『礼を尽くす』

石燕の筆(影絵草子)

第1話

「礼を尽くさせてください」


街中で気弱そうな女性がサラリーマンらしき男性に深々と頭を下げながら何度もありがとうありがとうと言っている。


どうやらハンカチを拾ってくれたことを感謝しているようだが、女性はありがとうと言うだけでは感謝し足りないのか自分で出来ることを何かないかなどとしつこくOL女性に迫る。

OL女性はあまりの女性のしつこさにいいですからと逃げてしまった。女性は残念そうな顔をしながらその場に立ち尽くす。

駅のロビーから改札を出たときその場を立ち去ろうとする女性が鍵を落としたのを見つけた平野は鍵を落としましたよと声をかけるとうなだれていた女性がパッと明るい表情になり

「ありがとうございます」と頭を下げながら平野の手を握る。

いやいや、いいですよと平野は言うがそれではこちらの気がすみませんとせめてご馳走させてくれと言う。


珈琲ショップに入り珈琲をおごってくれると言うので時間もあった平野はおごってもらうことにした。

それからも度々平野は女性とお茶を飲んだり食事に行ったりした。

平野は彼女と別れたばかりで女性は気弱そうではあったがなかなかかわいかったので付き合うことにした。

しかし何か助けたりするたびにしつこく感謝されるのでだんだんそれがいやになってきた。

そんなとき友達の紹介で出会った洋子とこっそり付き合うようになった。

気弱な女性はそれには気づかない。

そこにつけ込んだ平野は財布と呼んで金を要求するようになった。

何かわざと感謝されるようなことをしては女性に金を無心する。

その金で洋子と遊ぶ。

そんな日々が続いたある日洋子からの連絡がぱったりと途絶えた。

電話をするが、彼女は出ない。

彼女は会社を無断欠勤しているという。

そんなとき彼はいきなり突っ込んできた車と事故を起こしてしまう。

両足をなくすほどの事故だった。

花を持ってお見舞いに来たのはしばらく会っていなかった気弱な女性だった。

女性はベッドの脇の椅子にかけると静かにこう言った。

「まだあなたへの感謝が返しきれてません。残りの感謝のぶんはこれからあなたを介護することで返しますね」

そう言って女性は平野の切った足のちょうど腿の部分をすりすりと撫でた。

幸せそうな彼女は一言。満面の笑顔で、

「礼を尽くさせてください」と言うのだった。

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『礼を尽くす』 石燕の筆(影絵草子) @masingan

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