第四十四話・虹の階段はビフレストへ続く
七つの大罪の館の地下深く。
三つの錠を開け、扉横のパズルに手をかける。
並の頭脳では到底解けそうもないパズルを、ものの数秒で解いてしまう。やり方を教わっただけで何の自慢にもならないが。
普段、この扉の先には壁があり、仕組みを知らない者にとっては怪しくもあるが少し変わったインテリアにしか思わないだろう。
しかし天上の神々が許した時だけ、扉は本来の役割を果たす。
扉を開けると、そこは黒の背景に様々な色の煌めく石をばら蒔いたような場所だった。
それが上下左右三百六十度、見渡す限りどこまでも続いている。
ここは宇宙空間であった。黒の背景は闇。煌めく石は星。
正確には宇宙空間を間近で見れる神の御業によって作られた隔離空間。これの外に出てしまえば、たちまち窒息死してしまう。
初めてこの場所に来た時は心底驚いたな、と何度目かもわからない回想にベルゼブブは耽っていた。
回数にしてまだ十二回。決して多くはないが、ここに訪れず死んでしまう者が大量にいる事を考えると多いのか。
ベルゼブブは階段を上るように足を踏み出す。
不可視の段差がそこにはあった。
ベルゼブブがそれを踏み締めた時、虹色の波紋が広がる。波のように漂って、やがて消える。
もう一歩進むと、やはり虹色の波紋が広がる。
もはや見慣れた光景に興味は興味はなく、不可視の段差をただ上り続ける。
五界層からなるこの世の外側に作られた階段は、それぞれの世界に一ヶ所だけある出入り口から入る事ができる。
尤も、人間界にある出入り口は神の一部しか知らない極秘情報。
知った所で何もしないというのに。
「おーい! ベルゼブブ!」
下から男の声。何百年と連れ添ってきた相棒と呼べる男のものだった。
ベルゼブブは立ち止まる事なく進む。
「ちょ、ちょっと待てって!」
息を切らしながら猛スピードで駆け上がり、声の主はベルゼブブの二段下辺りまでやって来た。
そこでようやくベルゼブブは足を止め、振り返る。
「全く、この階段は不親切設計過ぎるな。悪魔や地獄の者どもの事を考えちゃいねぇ」
「文句があるなら神に言え。ここで愚痴るな、サタン」
その男は紳士服を身に纏っているが肥大化した大胸筋が胸ボタンを弾き飛ばし、筋骨隆々な胸元を露にしていた。
螺旋を巻いて真っ直ぐ伸びた角が頭に二本。
顔の大きさに合わない鼻眼鏡をかけ、強面でベルゼブブを睨んだかと思えば即座に笑みをこぼした。
「面白い冗談だ。俺たちの願いなんて聞いてくれるわけがねぇだろ」
「物は試しだ。言ってみるといい」
ベルゼブブは再び歩き出す。その後ろをサタンが不貞腐れた顔で追う。
ベルゼブブが悪魔界の王ならサタンは大臣といったところだ。
悪魔界に秩序をもたらしたそのもっと前、散り散りになっていた七つの大罪の面々が揃い、神々にこき使われた日からずっと七つの大罪第二位の地位を保持している。
力のベルゼブブ、知のサタンと周囲から称され、相談役として大いに能力を発揮するサタンはベルゼブブの右腕であった。
「機嫌悪くねぇか?」
「いや、むしろ良い方だ。旧友に会えた。ガキ共がいい活躍をしていた。転生者の大和もだ」
「俺はそいつを見たことないんだが、戦えんのか?」
「悪くはない。並の悪魔兵より何倍も強い」
ベルゼブブが他者を褒める時、それは彼の機嫌が良い事をサタンは知っていた。
四界層会議緊急開催で多少の苛立ちはあるだろう。先ほどの素っ気ない返事はそれが滲み出たせい。
だがそれよりも嬉しい事があったのは事実なようで、サタンは一安心した。
機嫌が悪いベルゼブブが会議で理不尽な提言をされた時の威圧感といったらそれはもう。宥めるのにどれだけ苦労したか。
「ならいいな。あいつらも使命を全うしているようでなによりだ」
実の子供のように育てた彼女らが元気そうでサタンの機嫌も良くなる。
最近、館の執務室に籠ってばかりで録に顔を見れていない。
そう言えば、とサタンは言う。
「頼まれてた会議の資料、こんなんでいいのか? 俺はまだ最低でも二年はかけたいんだが……」
サタンの言葉は比喩でも誇張でもなく、本当にそう思っているのだ。
日々、書類仕事に追われるサタンの元には、多少の誤魔化しが効くものから最重要機密のものまで、千差万別な書類が届く。
それらを彼は納得がいくまで仕上げる徹底した仕事振りだ。
ベルゼブブも日頃からその点を評価しているのだが、今回のようなすぐに資料がいる場合は多少妥協してもらわなければいけない。
「奴らを論破する必要はない。現状を知らせ、折衷案を議決するのが今回の目的だ」
「心が狭いあいつらがこれで納得するかねぇ」
会議の出席者分の資料が入った鞄に目を落とし、自信なさげに呟く。
「俺はお前の話術を信じている。頼むぞ」
気恥ずかしそうにはにかむサタン。やはり今日のベルゼブブは機嫌が良さそうだ。
それから二人は黙々と不可視の階段を上る。目的地まではまだしばらくある。
ようやく人間界を通り過ぎた頃、また下の方から二人を呼ぶ声がする。
「ベルゼブブさーん! サタンさーん!」
駆け上がってくるのは金髪の男。サタンと同じく紳士服を身に纏い、屈託のない笑顔で現れた。
背中に生えている黒い片翼を除けば真面目な好青年と誰もが認めるだろう。
「おお! ルシファー! 久しぶりだな!」
サタンが手を上げて応える。
七つの大罪で比較的若い部類に入るルシファーは悪魔族ながら地獄界の王を任された異端児。
任命当時は種族の違いから統率は難しいと思われていた周囲の不安もなんのその。
彼は誰よりも勤勉であり、謙虚であり、民衆の事を第一に思う優しさで信頼を獲得した。
今となっては立派な王である。
「いやぁ、お二人共、お元気そうでなによりです。最近は悪魔界の方も大変らしいですからね。お力になりたいんですが、仕事が忙しくって」
「気にするなよ。こっちは俺らに任せて、お前は地獄界で頑張っていればいい。な! ベルゼブブ!」
「……そうだな」
少し遅れてベルゼブブは答えた。
三人の間の空気が重くなるが、すかさずサタンが笑顔を貼りつけベルゼブブをフォローする。
「こんな感じだけど今日はご機嫌らしいぜ。グレモリーたちに会ったんだと」
途端にルシファーの顔が喜びに満ち溢れる。
「グレモリーさんに会ったんですか! って事はマルバスさんとサミジナさんにも会いました?」
「ああ。あいつら、元気そうだった」
「本当ですか! 久しぶりに皆に会いたいなぁ」
頬を上気させ、足取り軽くベルゼブブを追い越していった。
ルシファーとグレモリーたちは年齢が近い事もあってか仲が良い。
以前、ベルゼブブ直々に稽古をつけてやったこともあり、同じ釜の飯を食った間柄は数百年たった今でも色褪せる事はない。
「ささ、早く行きましょう!」
「待て、ルシファー」
勢いよく走り出そうとしたルシファーは呼び止められて急ブレーキをかけたため、前につんのめる。
転びそうになるのを踏ん張って、ベルゼブブの方を振り返る。
「何でしょう?」
「あいつは来てないのか。お前の補佐官は」
「ああ! 多分もうそろそろ来ると思い……」
「来てるぜ」
ベルゼブブがうんざりしたように振り向くと、そこにはベルゼブブを優に越す巨体。黄金のマントを羽織り、脳天には捻れた角が三本。
背中を大きく曲げ、ぎょろりとした目でベルゼブブを見下ろしている。
「よう、三十余年ぶりだな。蠅の王」
「そうだな、ルキフグス」
ベルゼブブは仮面の下からルキフグスを睨む。
地獄の王であるルシファーに仕える七人の貴族。通称、地獄の七君主。その筆頭であるルキフグスがルシファーの補佐官として同行。
過去に地獄界の在り方についてベルゼブブと対立し、決闘を繰り広げた以来、二人は犬猿の仲。
関係は一向に改善される事なく、現在に至っている。
「例の内紛は解決に向かってるんだろうな」
「多少はな」
「それに加え、転生者問題。秩序云々の話はどうなってる?」
「ここで話す事ではない。会議の場まで待て」
ルキフグスの魔力が増幅したのを感じ取ったサタンが間に入る。
ベルゼブブとルキフグスが顔を合わせる度に一触即発な状態になるため、毎回サタンかルシファーが止めに入るのが恒例となっている。
それが遅れれば怪我人が出かねない。
穏便にできないものかとベルゼブブ自身も思っているが、ルキフグスはそんな事お構いなしに突っかかる。
勘弁してくれ、と言わんばかりにサタンが溜め息を吐いた。
「ルキフグス、ここはベルゼブブの言う通りに会議の場まで抑えてくれ。暴れるんじゃねぇ」
「わかってらぁ。だがこいつのその仮面を見るとどうも苛ついてな。砕いてやりてぇんだ」
「おい。さっさと行くぞ」
ルキフグスを無視して、ベルゼブブは階段を上る。
その態度にさらに苛ついたルキフグスが大きく一歩踏み出した。
どれだけ強く踏み出そうと一切音は鳴らず、脅しにはならない。そもそもベルゼブブにそんな脅しは通用しない。
サタンが両手を前に出して、ルキフグスを鎮めようとする。
「暴れるなと言ったはずだが」
「ああ、暴れねぇよ。どけよ。進めねぇだろ」
サタンの脇を通り、進むルキフグス。
言葉通り暴れるな様子はなさそうだが、短気な彼はまたいつベルゼブブに突っかかるかわかったものではない。
いつでも止めに入れるように彼のすぐ後ろをついていく。
そうして剣呑な空気を醸し出しつつ、階段を上り続けた四人はやがて目的の場所に辿り着いた。
神界へと続く巨大な虹の橋、ビフレストだ。
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