夢を追う君へ

井上 幸

【短編】夢を追う君へ

「先生。私、留学が決まったの」


 緊張した面持ちで、彼女は僕に声をかける。

 放課後の英語科準備室。僕は採点の手を止めて、ゆっくりと顔を上げた。本当はついさっき彼女の担任から知らされていたけれど、驚いたふりをする。


「そうか、試験受かったんだな。すごいじゃないか」


 嬉しそうにはにかむ彼女は輝いて見えた。一抹いちまつの寂しさを感じている僕は、上手に笑えているだろうか。声ににじんでしまってはいないだろうか。


「全部、先生のおかげだよ。ずっと試験対策付き合ってくれたし、それに」


 先生と同じ景色を見てみたいって思えたから、と小さく付け加えられる。

 確かに以前、翻訳者を目指すと話す彼女に自分の体験を語りはした。けれど、そんな風に感じてくれていたのか。じわり、とほおしゅが混じりそうになる。いけない。ぐっと気持ちをねじ伏せて、教師としての言葉をつむぐ。


「きっかけが何であれ、頑張ったのは君自身だろう? それは誇りに思うべきだよ」


 彼女は目を丸くした後、ふふっと花がほころぶような笑みを浮かべた。でも先生に会えないと寂しくなっちゃうなというささやきは聞こえないふりをする。僕は夢を追う君を、応援しているよ。



 それからまたたく間に数か月の時が過ぎ、彼女が旅立つ日がやってきた。いろいろと悩んだ挙句あげく、僕は空港まで足を運ぶ。見送りに行くとも伝えずに、用意した餞別せんべつを鞄に忍ばせて。我ながら最後まで煮え切らない。彼女に会う勇気も持てず、うだうだと迷ってばかりだ。


「えっ、先生?」


 聴きたかった声が耳に届き、一瞬夢かと思いながらも振り返る。驚きと嬉しさとが入り混じった表情を浮かべる彼女がそこに居た。

 大音量で流れる搭乗アナウンスや広告ミュージック、人々のざわめき。雑多な音が溢れかえる中で、それでも彼女の声は僕の耳を捕らえて離さない。

 ああ、もう。認めてしまおうか。僕はずっと前から、どうしようもないくらい彼女にかれていたのだと。

 不安そうな彼女の瞳が揺れている。何か言わなければ、そう思えば思うほど言葉に詰まる。僕は意識して静かに深く息を吸う。これが最後になるかもしれないと頭のどこかではわかっていた。けれど。


餞別せんべつを、渡しに来たんだ」


 緊張で手が震える。少し手間取りつつも丁寧に、折れてしまわないように小さな包みを取り出した。驚きに固まったままの彼女の方へ歩み寄り、あと一歩の距離で向かい合う。そっと包みを差し出すと、彼女は反射的に受け取った。


「びっくりした……! 先生、ありがとう」


 開けても良いか尋ねる彼女にうなずいて、近くに居た彼女のご両親と挨拶あいさつわす。


「わっ、可愛い! お母さん、見て見て。先生にもらったの」


 母親の腕にしがみつき、彼女は嬉しそうに笑っている。本当にとても可愛いわねとはずむ声に声に内心ほっとした。


「ぴったりなお餞別ね」


 彼女の手の中にあるのはシンプルな一枚のしおり。モチーフは1本の青い薔薇ブルーローズだった。


「ぴったり?」


 母親は彼女の疑問にふわりと微笑ほほえんでさとすように口を開く。


青い薔薇ブルーローズの花言葉は『夢叶う』。努力した先で神様に祝福されるという意味もあるの」


 今の貴女にぴったりでしょ、と柔らかい声で続ける母親の視線がこちらへ向いた。ほんの少し、何かを含んだような微笑みに耳が熱くなる。どうやらもう一つの意味も悟られてしまったらしい。居たたまれない気持ちを押し隠し、僕は別れの挨拶を済ませることにした。


「応援してるから、頑張れ。それじゃあ、元気でな」


 『大丈夫』『心配ない』『ずっと待っているよ』用意していたそんなセリフは最後まで口にすることができなかったけれど、それで良かったのだと思う。顔を見て話せた、それだけで今は充分だった。


「先生っ!」


 背中に投げかけられた声に足が止まる。


「もし私の夢が叶ったら、また逢いに行っても良い?」


 ひゅっと空気が喉で鳴る。もちろん、と応えた声は震えてはいなかっただろうか。そのまま振り返らずに片手をひらりと振って、僕は再び歩き出す。約束だよと追う声に、降ろした手をぐっと握り込む。このまま君をさらってしまえたら、なんて。らしくもない。教師失格だなと自嘲する。

 ぼやけた視界の中をゆっくりと進む。僕の中から何かが零れ落ちてしまわぬように。大丈夫、例え君が僕のことなど忘れてしまっても。僕は、君の未来を信じてる。


「いっておいで」


 随分後になって零れた言葉は君に届くだろうか。

 いつか『おかえり』と言えるようにと願いを込めて、飛行機雲が空に解けるのを見届けた。

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