自鳴本(オルゴール)の少女へ贈る涙

霧ヶ原 悠

自鳴本(オルゴール)の少女へ贈る涙

 

 昔々というほども遠くなく、昨日というほどにも近くなく。


 あるところに、古い古いお屋敷がありました。



 とても立派な赤煉瓦のお屋敷でした。


 蜘蛛の巣すら煌びやかなシャンデリアが天井を飾り、


 白い赤天鵞絨のカーペットが床に敷かれ、


 欠けてもなお天使の像は、お屋敷を見守っていました。


 その中に、たくさん本が置いてある部屋がありました。


 薄く射し込む太陽の光が、幽かに本の森の小部屋を照らしています。


 天井まで届く本棚が壁一面を覆い、それでもまだ入りきらなかった本が床に散らばっていました。


 積んでも崩れ、積んでも崩れ、やがて諦めてしまったような、そんな物悲しさがありました。        


 その中で一つだけ、美しい装飾を施された象牙の書見台スタンドがまっすぐ立っていました。


 その上には、これもまた見事な装丁の硬い本が置かれたままになっていました。


 金字で表紙を飾られたそれは、赤ん坊ほども大きさがありました。


 もはや開かれることのなくなったは、ページの中でただひっそりと丸くなっていました。



 ある日、ゆっくりと表紙が開く音がして、少女は目を覚ましました。


 星をちりばめた空色の光がページから溢れ出し、少女の姿を浮かび上がらせました。


 頭の高いところで結ばれた二つの銀の髪房は、まさに流れる天河。


 宇宙の果てを閉じ込めたようなラピスラズリの瞳は遠く。


 冴え冴えとしたシリウスのドレスを縁取るのはほうき星。


 羽のついたブーツは、黄昏れ過ぎた金星の空色。


 何も知らずに本を開いた小さな彼女は、とても驚いたことでしょう。


 大きな目をさらに丸くして、笑わない少女のことを見上げていました。


 目覚めた少女は、望まれたお役目のために歌い出しました。


 決められた歌を、決められたように、ただ美しく。


 愛もなく、夢もなく。



 少女は、自鳴本オルゴールでした。



 小さな彼女はそのことを知りませんでした。


 でも、少女の歌を好きだと思いました。


 歌が終わり、また少女が同じ歌を繰り返しても、ずっと聞いていました。


 聞き惚れて、惜しみない拍手を送り続けました。


 それから彼女は毎日お屋敷へやってきました。


 晴れの日も、雨の日も、毎日。


 楽しい時も、悲しい時も、毎日。


 結婚しても、老いても、毎日。


 少女の歌を聞くために。


 少女と話をするために。


 それは、ひとりぼっちで綴じ込められていた少女にできた、


 初めての「ともだち」でした。



 ある日、急に彼女は来なくなりました。


 少女はずーっと待っていました。


 そして、彼女が来なくなってから数日。


 少女は割れた窓から黒い葬送の列を見ました。


 彼女の葬列でした。


 棺に納められ、土を被せられた彼女は、もうここへは来てくれません。


 少し沈黙して、少女はまた歌い出しました。


 ありがとうもさよならも、少女は言えません。


 歯車の心臓が軋んでも、瑠璃色の瞳は何も零してくれません。


 だけど歌う。


 だから歌う。



 少女と彼女の想い出は、その歌だけでしたから。

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自鳴本(オルゴール)の少女へ贈る涙 霧ヶ原 悠 @haruka-k

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