廃屋で出会った少女

鏡りへい

廃屋での出会い

 中学二年の夏休みだった。仕事で両親が不在の家に毎日閉じこもっているのに飽きた僕は、散歩がてら近くの廃屋に出かけた。

 元は小さなお店だったようだ。コンビニくらいの大きさで、スーパーだったのか雑貨屋だったのかは知らない。僕が生まれるずっと前、三〇年ほど前に閉店したきり、そのまま放置されているらしい。

 周囲は畑と工場で、人通りはそれほど多くない場所だ。

 この廃屋のことは小さな頃から知っている。

 親には近づくなと言われて育った。それは別に心霊スポットだからとか、変質者やホームレスが根城にしているから、というような事情ではない。単に他人様の敷地に立ち入ってはいけない、という意味だと理解している。

 通りに面した側のガラス戸は壊れていない。そこから内部を覗くと、取り残された商品棚に向かって朽ちた天井板が垂れ下がっているのがわかった。

 実のところ、ここに来るのは初めてではない。僕は見える範囲に誰もいないのを確認すると、裏手に回った。裏口のドアはドアノブが外れていて鍵がかからないのだ。

 僕はそっとドアを開いた。ひと月ほど前に来たときと変わらない光景が広がっている。むっとした熱気がこもってはいるものの、あちこち痛んで気密性はないので、空気が淀んでいるというほどではない。

 外側から見えない位置に椅子があるのを知っている。そこで本を読もうと思った。

 熱さ対策のため、団扇と携帯扇風機も持って来ていた。さらに涼しくなるように、選んだのは怖い本だった。

 天井から落ちた板や照明器具なんかを避けて椅子に向かう――。

 と、そこで予想外のことが起きた。先客がいたのだ。

 おそらく僕が入ってきたのに気づいて慌てたのだろう、女の子が椅子から立ち上がって硬直していた。悲鳴を堪えているのか、両手を口元に当てている。

 僕も驚いて、思わず息を飲んだ。咄嗟に幽霊かと疑う。

 たっぷり一〇秒ほど、僕たちは無言で見つめ合った。

「あの……ごめんなさい」

 とりあえず僕は謝った。相手が生きた人であれ幽霊であれ、ずいぶんと驚かしてしまったらしい――と思ったからだ。

 それをきっかけに相手も、詰めていた息を吐いた。

「はあ……。あの、人間……ですか?」

 と聞かれた。

「生きてる人間です」

 と僕は答えた。

 緊張がほどけたのだろう、女の子は途端に力の抜けた笑顔になった。

「なんだ、びっくりした」

「ごめんなさい。僕もびっくりして」

「ですよね」

 そこで二人して笑った。

 僕は椅子の前の台に置かれた漫画雑誌とペットボトルに気がついた。その台はちょうどいい高さで、僕もテーブル代わりに使っていたものだ。思わずにやっとしてしまう。

「考えること一緒ですね」

「あ……ひょっとして」

「はい――これを読もうかと」

 僕は斜めがけのバッグから本を取り出した。タイトルに実録怪談と入っている。

「……ここで怖い本ですか?」

 女の子はちょっと引いたようだった。

「だって暑いから」

 僕の答えに笑い出す女の子。

 女の子はちょうど僕と同じくらいに見えた。薄手のブラウスに膝丈のジャンパースカートを着ている。肩につかない程度のボブヘア。

 顔立ちは普通だ。――いや、普通だけれど、可愛いと思った。

 夏休みに出会った年の近い女の子。この状況が彼女を魅力的に見せたのだろう。僕はこれが運命の出会いなのではないかと期待した。一〇年後、二人は結婚していたりして……。

「座ります?」

 彼女が聞いた。いい声だと思った。高すぎず低すぎず、耳当たりがいい。

 僕はいつもの椅子は彼女に譲って、適当な台の埃を払って座った。持っていた団扇と携帯扇風機を取り出し、扇風機のほうを彼女に渡す。

 彼女は、

「何コレ? こんなのあるの?」

 と大げさに驚いていた。

 もちろん読書の予定は変更だ。おしゃべりに花を咲かせる。

 彼女はユカちゃん。中学一年生。

「同じ中学?」

 と期待するも違った。この辺りはちょうど市の境目なので、近所でも学区がばらけるのだ。

 どうしてここに来たのか、と問われた。誰もいない家にいるのが退屈なので、変化を求めて来たのだ……というようなことを答えた。

「ユカちゃんは?」

 同じような理由だろうと予想しつつ気楽に尋ねる。

 ユカちゃんは一瞬黙り、大きめの息を吐いてから答えた。

「家にいるのが辛くて」

「なんで? 一人だから?」

「一人ならいいんだけど……」

 軽く目を伏せるのがわかった。聞かないほうがいいのか、聞いてあげたほうがいいのか迷い、後者を選んだ。

「誰がいるの?」

「……お父さん」

「お父さん? ふうん、休みなんだ?」

「ううん。……ずっといるんだよ」

「働いてないの?」

「うん。……と思う」

「病気とか?」

「ううん、元気だよ。多分、働くのが嫌いなだけ」

「それは……困るね」

「うん」

 答えて黙り込むユカちゃん。

 僕は話題と目のやり場に困った。何か言うまで見つめるのも失礼だろう。わざと音を立てて団扇を扇ぎながら、廃屋内を見回した。

「……学校が休みだと、お父さんと二人きりになっちゃうから」

 意外とすぐにユカちゃんが話を続けた。誰かに打ち明けたいのかもしれないと思い、うん、と先を促す。

「……お父さん、乱暴なんだ」

「乱暴?」

「いつもお酒飲んでて。酔うと、怒鳴ったり物に当たったりするの。だからうち、穴だらけで」

「……大変だね」

「お金ないから直せないし。私の部屋にも入ってくるの。どこにいても危ないから、お母さんが帰ってくるまでは外にいたくて」

「だからここに――」

 僕は頷いた。ひょっとしたら夏休みが始まったときから毎日通っていたのかもしれない。僕が最後に来たのは夏休み前だ。

「でもここじゃ」

 と心配になる。暑いし、トイレも電気もない。蚊や蠅はいるし、一日いるのは大変だろう。

「何なら、うちに来る?」

 別に他意はない。うちは昼間僕一人だから、遊びに来てくれてかまわない。冷房はあるし、多少のおやつくらいは用意できる。蚊取り線香も。

「いいの?」

 ユカちゃんはぱっと笑顔になった。声も高くなって可愛い。

 その可愛さに思わずにやけて、咄嗟に表情を隠す。視線を逸らし――そこであるものに目が留まった。

 ユカちゃんが持って来たらしい漫画雑誌だ。少女漫画には詳しくないけれど、表紙に描かれたキャラクターには見覚えがあった。昔アニメ化されて大流行したせいで、世代ではない僕でも知っている。

 なぜそれが表紙を飾っているのだろう。今また連載をしているのだろうか。

 何だか気になった。じっと見る。でも何年の何月号なのかわからない。

「じゃあ、ついてくね」

 明るく嬉しそうな声だった。僕は反射的に、

「うん」

 と答えていた。

 ふと背表紙が読めた。数字で二〇〇五――と書いてあるように見えた。

 二〇〇五年? 僕が生まれる前だ。そんなに古い雑誌がなぜ――。

 はっとした。

「――ユカちゃん?」

 呼びながら見回す。いない。

 さっきまで話していた相手が忽然と消えていた。

「…………」

 僕は怖くなるのと同時に、怖いと思っていいのか迷った。ユカちゃんはきっと、僕を怖がらせるつもりなんてなかったはずだ。

 漫画雑誌を取り上げる。やはり二〇〇五年八月号とある。それなのに今月出たもののように新しかった。

 同じく台の上に残されたペットボトルに目をやる。見たことのない清涼飲料水だ。おそらくこれも昔売られていたものなのだろう。

 僕は携帯扇風機を回収すると、漫画雑誌を手に持ったまま家に帰った。


 週末、両親が揃っているときにさり気なく切り出してみた。家の近くにあるあの廃屋は心霊スポットなのだろうか。興味を持って僕に聞いてきた同級生がいるのだけど、と。

「出る、とは聞かないけど」

 と前置きした上でお母さんが教えてくれた。

 昔、隣の市で、子どもを殴り殺してしまった父親がいた。父親は事件を隠そうとして、あの廃屋に亡骸を放置した。しかし泥酔した状態での短絡的な行動だったため、すぐに発覚し、父親は逮捕された――。

「それって僕が生まれるより前?」

「ええ、そうね。――まさか学校で噂になってたりするの?」

「ううん、違うよ」


 僕は漫画雑誌を、自分の部屋にある背の低い本棚にしまった。その本棚の上に清涼飲料水のペットボトルを一つ置く。

「好きに飲んでいいからね、ユカちゃん。ゆっくりしてってよ。ここなら安全だからさ」

 誰もいない空間に向かって呟く。

 以来、ユカちゃんと再会したことはない。僕の周りで特におかしな現象が起きたこともない。

 ただ、いつまでもペットボトルを換えないままいたり、置くのを忘れていたりすると、いつの間にか漫画雑誌が本棚から出て床に落ちている。

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