第四十七話・鉄拳の修道女

 どこまでも続く草原。整備された一本道。曇りない空。

 中等の栗毛の馬、簡素な荷台、悪魔と人間。

 がらがらと音を立てて回る車輪、蹄鉄が大地を打つ。心地よいそよ風が頬を撫でた。

 後ろを見ればついさっきまで滞在していた街、ティシュトリヤ。

 街のいたるところに水路が巡っている綺麗な街だった。できればもう少し長く滞在していたかったものだが、そうはいかない。

 名残惜しいが目的地はまだまだ先だと言う。

 憂いに満ちた表情で大和は前を向く。

 御者台に座るはグレモリーだ。彼女も彼女で退屈そうに頬杖を突きながら馬を操る。

 本探しから一夜明け、グレモリーが主犯の単独行動についてダンタリオンからそれぞれ懲罰が言い渡された。

 サミジナ、マルバス、アミーの三人には一ヶ月間の街の巡回とダンタリオンの書類仕事の手伝い。

 グレモリーと大和はその二つの他に、もう一つ七十二柱悪魔の死亡を直々に報告しに行かなければならなくなった。

 本来ならば書面なり念話なりで首都にいるバアルへ死亡を伝えるのだが、ダンタリオンは怒り心頭。

 二人に直接赴くように命じたのだ。

 当然のごとく面倒くさがったグレモリーだが、どうにかこうにか渋々了承した。

 馬車に引かれる事、早三日。

 宿を取り、野宿をしながらやって来たがグレモリーと二人きりというのはどうも精神が磨り減らされるような感覚がある。

 彼女と一緒にいると良からぬ事に巻き込まれてしまうからだ。

 首都へ向かうこの旅もそのような事が起きそうな予感がする。


「なぜ我がこんな雑用をせねばならんのじゃ」


 この愚痴を聞くのは何回目だろうか。

 出発当日に四、五回ほど聞いて数えるのをやめた。


「お前のせいだよ」


 この返答も何回目だろうか。わからない。


「紙で送ればよかろうに。便利な機能があるならさっさと使うべきじゃ」

「罰の意味がないだろ。俺たちが直接出向く事に意味があるんだよ」

「我らが不在の分、街の警護が疎かになるだけじゃ。ダンタリオンはそれをわかっておらぬわ」


 ダンタリオン一人残して三日間街に帰らなかった者の発言とはとても思えない。

 説得力が全くないのだ。まるで反省していない。

 今までの大和ならばグレモリーの反撃を恐れて口を閉じていたが、一応相棒として言っておくべきか。

 唇が震えるのを悟られないように話す。


「グレムも同じだ。ダンタリオンだけを置き去りにしたから、一番たちが悪いと思うけどな」

「あ?」


 僅かな後悔。明後日の方向を向く。

 後頭部に視線を感じる。馬車が揺れた。

 手綱を放し、グレモリーが近づいているのだ。


「おい。こっちを向けい」


 気配はすぐ背後にある。

 怒りを孕んだ声が頭の中で反芻されて消えない。


「嫌に決まってる。力で従わそうとしてるんだろ」

「当たり前じゃろ」

「なんでだよ」


 端からグレモリーには平和的解決する気はない。

 出会って数日でその事実には気づいていたはずなのに、どうして無謀な挑戦をしてしまったのだろう。

 数十秒前の自分を恨む。

 グレモリーの手が大和の頭を鷲掴みにした、その時だった。

 障害物に乗り上げたのか、馬車が大きく揺れる。馬が嘶く。

 今しがた通った場所を見ると浅黒い巨大な何かが落ちていた。

 二人は最初、木の枝の類かと思っていた。だが、よく見ると違う。

 真ん中に折れ目があり、片方の先端は五本に分かれている。

 そして、まるで生きているかのように小刻みに痙攣していた。

 物体の正体を確かめるため、グレモリーが手を伸ばす。

 固有魔法『支配』の力で引き寄せられた物体はグレモリーの手中へ。

 掴んだ途端、また馬車が大きく揺れた。それだけの質量があるという事だ。

 物体には濃い毛が生えており、いぼが気持ち悪いくらいできている。

 近くで見るとその正体がすぐにわかった。


「う、腕?」

「のようじゃな。それもこの大きさは、トロールの腕じゃな」

「それにその断面……」

「左様。千切れておるな」


 巨大な体躯に怪力、醜い顔、凶暴な性格。怪物ではなく精霊の一種。

 というのが一般的なトロールのイメージである。

 その腕を引き千切ってしまうとは、余程の力がないと不可能。

 トロールを越える巨大な怪物か、それとも強力な魔法を受け、その威力で弾け飛んだ体の一部。

 いくつかの要因が頭に浮かんだ。

 どれを取っても、トロールの腕を千切るような強者をグレモリーが見過ごすはずがなかった。


「まだ近くにおるじゃろ! 探すのじゃ!」

「寄り道すんのかよ!」

「構わぬ! それ馬共! 走れぃ!」


 ピシィ、と鞭打たれた馬は一度上体を上げながら嘶き、再び地に両前足を着けた瞬間走り出す。

 小さな石に車輪が乗り上げて馬車が弾む。

 何かの拍子につけられた窪みを乗り越え馬車が弾む。

 未知なる強者を追い求めてグレモリーの心が弾む。

 完全に目的が刷り変わっている事に口を出せない大和も馬車に合わせて弾む。

 こうなったグレモリーは止められない。

 観念して、魔剣フルングニルを抜く準備をしておく。

 この戦況下、いくら味方陣地とはいえ発見した強者が敵ではないとは言い切れないからだ。

 どこから襲いかかられても対処できるように心構えを怠らない。


「ふむ、見当たらんのう」


 遮蔽物となる大岩や大木はどこにもなく、身を隠せるような場所はない。

 平坦な草原地帯が遠くまで続いているだけで、動いているものはない。


「大和も目を凝らせ」


 くだらない事で喧嘩するのも嫌なので大人しく従う。

 しかしそれらしき姿は見つからない。

 いよいよ不可視の魔法を操る者がトロールを葬ったのでないかと思った時、大和の目に人型が映った。

 それは見えない何かと戦っているように拳を振り、足を払う。

 グレモリーもそれに気づいたようで手綱を取り、方向転換をする。


「行け行け! あやつに違いない!」


 グレモリーの馬術で十秒と経たずに接近したおかげで人物の細部まではっきり見る事ができた。

 まず目を引いたのは全身を覆う黒の修道服。

 頭から背中まで垂れる長い頭巾からは黒髪が覗いている。

 修道服には蹴りを放ちやすいようにスリットが入っており、そこから見える足は陽の光を受けて艶かしく輝く。


「何と戦っているんだ?」

「見ておれ。助太刀するぞ」


 グレモリーは両手を前に出し、物を掴むように全ての指を曲げた。

 おそらく修道女が戦っている敵を『支配』で動きを止めたのだろう。

 修道女が正拳突きを放つ。彼女の前方の空間から野太い呻き声。

 ぐにゃりと空間が歪み、敵の全体像が現れる。

 最初は靄がかかったようにうっすらと、徐々に鮮明になっていくその姿はグレモリーの予想通りトロールであった。それも、片腕を欠損したトロールだ。

 つまり、この修道女がトロールの腕を引き千切った張本人で間違いなさそうだ。


「オォ……」


 トロールの巨体がぐらりと揺らぎ、大地に倒れ伏す。微かな地響きが周辺に起きた。

 馬車から降りて修道女の元へ。

 彼女は一切の傷も息切れもなく、少量の血液が付着しているだけで大事には至っていないようだ。


「大丈夫か?」


 大和が声をかけると、修道女は二人の方を向いた。


「あなた方ですの? 私を助けてくれたのは」

「うむ! その通りじゃ!」


 グレモリーが豊満な胸を張る。

 なぜそこまで自信に満ち溢れた顔ができるのか、大和には理解できなかった。

 通常であれば、反感を買いそうなグレモリーの態度に修道女は嫌な顔一つせず深々と頭を下げた。


「それは大変感謝いたしますわ。不可視の敵に苦戦していたところだったので、あなた方が来てくれなければわたくしはどうなっていたか……」


 修道女は軽く微笑んだ。

 先ほど見せられた荒々しい格闘術とは正反対の非常に礼儀正しく、所作の一つ一つが美しい。

 もし、今ここに事情を知らない人物が通れば傍らで倒れているトロールを仕留めたのは十中八九グレモリーだと答える。

 誰もがそう思うギャップが修道女にはあった。


「あれしきの敵、お主一人で片付けられそうなものじゃがな」

「そうですわね……、でもトロールは生命力が高い生物。例え、隻腕だとしても油断なりませんわ」

「慎重なのじゃな」


 グレモリーはつまらなそうに溜め息を吐いた。


「ところで、お二人は冒険者ですの?」

「いや俺たちは……いっ!」


 七十二柱の悪魔とその付き添いだ、と言おうとしたところでグレモリーに足を踏まれた。

 見上げると目線だけを大和に向け、余計な事を言うなと合図を送っていた。

 小さく首肯すると足を除けた。


「……冒険者です」

「まぁそれは素敵ですわね! 悪魔と人間の組み合わせなんて珍しいものですから、一体どんな素性の方なのかと」


 自身の種族を簡単に当てられてしまった大和は、ほんの数秒の間見えない鎖に縛られたように動けなくなった。

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