じゃあさ、別れようか。それで…
〇
【KAC7出会いと別れ】
オレンジ色のace製スーツケースとHUNTERのショルダーバッグ(ムック本)。
これだけでわたしの旅立ち準備は完了した。
この家で過ごした期間を思う。3年と半年とか。そこまで考えて、いやそんなに荷物少ないの? 仮にも女ですよ? もっとこう、なんかないの? とは自分で自分に思わないでもない。
でも、こっそりバレないようにここを出るとなると、大きな物は諦めなければならないし。
わたしは傍らのスーツケースをしばらく見つめた。
ポリカーボネートのボディは鮮やかなオレンジで、このビタミンカラーがかわいくて買ったことを思い出した。ついでに、そのとき隣にいた謙也に「これすごくれいちゃんっぽいよね」と言われたことも思い出す。
「ダメだダメだ。いい思い出なんて思い出しちゃ。決心がにぶる」
と口に出してはみたものの、これだって謙也とたくさん旅行に行こうと話して奮発して買ったものだ。もっといろんな所へ行きたいね、と話しているうちにお互いの仕事が忙しくて天袋行きからのコロナ禍からの今回の出来事――。
はぁ。さすがに長くて重たいため息が出た。
ほかになにか持って出るものは、もう本当にないかな。と、ひょいと洗面所を覗いた。
鏡の前の小物を置くスペースにそっと手を触れる。
1週間前、ここに口紅が置いていた。
隠す感じはなく、もう本当にそのまま。誰かが置き忘れていたのを放置している感じで。
それで確信した。ああ、謙也にはわたし以外にいい人がいるのだと。
3年半、楽しくやってきたつもりだった。仲も良くてスキンシップも、そりゃあ付き合いたてよりは減ったけどそれなりにあったと思う。ただ自分はそうだったけど、謙也には不満があったのだろう。でなければ、こんなことにはなっていないだろうし。
確かにわたしは、一般的な女性よりも化粧っ気がなくオシャレでもない。それはきっと、心のどこかでわたしには謙也がいると思っていて。女を磨くことをサボっていたからだ。
謙也もそんなわたしに嫌気が差したのだ。でなければわたしの留守のときにほかの女の人を連れ込んで挙句にその人の忘れ物をあんな目立つところに置いたままにしておくわけがない。その理由がない。
「かわいかったな。あの子のリップ」
ぽつりとひとりの部屋で呟く。
あの子――会ったことないけれど、たぶんとってもかわいくてオシャレで自分磨きに余念が無い子――のリップ、確かあれ、
かわいいなとは思っていた。まぁ値段が高くて手が出せなかったけど。
そこまで考えて、かぶりを振る。
「ううん、もういい。もういいのよわたし。謙也のことは好きだけど……あ、ダメだ。涙が」
その時、扉が開いて、
「……け、んや?」
謙也が飛び込んできた。仕事の時のワイシャツ姿で、息を切らしている。
ああやっぱりカッコイイなぁ。なんて場違いなことが頭をかすめた。
「れいちゃん、何してんの?!」
大きな声でそう言われ、わたしは目を丸くする。そうしてまた傍らのスーツケースに目を落として、
「えーと、誤魔化せないよね。こんな格好じゃ。あのね謙也、わたしこの前ね、わたしのものじゃない口紅を、リップを見つけてね。それで、あまりにも堂々と置いてたもんだから、その……お世話になりました!」
言葉が全然まとまらなくて、涙が滲んできて、最後は勢いよくお辞儀をしていた。
下げた頭に、
「リップ? ちょ、何言ってんの? そんな。あ、もしかして!」
降る謙也の声。でも、その内容に違和感がある。おそるおそる顔をあげると、
「あ、それ! ポルジョのリップ!」
謙也のおおきな手の中には、ちいさな白い猫のリップが握られていた。
「今日も持ってるんだね。それ。さっきまで会ってたのかなぁ……」
口にするけど、謙也の目は見られなかった。「え!」という先ほどわたしを呼んだものより一際大きい声を聞くまでは。
えって、そんな驚く?
不思議になって謙也を見つめると、謙也はなぜだか耳まで赤くしていた。
「れいちゃん! 違う。これ、俺の」
目の前の真っ赤っ化した謙也が叫ぶ。
言葉が頭に遅れて到着した。
「……そっか。なるほど。なるほ、は?」
鏡があれば、わたしはきっと生まれて初めて【鳩が豆鉄砲を食ったような目】を見ることができたんじゃないかな。
それくらい謙也の発言の意味がわからなかった。
「その、すごくかわいいポルジョの新作猫リップが、謙也のだと、そう言うの?」
ゆっくりと、ひとつひとつを噛み締めるようにしてわたしは紡ぐ。
謙也も応えるように、ゆっくりと首を縦に下ろした。
みじろぎもせず、わたしたちはお互いを見つめ合う。スーツケースの柄を握る手に力を込めた。
「少し前、俺がリップクリームに結構こだわるって話したの、覚えてる?」
ややあって、謙也が沈黙を打ち破った。わたしは二度瞬きをして、かすかに顎を引いた。
「元々唇が荒れやすくって。色々調べているうちに、ここのリップトリートメントなるものを知って、猫のかわいさに一目惚れして。彼女につまりれいちゃんにプレゼントするふりをして買ってみたら、すごく良くて。唇とぅるとぅるになってさ。その、トリートメントを塗ったら次は色もあんまり良くないなと思って。トリートメントと色付きのリップを使うようになって。それで今度はポルジョの新作の猫ケースがかわいくて、それで初めてく、口紅を買ってみたんだよ!」
そう一気にまくしたてると、謙也は恥ずかしそうに顔をそらした。わたしはそっと近づくと、謙也の手の中にある猫リップを自分の手の中へとおさめる。キャップを外して中身を見ると、猫の耳が潰れて少しまるくなっていた。
じっとこの距離で見る謙也の唇は、確かにやわらかなピンクを帯びていた。それだけじゃない。わたしはふっと息を吐き出して、
「とぅるとぅるって言葉、吹き出しそうになった」
ようやく笑って謙也に向き合えていた。
「ご、ごめん。男が口紅とかキモイかなと思って、言い出せなかった。けど、慣れて無さすぎて片付けるのも忘れてて、れいちゃんにすごい誤解をさせた。れいちゃんがスーツケースに物詰めてってるの見てたから不安になって。仕事早上がりしてでも来てよかったよ。本当にごめんなさい! あの、あのバレたついでに何なんだけど、じ、実は……」
「謙也、別れよっか」
気づけばわたしは謙也の言葉を遮ってそう口にしていた。
超至近距離にいる謙也の驚いた顔ったらない。目を大きく見開いたかと思うと、捨てられた子犬のように潤んだ瞳で首をこっくりと動かした。
「う、うん。そうだよね。れいちゃん、男が口紅なんてキモイよね。ごめんね、それなのに引き止めちゃって」
「じゃあ、付き合おっか」
わたしはしどろもどろになっている謙也に向かって手を差し出した。謙也は案の定、狼狽している。
わたしはにひっと笑うと、
「ファンデーションもアイメイクもしてるでしょ。うっすらと」
謙也のほっぺたを指でつついた。
謙也が両頬におおきな手をのせる。
「な、なん、なんでなんでわかったの?」
「わかるよ。仮にもわたし、女なんだよ?」
そこまで言って、思う。そうだよ。わたし女の子なんだ。かわいいリップも綺麗なネイルも髪を整えることだって、好きなんだよ。元々は。
口にしてむくむくと【新しいわたしたち】でしたいことが沸いてきた。
「別に気持ち悪いなんて思わないよ。そんな偏見とかないし。でも、口紅でわたしがショック受けたのは事実だからさ。ただ、わたしも最近女の子サボってたから、この機会に一旦、今までのわたしたちを終わらせて、これからのふたりによろしくってしたいなーって思ったの。ふふっ。意地悪だったかもね」
謙也が唇を尖らせ、
「すごく、意地悪だったと思う。けど、俺も本当にごめん。あんなのがあったら、びっくりしちゃうよな」
最後は萎ませた。
わたしはスーツケースを部屋の隅に置くと謙也の手を取り、こう言った。
「ねぇ、今から一緒に買い物に行かない?」
一瞬不思議そうに目を瞬かせたが、すぐに合点がいったようで、
「い、行く! 一緒に買い物! あ、でも待って。一旦着替えてくるから」
謙也はそう言うと、わたわたと自分の部屋へと駆けて行った。
その背中を見つめながら、とりあえずわたしもオソロで買おうかな。あのリップ。なんてことを思っていた。
【了】
じゃあさ、別れようか。それで… 〇 @kokkokokekou
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