、あとはいくらでも切り崩せる。組織というものは底辺から崩壊することはなく、頂上次第で、どうにでも変化しうるのだ。

 さて、どのようにして排除するか。

「金で抱き込むか、女を使って懐柔するか、流言から内輪もめを誘って失脚させるか、内間ないかんを用いて腐らせるか、あるいは隙をついて一思いに殺してしまうか」

 思慮深くも冷然たるブーランジェ未亡人のつぶやきに、ほか三名は少々、たじろいだ。彼女はルブラン・サロンのメンバーのなかではブラニクとともに数少ない女性であり、また最も新参ではあったが、その怜悧れいりなることは鎌のごとしと目されている。この評には、一見、槍や剣のような殺人的な冷酷さはなく、人々の生活のなかに使い良い道具として溶け込んではいるが、鎌のように内側に刃を秘め、いざとなれば相手の首を刈る非情さを持っていることを暗示している。確かに、同じ女性でもブラニクとは正反対に、物腰はやわらかく、田舎者らしい朴訥ぼくとつさがあるが、目的を遂げるためであれば手段を問わないところがある。

 三名の同志は、まだよく知らない彼女のそうした一面を垣間かいま見て、少しく鼻白んだわけだが、言うことは正しい。

 まずは焦らず知ることだ、となった。ペドロサなる者を徹底的に調べ上げ、のちに排除する適切な手段を考えればよい。

 ソフィーは、こうした名士たちの政治的運動とは明確に一線をかくしている。彼女はただ愚直に、ペスト患者の救済に従事した。彼女が口づけるたび、人は死への淵から現世へと呼び戻された。奇跡の術者がエクランに現れた、との報は、羽が生えたように街じゅうへと広まった。

 当然ながら、軍を預かるペドロサのもとにも、その報告は届いている。

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