神様の忘れ者

天川累

神様の忘れ者

朝起きたら世界が終わっていた。

なんの比喩表現でも、誇張でもない。

古びたアパートの自室で隣の部屋から聞こえてくる騒々しいテレビ番組の音声も

15分に一回聞こえてくる殴りつけるような乱暴な電車の走行音。

希望に満ちた通学中の小学生の笑い声。

自分の中で朝を象徴するその雑音たちがある日の朝忽然と姿を消した。

それだけじゃない。

不思議に思い外に出てみると、建物や景色はそっくりそのまま

自分以外の人間が街からいなくなっていた。

最初は偶然人通りが少ないだけだと思った。

でも、歩いても歩いても人の姿は一向に現れなかった。

いつもは鬱陶しいほど賑やかな駅前ですら誰一人の影もみえない。

なんだろう、街を包む空気そのものがここに自分以外の人が存在していることを感じさせないようなひどく殺風景で、冷たい空気だった。


人がいなくなったこの世界はまるで、いつかの一瞬をそのまま切り取ったみたいだった。

時計の針はどの時計も午前7時34分から動かないし、バス停にはサラリーマンが時間つぶしに読んでいたであろう新聞紙がベンチに取り残されていた。

さらには、通学途中だったであろう小学生のランドセルが信号の前で縦並びに3つ放置されていたり。

生活の1秒間だけを綺麗に切り取ってそこから人の姿だけを排除したような妙な規則正しさと不気味さを感じる。

生憎、時計は動かなくても陽は昇ったり落ちたりしている。

人間の作った時間って概念だけが止められているようで、日が落ちたら眠りについて日が昇ったら起きる。

そんな生活を続けて早くも1週間が経とうとしていた。



「いつまで寝てるの。いい加減起きなさい。」


聞き馴染んだ声が聞こえて、まどろみから現実へ無理に引き戻されそうになる。

顔に当たる暖かな光と瞼の裏に映る明るいオレンジの景色が直感的に朝がきたという事実を認識させる。

しかし、重い体を起こす気にはなれない。もう少し、もう少しだけ。


「おきなさいって!」


ハッと目が覚めた。

まるで糸に繋がれた意識を大きな力で引っ張られたように急に眼が覚めた。

しかし、目の前には誰の姿もない。おまけにそこは古びたアパートの一部屋の景色。母親の声や姿も、実家の匂いもそこにはなかった。

夢か。それはそうだ。今更実家に顔向けなんて出来るわけがない。

自分の周りを包むこの静寂がこっちは夢じゃないことを教えてくれる。

人がいなくなって今日で8日目。

壁に白いチョークで書き刻んだ二つ目の正の字に3画目を加える。

時計も日付も変わらないから日が昇るたびに自分で日数を数えないと頭がおかしくなりそうだった。

コーヒー1杯分の少量のお湯をやかんで沸かし、その辺に脱ぎ散らかしたズボンとシャツをテキトーに揃えたら、洗面所で顔を洗う。

この生活が一体いつまで続くんだろうか。

消えていった人々は今どこにいるのだろうか。

なぜ、自分だけこの世界に取り残されてしまったのだろうか。

甲高い悲鳴のようなやかんの声に急かされて慌ててまたキッチンに戻る。

朝のコーヒーの味はこんな状況下でも変わらずに、まずくも美味しくもなかった。

よかった。この微妙な味を楽しめている間はまだ人としての生活を捨ててない気がする。



外に出ると相変わらず生気のない風が前髪をそっと崩した。

財布と携帯をポケットにねじ込んだ軽装でまたいつもの場所に向かう。

しばらく過ごしてわかったことがある。

大体の場所は鍵が閉まっていて入ることができないが、ほんとにたまに鍵が開いているドアがあったり、扉が開いている店があったりする。

おそらく切り取られたあの瞬間に扉が開いていた場所には入ることができるのだと思う。鍵が閉まっている場所も鍵さえあれば入れるのだろうが見つける術はどこにもない。

近くのコンビニエンスストアが偶然自動ドアが開いている場所で本当に良かった。

ここ1週間弱。なんとかそこから食料は確保できている。

コンビニに陳列されている食料も中身が腐っているとかはなく食べても問題はなかった。

スイーツや生ものはもう時間が経ってしまって食べるのにはリスクが高いが、それ以外の食べ物ならなんら不安を抱くことなく食べることができる。

テキトーに選んだ2人分の食料と飲み物を持ってコンビニを後にする。

人が消える前はたしか朝方は元気な外国人が接客をしてくれてたっけ。

レジのカウンターにおそらく持っていく商品の料金であろう金額を置いて出ていった。

意味なんかないのはわかっている。

でもなんか、お金を置いていくことによってふと誰かが帰ってきたりとかしないかなって思ってしまうんだ。



渋谷の中心街にある古びたビルの屋上に最近は毎日通っている。

決して綺麗とはいえないこのビルの屋上は渋谷のスクランブル交差点を一望でき、とても景色がいい。

もっと前にこの場所を知れたら最高の居場所になっていただろうな。

いや、人が消える前にこの場所に来ても屋上には入れなかっただろう。

軋む屋上のドアを開けると、生ぬるい風が全身に寄ってたかった。

乱れた前髪を指で整えると、狭い屋上の一番先で一人ポツンとうずくまっている華奢な背中が見える。


「おはよ。」


小さな体の脇にコンビニの袋を置き、隣に座る。


「おはよ。」


呟くような声でそう返ってきた。しかし、目線はこちらに向かず体育座りでひたすらにスケッチブックに絵を描いている。

相変わらず不愛想なやつだ。

出会った時からそうだった。まるでこちらに心を開いている様子がなく、一心不乱にスケッチブックになにかしらの絵を描いている。

名前も、年齢も、職業も何一つ自分のことを語らない。

見た目からして、高校生くらいだろうか。自分より少し年下くらいではないかと勝手に思っている。


彼女に出会ったのは人が消えて3日目のことだった。

誰かしらの存在を求めて渋谷まで途方もなく歩き続けている道中で道に倒れこんでいる彼女を見つけた。

恐らく3日ほど食事もしてなかったのだろう。

ひどく力なく地面に横たわっていた。

最初は生きている人間だとは思わなかった。

ここ3日間、誰とも遭遇しなかったからだ。

しかし、息があるのをわかると咄嗟に体が動いた。

急いで水と簡単な食料を調達し、彼女に食べさせた。

久しぶりに食べた食事のおいしさに感動していたのか、自分以外の人に会うことができて安心したのか、彼女は静かに涙を流しながらおにぎりを頬張っていた。


一息ついた後、いろいろと彼女に質問をしてみた。

他の生存者はどこにいるのか知っているか。なぜ人がいなくなったのか。

その答えはどれも、わからない。だった。

それもそのはずだ。自分と同じく何もわからないまま急に世界が終わったのだ。

誰もいなくなった世界で自分の生きている意味がわからなくなり、そのまま死のうと思ったらしい。

僕は自分以外にも生きている人がいるということに希望を抱き喜びを感じていたが、彼女の澄んだ目からは希望の光を感じなかった。

なにかを悟っているようなその目に胸のざわつきを感じたのだ。



しばらくすると彼女は、落ち着く場所に行きたいと言った。

そして彼女の後ろをストーカーのようについて歩いたら渋谷の古いビルの屋上にたどり着いた。

そこにたどり着くや否やおもむろにカバンの中からスケッチブックを取り出し何やら絵を描き始めた。

絵を描いている時が一番楽しく、心が落ち着くらしい。

絵を描き始めてからというもの、こちらの質問にはすごく淡泊になった。

これが本来の彼女なのだろうか。名前を聞いても答えてくれない。

年齢を聞いても答えてくれない。

しかし、呼び名がないと何かと不便だ。

おいとか、お前とか熟年夫婦のような呼び方をするわけにもいかない。

仕方ないから特徴から名前を考えることにした。

小さく華奢な体、透き通る茶色の目、長い黒髪、紫のパーカー。

彼女の特徴から考え、「村 さき子」という名前をつけたが、秒で却下されてしまった。

今まですごく淡泊な返答だったのにそこだけ強くはっきりと却下されてしまった。


呼び名を悩んでいると彼女の方から初めて「ラビニア」と呼んだらいいと提案された。

何かのアニメのキャラクターの名前だろうか。

妙に洋風なその名前に違和感を憶えつつも、それ以外に思いつかなかったのでその日から彼女はラビニアとなった。


そこから数日、僕はラビニアと共にする時間が多くなった。

どんな時でも、彼女はあの屋上で絵を描いている。

自分で何か食事をする気にはなれないだろうから、毎日そこらで買ったテキトーな食べ物を届けては特に何をするわけでもなく絵を描く彼女の後ろでボーっと寝転んだりしている。

相変わらず何を話しても淡白だ。

どんな会話も話の広げようがない。

でも、唯一映画の話だけは少しだけ盛り上がった。

ラビニアは暗い海外の映画が好きらしい。

人間の感情を揺さぶるような陰鬱な展開を好むそうで、ド派手アクションやファンタジー大作を好む僕の趣味嗜好とは対照的でおもしろかった。

死ぬ前にミッドサマーとムカデ人間を見ることを勧められたが、レンタルショップでパッケージだけ見て、なんとなく借りるのはやめた。


ラビニアは淡白でこちらを厄介がっているように見えるが、決して急にいなくなるようなことはなかった。

本当に僕のことを避けたいのなら、場所を変えていなくなるべきだ。

連絡手段を持ち合わせていない僕らにとって姿を眩ますことなんて何よりも簡単なことのはずだ。

でも、そうしないのは恐らく彼女も僕と同じでこの世界に取り残された孤独を感じたくないのだろう。

一緒にいることのできるたった1人の存在。

僕はラビニアといる時間が好きだ。

何をするわけでも話すわけでもないけど、一緒にいてなんか落ち着いた。

彼女もまたそう思ってくれてたらいいのだけど。



人が消えて8日目の朝、僕は買ってきた食料を彼女の横に置き、隣に座る。

今日もいつも通り空は青くて、渋谷は誰もいなくて、変わり映えがしない景色だ。


「食べ物、ありがとう。」


こちらに目を向けず、ラビニアは小さく言い放った。


「いいんだよ。そろそろコンビニも飽きたから、何か美味しいもんでも食べたいな。」


うん。熱心にえんぴつを動かしながら淡白にそう答えてくれた。

最近、少しずつだけど彼女の感情表現が多くなってきた。

ありがとう。おいしい。あったかい。さむい。

ほんのちょっとの会話にもならない独り言だけど、それでも心を開き始めてくれてるようでとても嬉しい。

短い会話のラリーもできるようになった。

彼女にとって大きすぎる一歩だ。

この調子なら、聞けるかもしれない。

僕はずっと気になっていたことをついにラビニアに尋ねてみることにした。


「ねえ、その絵何描いてるの?鳥?」


ラビニアのスケッチブックには鉛筆で描かれたすごく繊細な大きな鳥の絵が描かれていた。この世界になってもなお、描き続けられる絵に興味があった。


「鳥だよ。幸せの青い鳥。」


珍しく、こちらに目を合わせてそう答えてくれた。

透き通るような澄んだ目だ。

幸せの青い鳥は知っている。

見ると幸運になれる青い鳥。

でも、それは小鳥のイメージが強い。

スケッチブックに描かれているのは鷹のような大きな鳥だ。


「鷹にも青い鳥っているの?」


「わかんない。鷹ってさ、すごく遠くが見えるらしいの。でも、そんなに遠くが見えすぎたら幸せになんてなれないと思うの。小鳥くらい小さくて狭いとこだけ見えてるから幸せになれるんだと思う。だから、鷹は青くない。」


むずかしい。彼女の言ってることはわかるようでわからなかった。

達観しているような彼女自身が鷹のような存在なのだろうか。

まだ色のついてないモノクロの鷹を眺めながらなんとなく答える。


「鷹だって目をつむる時もあるよ。無理に遠くを見なくてもいいんじゃない。」


すると彼女は少し驚いたような顔をして再び鉛筆を走らせる。これが正しい返答だったのか。わからない。彼女はわからないことだらけだ。


「いったいこの生活、いつまで続くんだろうな。」


明らかに異常をきたしている世界なのに毎日は当たり前の顔して進んでいる。

この先に何が待っていると言うのだろうか。


「そう長くはないよ。きっと私たち、神様の忘れ物なんだよ。しばらくしたら、取りに戻ってくるよ。」


神様の忘れ物。言われてみればそうかもしれない。

忘れ物みたいにポツンと取り残された二人。

もし神様が取りに戻った時待っているのは希望なのか、絶望なのか。

ラビニアの含みのある言い方だと、後者を指しているようになんとなく思えた。


「まだ終わったわけじゃないよ。例え他に人がいなくたって、ほら、アダムとイブだって最初は2人で、、」


彼女をなんとか前向きにさせようと思ってよくわからないことを口走ってしまった。

なんだよアダムとイブって、、


「は?あんたと?無理。あり得ない。」


「そうじゃなくて!探せばだれかいるかもしれないし、まだ諦めるのは早いって意味で!」


「ふふっ。へんなの。」


あ、笑った。

彼女と会って初めて笑顔を見ることができた。

その笑顔は普段の掴めない彼女の雰囲気を優しくし、どこか幼さのある可愛らしい笑顔だった。

人の笑顔を見るのってこんなに嬉しいんだ。


「でもね、この鳥。ここじゃ狭すぎる気がするの。学校には大きなキャンパスがあるけど今は入れない。」


さっきまでの笑顔とは逆に今度はしゅんと悲しそうな顔を見せた。

確かに、スケッチブックに描かれている鷹は大きいが悠々と羽を広げているようには見えなかった。

狭い壁の中で苦しそうだった。

僕はなんとか彼女に笑顔になってほしい。

そのためだったらどんなことでもできると思った。

だから、この鳥を自由に羽ばたかせられる方法を考えて、考えた。

今の僕らにしかできないこと。それは、、


「だったら、ここに描いてみたらどうかな。」


僕は屋上から真っ直ぐと斜め下に指をさした。

その指が向かう方向。東京の大きすぎる建物や雑居ビルを突き抜けて指した場所。

それは、渋谷スクランブル交差点。

この場所に大きな大きな青い鷹を描くのが一番良いのではないかと思った。

人がいた頃はいつ何時たりとも無人になることはないと言われたこの交差点。

今は空っぽだ。そして、人がいないと、こんなにも広い。


「ここって、交差点に絵を描くの?」


「そう、ここだったら自由に羽ばたけるんじゃないかな。」


思わず立ち上がり困惑した表情で僕を見つめるラビニア。

さすがに、無茶を言い過ぎたか。芸術系のことはまるでわからない。


「あんたって正気じゃないね。」


たしかにそうかもしれない。人がいなくなってからまともな考えができなくなってるかもしれない。

それでもいいんだ。おかしいのはもともとこの世界の方なんだから。


「でもさ、すっごく楽しそう。」


澄んでキラキラとした眼と僕の眼が合い、彼女は微笑みかけてくれた。

その微笑みに釣られてこちらも自然と口角が上がってしまう。

すると彼女は、スケッチブックをリュックにしまいこんで、何やら荷造りを始めた。

リュックの中からいろんなものを出したり入れたりして、あれやこれやと荷物を選んでいるようだった。


「早速明日の朝から始めたい。道具を探しに行かなくちゃ。スプレーにチョークに絵の具、あと定規とかもほしいかな。」


やる気になった彼女はすごく行動的で、ここ数日見ていた途方に暮れた姿とは大違いだった。芸術家は作品を作る時は人が変わるというが、彼女もそのタイプなのだろうか。

屋上から外に出ようとドアに手をかけた瞬間、ふと彼女は振り返った。


「大きすぎるから、たぶん一人で描ききれない。一緒に来てくれるでしょ?」




次の日の朝、いつもより早く目を覚ました。

いつも通り少量のお湯でインスタントコーヒーを作り一杯だけのコーヒーを喉に流し込む。

今日のコーヒーは、なぜだろういつもより美味しい。

陽が昇り始めてそんなに経っていない透き通った日差しを浴びていつもより優雅な朝の時間を楽しんだ。

ラビニアに持ってくるように頼まれた荷物は想像よりも多くて、修学旅行の時に買った大きめなリュック一つでは入りきらなかった。

仕方がないから、手持ちのカバンに残りの荷物を入れてそれを両手に抱えて渋谷まで歩いて向かう。

さすがに少し、重すぎる。

昨日1日がかりで都内を自転車で走り回って集めた材料たちは思ったよりも多かったから渋谷まで何往復もかかってしまった。それだけでなく、長期間滞在できる準備も一緒にカバンの中には詰まっている。

久しぶりの感覚だ。

小さい頃、遠足や旅行に行く当日の朝の眩しさ。それと同じものが今僕の全身を駆け回っては年甲斐もなくワクワクしている。


交差点に着くと少し先の方に地面に何かを描いている人影が見える。

ラビニアだ。

予想はしていたが、彼女の方が来るのは早かったようだ。

折れそうな腰とちぎれそうな腕をなんとか繋ぎ留めていたから交差点の真ん中で倒れこむように大の字に寝転んだ。

今日も空が青い。雲一つない快晴で世界の終わりなんて関係ない顔をしている。


「おはよ。荷物重かったでしょ。ありがと。」


さっきまで青空だった視界の中にラビニアの規則正しく整った顔が唐突に入ってくる。


「おはよ。大丈夫、大丈夫。いろいろ持ってきたよ。朝ごはんも。」


カバンの中からいつものコンビニ袋を出しておにぎりやパンやその他もろもろなんとかお腹にたまりそうなものをたくさん買ってきた。

そういえば好きな食べ物とかも聞いてなかったな。

次何か買う時は彼女の好きな物を探してみることにしよう。

食べ物の包装を無造作に破いてビル群に囲まれた大きな交差点の真ん中でおにぎりを頬張る。

世界の中心に自分たちだけがここにいる。そんな気分に浸ることができる。

これを食べ終わったら、始まるんだ。

僕たちの一生に一度の共作が今、産声をあげたのだ。



青い鷹の製作はゆっくりと時間をかけて繊細に作られた。

まずは、地面に白いチョークで輪郭だけを描いた。キャンバスが大きすぎたからまっすぐと線を引くのにも一苦労。ましては綿密な顔の表情部分はかなり苦戦を強いられた。最初は鷹の顔を担当していたのだが、あまりの絵心のなさにものの小一時間で担当を外されてしまった。顔の部分だけコロコロコミックみたいな作画になってしまったから無理もない。

ついには、あんたは美術の道に進まなくて正解だったとなぜか人生を肯定されてしまった。

それからは上からみて細かい調節を指示したり、絵の具の準備などを主に担当し、ラビニアが構造はすべて描いてくれた。

そんな大掛かりな作業が一日で終わるわけがなく、モノクロの鷹を完成させるのにも数日を要した。

作業期間中、寝ても覚めてもラビニアは青い鷹のことだけどものすごい集中力で考えていた。

家に帰って寝る手間もはぶきたいと、いつもの屋上に二人分の寝袋と小さな焚火を焚いて一緒に夜を過ごした。

意外にも寝相が悪いようで昨晩隣で寝ていたはずのラビニアが屋上の隅まで転げ回っていたこともあって大変だった。

家からいつものやかんと持ち運び式のガスコンロを持ってきていたから、朝目覚めたらいつも通りのコーヒーもラビニアに振舞った。

可も不可もないコーヒーを彼女はおいしいと言ってくれた。

お世辞でも嬉しかった。

自分も飲んでみたら、彼女が美味しいと言ってくれた分、美味しかった。

息抜きには二人でキャッチボールをしたり、トランプをしたりして過ごした。

ババ抜きだけは二人でやる遊びじゃないことを痛感させられた。

ものの数分で決着がついた。

数日を要した輪郭を作る作業だったが不思議と退屈にはならなかった。

それどころか誰かを何かを作るという経験があまりなかったため、新鮮で楽しかった。

人が消える前もこんな風に一緒に楽しめる仲間がいたら、どれほど良かっただろう。


人が消えて12日目。

ついに輪郭が完成し、色をつける作業に移った。

事前に汚れてもいい格好を持ってくるように言われたが、人目を気にしなくていいのだから、もはや何が汚れたっていい。

青という色一色にもいろいろな種類があるらしい。スカイブルー、コバルトブルー、アクアマリン。

彩度の違う青をいたるところに織り交ぜて色の立体感を出すんだそう。

バケツに入れた様々な青を思いきり地面に向かって水巻のようにまき散らす。

そして、まき散らした色を丁寧に伸ばしていく。

これの繰り返しだ。

バケツをひっくり返して、色を伸ばして。

ひっくり返して、伸ばして。

当然絵の具が服や顔に跳ね返ってくるがそんなことは関係ないほどただ純粋に楽しかった。

絵の具まみれに汚れたお互いの姿は滑稽で視界に入るたび二人で笑いあった。


「悠太。楽しいよ。私、すごく楽しい。」


笑顔にも泣き顔にもみれる最大限の笑顔で絵の具に汚れた彼女はそう言った。

これだった。僕がずっと見たかったのはこの笑顔だったんだ。


「あぁ、楽しいな。ラビニア。」


地面に描かれた白かった鷹は段々と青に染まっていく。

その青に染まり上げらえていくように僕の心の中も同様に色が付き始めている気がした。

なにも失いたくなくて、誰にも裏切られたくなくて。

ずっと一人で心を閉ざしていた僕の心はまさにモノクロだった。

世界の眩しさなんて縁もゆかりもない殺風景な自室でただ毎日を半ば強制的に生きていた。

人が消えて良かったことなんてないと思っていた。

静かにはなったけど、すべてがなくなったようで絶望だった。

でも、彼女といられるなら。こうして笑い合えるなら、この世界も悪くないのだと思えた。

僕の心の中を彼女という色が美しく染め上げてくれている。

それが泣きそうになるくらいひたすらに嬉しかった。


鳥は鮮やかな青に染まり全体的な染め上げは終わった。

最後は鷹の瞳に差し込むブラウン。

ここだけは二人で一緒につけようと決めていた。

色をはがさぬように充分に乾いた鷹の上で、小さな筆を二人で持っている。


「それじゃあ、いくよ。」


僕の言葉に彼女は小さくうなずいた。

せーの、掛け声と一緒に鷹の瞳に映るブラウンの輝き。

完成だ。ついに完成した。

大空を舞う幸せの青い鷹が渋谷のど真ん中で大きく羽を広げている。

2人はすぐにいつもの屋上に駆けあがり上からその景色をみる。

それは今までみたどんな絵画作品よりも美しくて、まるで生きているかのように繊細だった。


「ついに、、ほんとに完成したんだね。ラビニア。」


すると彼女はこちらをみて大きく首を横に振る。


「私の名前、朱里っていうんだ。今まで言わなくてごめん。」


朱里。彼女に似合う素敵な名前だ。


「悠太。ありがとう。一緒に夢を叶えてくれてありがとう。もう人生に後悔はないよ。楽しかった。」


2人で作り上げた絵をみて黄昏る彼女に僕は新たな提案をしてみる。


「ねえ、明日。二人で東京を出ようよ。

使える車を見つけたんだ。ドアが開いて、エンジンもかかる。それで二人でまだ生き残っている人たちを探そう!もし誰もいなかったとしても、一緒にどこまででも行こうよ。北海道だって、沖縄だって行けばいい。ここにいるよりもたくさんの景色を僕は朱里と見たいんだ。」


言った。言い切った。青い鷹の製作中なんとなく歩いた小道でエンジンのかかる車を見つけた。この東京の中でとどまっているのにもどかしさを感じていた頃だ。

京都とか、富士山とか日本のいたる絶景を彼女と共に見たいと思った。

二人でどこまでだって行きたかった。


「北海道や沖縄は車じゃ行けないよ。」


揚げ足を取るかのように言い放ったその言葉だったが、言葉とは裏腹に満更でもなさそうな笑みを浮かべた。


「連れてってよ。良い景色。」


しばらくの沈黙の後、彼女はそう答えてくれた。

よかった。彼女なら一緒に行ってくれるとそう思っていた。

絶望だらけだったこの世界、今は違う。むしろ、神様が僕らに与えてくれた自由な世界のプレゼントだったかのかもしれない。

周りばかり気にしていた僕らに自分達の好きで生きていい世界。

ポジティブに考えればそれを用意してくれたようにも捉えられる。

これからもたくさん彼女の笑顔を隣で見れることに幸福感を感じていた。




14日目、深夜3時。

地面が大きく揺れた振動と、異様な雰囲気に目が覚めた。

地震だろうか。こんな時間に、明日のためにゆっくり寝ておきたかったのに。

カーテンを開けて外を見る。

空には辺り一面オレンジの光。もう日の出か。

違う。陽の光よりも濃い赤に近い空の色が地平線の果てまで広がっていた。

そしてまた起きる大きな揺れ。

今起こっていることを直感的に感じ取って反射的に外に出た。


外に出るとそこには恐ろしい光景が広がっていた。

東京の地面が、建物が、茜色の空に吸い込まれていく。

重力に逆らったその流れは激しく、油断すれば自分も空に吸い込まれていきそうだった。

そうだ、これは本当の意味での世界の終わりだ。

崩れかけの地面を飛び越えながら全力であの場所へ走っていく。

彼女は無事だろうか。一人で怖がっているのではないか。

考えれば考えるほど、自分でも驚くほど全身の力を使って走り抜けた。


渋谷。

交差点の真ん中で彼女は一人青ざめた顔で立っていた。

吸い込まれていく109や渋谷の駅などの光景は本当に現実のものとは思えなかった。


「朱里!」


半壊した交差点を飛び越えて彼女のもとへ向かう。

着地に失敗して膝を擦りむいたがそんなことはどうでもよかった。

彼女に会うな否や反射的に強く抱きしめた。

身体に触れて初めてわかった。震えている。いつも何事にも動じなかった彼女がひどく震えていた。

東京の地面は容赦なく大きな振動と空に浮かび始めていた。

もはやどうすることもできない。

ただ強く彼女を抱きしめるほか、できることなどなにもなかった。


「いやだ、行きたくない。怖い。行きたくない。」


抱きしめていた彼女の腕が同様に僕の体をぎゅっと抱きしめた時、震えながら彼女はそうつぶやいた。

渋谷に描いた青い鷹が形を崩さずにそのまま宙に吸い込まれていく。

本当に空を飛んでいるようで美しかった。


「大丈夫。どこに行ってもずっと一緒だから。」


そう言葉をかけた瞬間、彼女は僕の肩に顔をうずめて何も言わなくなった。

少しずつ、肩が湿っていく。

ついに僕らの立っている地面が浮きはじめ、初めて宙を舞った。

これからどこへ向かうのだろう。

不思議と怖くはなかった。

高い場所からみた東京は妙に規則正しい碁盤のような地形で、形が崩れるのが惜しいほど綺麗だった。

やばい。段々と意識が遠のいていく。

眠るような感覚だ。

いくら我慢しようとてもすぐにそちらに連れ去られてしまう。

でも、よかった。無理して生きようとしていたあの時よりも今はだいぶマシだ。

結局人生に意味なんてなかった。

自分で作ろうとする以外は。

眠るように意識が途切れる。

朝起きたら世界は終わっているだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神様の忘れ者 天川累 @huujinseima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る