始動
翌朝から、ルブラン・サロンは偉大なる術者姉妹の居候先から、解放運動の策源地として稼働を始めた。
大勢の名士たちがテオドールを取り囲み、
テオドールは指導者として、必ずしも独裁的に判断を下すことはせず、むしろ協議の結果を裁可し調整するという仕事に力を発揮した。サロンにはその道の専門家が幾人も揃っている。
例えば組織づくりの面では、もとは帝国の官僚でありながら腐敗した政道に嫌気が差して下野したゲンスブールや、小さいながらもアディジェ村の村長として組織管理経験があるブーランジェ未亡人が、テオドールと相談しつつ適材適所に人や資源を配置した。
資金や資材の面では、富商であるルブランやカッシーニ、武器商人のトスカニーニが強い。
世論操作は教育者として多くの門弟を抱えるクレッソン、思想家で遊説家のトルドー、慈善活動家のセルバンテス。
情報収集は
彼らはそれぞれの分野において一流の人物であり、働きも充分であったが、目下、決定的に不足しているのが軍事力である。
すでに反体制の気運は確実に半島全域に広がっていて、解放の下地は出来上がりつつある。しかし、サロンのメンバーにプロの軍人はおらず、傭兵さえいない。実際に挙兵して軍を率いるとなれば、かつて「鈴のシノーポリ」と呼ばれ、野盗として地盤を築いたこともあるシャルルあたりが頼りになりそうだが、野盗上がりが総指揮官ではどうも
しかし、どう
高潔な人格とまとまった兵力を持つ帝国の将軍が呼応してくれようものなら、それを指揮官として押し立ててゆけるのだが。
誰もが頭を抱えるなか、ブラニクがテオドールに一案を出した。
「昨日寝た男、軍や地方の官吏に
「どのような人でしょう」
「評判の
早速、人を
「僕が行きます」
当然、人々は止めた。解放運動はようやく指導者を得てその車輪を回し始めたというところなのである。妻も名誉も奪われ、皇帝に対し激しい怨恨と憤慨を抱いているであろうとはいえ、役位はれっきとした州の長官、つまりは高位の官僚である。のこのこと出かけていって解放運動への参加を求めるなどすれば、十中八九、飛んで火に入る夏の虫とばかりに殺されるのではないか。
しかしテオドールの意見にも理がある。
「我々が今、最も欠いているのはやはり兵力です。いくら地方で叛乱を扇動したり、金や食料をばらまいて募兵しても、それだけでは組織力のある中央の軍には勝てません。解放軍の中核になりうる、訓練された兵団がどうしても必要です。未だまとまった兵力を持たない我々が、アレグリーニ長官を同志の一人として招くなら、少なくとも名目上は指導者である僕が直接、会いに行って誠意と覚悟を見せる必要があると思います」
なるほど、さすが、という声が上がり、彼は少数の随員とともに翌日にはオルビア地方へと
ソフィアはそのことを、ブラニクを経由して知った。彼女が落ち着いていると、ブラニクは意外そうな顔をした。先日と同様、ソフィアが取り乱すのではないかと思ったのであろう。
「あら、彼が危険なことをするってのに、平気なの?」
「だって、よく分からないですから。私も姉さんと同じで、難しいことには関わらないようにしてるんです」
「はぁん?」
ブラニクは妙な声を出して、口元に薄い微笑みを刻んだ。切れ長の目はやや細く、射抜くようにソフィアの蒼い瞳を見据えている。そうした仕草が、同性のソフィアでさえしばしばどきりとするほどに妖艶なのだが、同時に彼女の心のうちのすべてを洞察しているようにも思われて、冷や汗が出る。
20歳にもなると、人の寿命の短いこの時代、結婚や子づくりの最適齢期とみなされるが、ソフィア自身はからきしのうぶと言うべき経験しかなく、つい先日、テオドールとのあいだに男女関係の大きな進展があっただけに、彼女にはとてもブラニクの視線を直視するだけの勇気はなかった。
翌朝には、テオドールは旅支度を整え、アレックスとアーヴェンを護衛に、サロンのメンバーでは最も若いデュランという書生だけを伴ってルブラン邸を後にした。
出発の際、彼は見送りに出た人々にいつものおっとりした調子で挨拶をした。彼の行動は、期待される見返りは大きいものの、いわば死中に活を求めるほどに危険であったのだが、彼自身はまるでこれから実家に帰省しようとしているように楽天的な顔をしている。それだけに見送る人々もどこか悲壮さがない。
見送るなかには無論ソフィアがいる。彼女は誰よりもテオドールとのしばしの別れを惜しんでいたはずであったが、姉の後ろに隠れて、目立たないようにしている。ソフィーは、世話の焼ける妹の手を引いて、あえてテオドールの前まで連れていった。
「ソフィア、行ってくるよ」
「うん」
「君を残していくのが、僕にはとてもつらいよ」
「私も、あなたが心配。あなた、鈍いから」
「ありがとう。いつも心配してくれて」
テオドールは親愛の情がこもった口づけを、ソフィアの額にした。
人々は大いに
「気をつけてね。待ってるから」
ぱっと笑うと、テオドールはいつまでも姉に
よく言えた、と褒めるように、ソフィーが彼女の頭を撫でた。
まるで子供のような扱いである。
テオドールが去ったあとで、サロンの座長格であるルブランは、ソフィーにある相談を持ちかけた。
「ソフィーお嬢さん、ソフィアお嬢さんは気丈に振舞っておられるが、大丈夫でしょうか」
「それは、大切な人が帰ってこないかもしれないと考えると、妹も気が気ではないはずです」
「あぁいや、さもありなんと存ずる。追い討ちをかけるようではあるが、ソフィーお嬢さんにはエクランに行っていただけぬかと考えております」
「エクランに?」
「はい、ご存知のようにお二方の尽力で、カーボベルデの黒死病患者も今は大いに減り、民も落ち着きを取り戻しつつあります。ここはソフィーお嬢さんに、帝国第二の都市エクランに赴いていただき、かの地で病に苦しむ人々を救っていただきたいと」
「どうして、妹ではなく私に?」
「失礼ながら、あなたはソフィアお嬢さんよりも安定している。もちろん護衛や随員はつけますが、見知らぬ土地に姉妹と離れて向かうのは心細いでしょう。だからこそ、あなたにお願いしたい。ソフィアお嬢さんは、我々がしっかり守ります」
「ルブランさん、私も失礼なことを申し上げるようですが、狙いは民の救済だけではないでしょう。エクランは人多き土地。独り歩きしている私たちの名声を利用して、兵を集めようというのでは?」
ルブランはソフィーのナイフのように鋭利で冷静な問いに一瞬だけたじろいだが、すぐに声を上げて笑った。
「さすが、ご聡明でいらっしゃる。正直に白状しましょう。まったくもって、その通り。お二方の術はまさに奇跡だ。その奇跡と、我らの解放運動とをうまく結びつけられれば、これほど都合のよろしいことはない。お気に召しませんかな?」
いいえ、と言うと、ルブランは少し意外そうな、あるいは感心するような反応を見せた。こうまであからさまに言えば、人格秀でたるソフィーといえど、多少は不快感を持つのではないかと思ったのであろう。
だがソフィーは、少なくとも自分では、世間で言われるような聖人ではないと思っている。術者であることを明かし、世に出て生きていく以上、自分たちの力や名声、存在が他者によって利用されることはやむをえざるところであろう。
「私たちは、政治や思想といったことには関わりません。より多くの人を救いたいという、私たちのその目的に合致する限りは、皆さんと手を携えてともに歩んでいけることと思います。ただ、妹には妹の考えがありますから、相談をさせてください。それでもし、お考えの通りになったら、どうか妹には厳重な警護をお願いします」
「いや、さすがはソフィーお嬢様である。風の術者は慈悲の気質を持つと聞くが、あなたは慈悲深いだけでなく、聡明で、志も高い。まさに奇跡のような方だ。あなたと同じ道を歩んでいけることを、私も心から願っております」
「ありがとうございます」
とは言うものの、果たしてソフィアが納得するであろうか。テオドールと別れ、今また一心同体とすら言っていい彼女と離れてしまえば、妹は孤独になる。感情の豊かすぎるほどに豊かなソフィアのことだ。ソフィーがエクラン行きの件を提案したら、彼女は姉に捨てられたと思い、苦悶するかもしれない。
しかし一方、それに耐えられないほど、ソフィアが弱いとも思えない。
(とにかく、ソフィアと話してみよう)
妹が強硬に反対するなら、そのときは改めて断ればよい話でもある。
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