十五ノ環・環の婚礼6

「えげつない子どもの喧嘩だな。少しは遠慮しろっての」

「遠慮しないから子どもなんだ。ジェノキス、防御壁の範囲を広げろ。でないと人間界だけでなく、精霊界にも衝撃が広がるぞ」

「やってますってっ」


 フェルベオの命令にジェノキスが魔力を高めます。

 二人の子どもの殴り合いは全身全霊。手加減や影響を考慮する理性もないまま、全力で力をぶつけ合っているのです。


「二人ともやめてください! お願いですから!」


 何度も声を張り上げるのに、二人の耳には届かない。

 そうしている間にも二人の顔は赤く腫れて、切れた唇は血が滲んでいます。


「いい加減にしてください! ゼロス、ィ、っ、うぅ……」


 言葉に、詰まりました。

 私は今、たしかに男の子の名前を叫ぼうとしました。

 でも、できないのです。

 どうしても、名前が、でてこない。


「あ、ぅ……、っ」


 口を手で覆う。

 名前を呼びたいですっ。大きな声で、〇〇〇の名前を!!


「いったい、どうしてっ……!」


 唇を噛みしめる。

 涙が溢れて止まりませんでした。


「ブレイラ」


 男に名を呼ばれました。

 掴まれていた腕を引き寄せられ、優しく、でも強く抱きしめられる。


「泣くな」

「っ、……好きで、泣いているわけじゃ、ありませんっ。止まらないんです、ぅ、……くるしくて、くるしくてっ……」


 悔しくて、悔しくて堪りませんでした。

 こんなに苦しいのに、どうしても思い出せない。

 今、あの男の子を思い出さなければならない気がするのに、どうしても思い出せないのです。

 思い出したいのに、答えはすぐそこにある気がするのにっ。気がおかしくなってしまいそう。

 抱きしめられた腕の中で男を見上げました。

 あなたの名前はなんですか?

 あなたは誰ですか? 私にとって、あなたは。


「……名前を、教えてくださいっ。もう一度っ……」

「ハウストだ」

「っ、ハ、……っ、もう一度だけ……っ」

「ハウストだ」

「……ハ、……ス、っ……うぅ」


 名前が、どうしても出てきません。

 耳に入った途端に抜け落ちていくのです。

 抱きしめられながら男の胸板に手を置きました。

 とても居心地が良い場所です。名前すら呼べないのに、男の両腕はとても優しいのです。

 ここにいることが許されたらきっと幸せでしょう。

 でも、私は何も思い出せない。名前すら呼べない。


「……もう、いいです。ごめんなさい……」


 抱きしめられながら力無く俯きました。

 男の胸板に置いていた手を下げる。ここは、縋ってはならない場所です。

 でも男は、そんな私を抱きしめたまま顔をあげる。

 そして戦っている二人の子ども、いえ黒髪の男の子を見上げて声を張り上げます。


「イスラ、聞け!! お前にブレイラを返すぞ!!!!」

「あなた……」


 突然のそれに目を丸める。

 男は私に視線を戻して優しく笑いかけてくれました。


「ブレイラ、心配するな。お前はもうすぐ思い出す。思い出したらイスラを甘やかしてやってくれ。あれは、お前のいない寂しさにずっと耐えていた」


 男はそう言うと私の左手を取りました。

 包み込むように手を握られながら、男が取り出したのは一つの指輪。男と同じ瞳の色、鳶色の石の指輪でした。


「それは……」

「まさかこんな形で環の指輪を贈ることになるとは思わなかった。お前に喜んでもらえる演出も少しは考えていたというのに台無しだ」


 男は冗談めかして言いました。

 でも私を見つめる眼差しは真摯で、心も、体も飲み込まれてしまいそうです。

 そして、ゆっくりと左手の薬指に指輪が嵌められる。


 ――――――!!!!


 瞬間、頭に記憶の光景が激流のように流れ込んできました。


「っ、う……」


 頭が痛くなるほどのそれに膝から崩れ落ちそうになります。

 でも男が、いいえ、ハウストが支えてくれる。


「ハウ、スト……っ、ハウストっ。ハウスト!!」


 何度も名前を呼んで抱き着きました。

 ハウストです。この男はハウスト。私が心から愛している人です。


「ああ、俺だ。イスラの次は是非俺も甘やかしてくれ。俺もお前に名を呼ばれない寂しさに耐えたぞ?」

「ばかなことを……」


 言い返した声が震えました。

 ハウストが涙で滲んでよく見えません。


「……ハウスト、あなたのことを自分で思い出せなくて、ごめんなさい」

「謝るな。それより愛していると言ってくれ。その方が嬉しい」

「愛しています。ずっと」

「俺もだ。これでお前は俺の妃になった」


 そう言ってハウストが私の手を取りました。

 左手薬指に環の指輪。

 ハウストの力の一部が私を守ってくれている。


「ありがとうございます。ほんとうにっ」


 私は環の指輪を見つめ、ハウストへ視線を戻す。

 そして頷きました。

 今、ハウストが私に環の指輪を贈ることで、どれほどの決断をしたか分かります。

 魔王である彼に罪深い決断をさせてしまいました。

 でも今は、この決断をしたハウストの意を汲まなくてはなりません。

 私は戦っているイスラとゼロスを見ました。これはもはや王と王の高尚な戦闘ではありませんね、殴り合いの喧嘩。ただ怒りをぶつけあっているだけの喧嘩です。

 恐ろしい力です。ただの喧嘩なのに、大地を割り、大気が震撼している。

 私はハウストから離れ、イスラとゼロスに一歩、また一歩と近づきます。

 イスラとゼロスが互いに殴り合うたびに衝撃波が広がる。本当なら私など容易く飛ばされて、近づくこともできなかったはずです。

 でも今は環の指輪を嵌めて魔界の王妃になったことで、ハウストの力が私を守ってくれているのです。

 ガッ! ゴッ! ドゴッ!

 凄まじい殴打音ですね。とても痛そうです。

 互いに取っ組み合って、殴り合っている。イスラがゼロスに馬乗りになって傷だらけの拳を振り上げました。


「――――いけませんよ、イスラ」


 パシリッ。

 背後から傷だらけの小さな拳を両手で包みました。

 イスラの肩がピクリッと反応する。

 おそるおそる振り返ったイスラに胸が痛い。振り返ったイスラの瞳が怯えているのです。

 ごめんなさいと泣きたくなったけれど、今はいつものようにそっと笑いかけます。


「イスラ、とても心配していたんです」

「ブレイラ……、も、もしかしてっ……」

「あなたに、会いたかったっ。会いたかったです、イスラ!」

「ブレイラーー!!」


 イスラが力いっぱい抱き着いてきました。

 ぎゅっとしがみ付くイスラの小さな体。

 あなたが私の子どもです。ずっと一緒にいると約束しましたね。

 イスラの名前を呼べて、抱きしめることができて、涙が溢れてきました。


「イスラ、ぅっ、イスラ、傷つけてごめんなさいっ。ごめんなさい、イスラっ……」

「うわあああああん! ブレイラああああ!! うわああああああん!!!!」


 イスラが大きな声で泣きじゃくります。

 それは傷ついた心を吐き出すかのような泣き声でした。


「イスラ、今は泣いてもいいですよ。私が全部拭いてあげます」


 ハンカチを取り出し、イスラの涙を拭ってあげます。

 次から次に溢れる大粒の涙。ハンカチはあっという間にびしょ濡れですね。でも構いません。


「チーンは?」

「チーンっ!」

「上手にできましたね」

「うぅっ、オレは、じょうずだ、……ひっく」


 本当は知っているんです。あなた、本当は自分で鼻をかめますよね?

 でも気付かない振りをして、いい子いい子と頭を撫でてあげました。

 私はイスラを抱きしめたままゼロスを見つめます。

 ゼロスは愕然とした顔で私とイスラを見ていました。


「……やっと、やっと、てにいれたと、おもったのにっ……」


 傷ついた瞳、傷ついた体。ゼロスが震える声で嘆きました。

 胸が切なくなるほどの悲哀を誘うそれ。

 ゼロスが背負っているものがなにか、今なら少しだけ分かります。この世界の大地が私に見せてくれました。


「なんでっ、どうして……!」


 嘆くゼロスの体が変化していく。

 子どもの姿から本来の青年の姿へと。

 それは冥界の大地が見せてくれた青年の姿。ゼロスの時間は、閉ざされた世界の中で停まっているのです。

 堪らなくなって私はイスラを抱きしめたままゼロスに手を伸ばす。


「――――母君、それ以上は下がっていてもらおう」


 背後から制止されました。フェルベオです。

 振り返ると、ハウストとジェノキスも背後に立っていました。

 ハウストとフェルベオがゼロスを囲むようにして立つ。

 抱き締めていたイスラも「ブレイラはまってろ」と私からゆっくり離れます。そして二人と同じようにゼロスを囲む位置に立ちました。

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