復讐の月明かり

桃枝このは(ももえこのは)

第1章 大災害がもたらした平和

第1話 平和な暮らし



 ここではひとつ、歴史の話を。


 時代は少しだけ遡る。

 今から15年前、この「リストゥル」と呼ばれる島国や大陸、海が並ぶ星で大災害が起きた。


 そのとき私は、いつものカフェで、いつものローズヒップティーをすすり、いつものように読書をしていた。たまにはシフォンケーキでも頼もうか。そんなことを考えていた時に、それはやって来たのだ。


 突然、地面が揺れ、割れた。


 悲鳴が、叫び声が、こだました。


 地面が割れたあとは、その割れ目から溶岩のようなドロっとした炎が溢れ、吹き荒れた。おぞましく、何かとんでもない化け物を怒らせてしまったかのような光景だった。

 私の住んでいた村は燃え、誰ひとりとして逃げることはできなかったらしい。


 海は、というと。

 当然、波は激昂した犯罪者のごとく暴走し、街を襲った。幾つもの建物が流され、崩れ、そして連れていかれた。本来美しいはずの水が本性を剥き出しにした瞬間である。


 思い出したくもない情景だ。

 信じられないことに、それほどまでの大災害だったというのに、生き残った人類がいた。難を逃れた動物の類もいるらしい。


 私かい? 私はというとね――



 ▶


 ……まただ。

 たまに、目が覚めるととても疲れていることがある。体を休めるはずの休息の時間に、疲れが溜まる。夢を見ていたような気がする。遠い遠い春の日の夢だ。暖かく陽気な日差しの中で、麗らかな声に、――名を呼ばれたような気がする。


 そうだ。

 あれはきっと母の声だ。


 大きく伸びをして、記憶に残っていない母を思った。


 もうお昼らしい。


「ウー……ガルルルル……」


 鏡に映っているのは人間の姿をした、少しだけ焼けた肌に赤い目の少女なのに、頭のてっぺんには灰色の獣の耳がふたつ、立っている。

 これは間違いなく「」のもので、けれど私は「」で。


 言い伝えに残る「オオカミ人間」とは少し違う。満月の夜に理性をなくして暴れるようなことはなく、自由に狼の姿になれるだ。

 ただ、私のような存在を、人間と認めるものは数少ない。とてもじゃないが、先祖に獣の血が流れていない、彼らがそう呼ぶ純血の人間は、自分たちこそが人間であると謳っている。


 私たち獣は、どう頑張ってもであり、その事実には抗えない。生まれながらにして自分から立つ香りは慣れっ子だったのに、記憶の片隅にある母からは同じ香りというか、母の匂いはまた違っていた。


 きっとあれは人間の香りなのだろう。

 懐かしい香りを、もうここ十何年、感じていない。

 記憶にあるのは母の暖かい胸の中、母が好きでよく出してくれたサーモンのホイル焼きの味。

 母とわかれてしまった三歳の頃は、サーモンひと切れを食べきることができず、父が残りを食べてくれていたのを覚えている。


 あの日、私たち獣人は、人間の目を盗んで逃げ出した。


 波と炎に迫われながらも、私たちを逃がしてはならない、野放しにしてはならない、そう悟った人間たちは、矢を放ち、礫を打ち、そして私たちは獣であることを忘れ、背中を向けて走った。


 あまり覚えていないが、父が私の首元を咥え、仲間たちと野山を駆けた。

 遠くで、母が――


「ルーナ! ルーナはどこ!?」


 私の名を呼ぶ母の声も、もうそれしか思い出せない。

 夢で私を呼んでいたのは間違いなく母なのに、夢から覚めるとそれを忘れてしまう。現在の人間の医学でも夢については解明されていないことが多いらしい。


 私たち獣人は、獣と人間の血が混ざりあって生まれた。人間たちからはと言われ、村八分にされるだけならまだしも、高い税金を納め、そして畑仕事などの肉体労働を強いられていた。


 母とはあの大災害の晩に――


「ルーナ?」

「あぁ……父さん」

「なんだ、疲れているのか」

「ちょっとね。大丈夫。すぐ行く」


 今日は狩りに行く日だったのを忘れていた。

 今日のために爪をしっかりと研いだにも関わらず、忘れるなんて寝ぼけているのだろうか。


 先に出ていった父を追う。


「あっ……そうだった、ごめん、母さん」


 枕元の写真立てに声をかけてから出発だ。

 ボロボロの写真の、母さんのところだけ不自然に焼けてしまっているが、それはまたの機会に。

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