十五ノ環・環の婚礼2

「空を見てください」

「空?」

「はい。この空、狭くなっていると思いませんか? 毎日、少しずつ小さくなっている気がするんです」


 そう言って男を見つめる。

 胸のうちを吐露しても笑われないでしょうか。

 最近ずっと感じている不安があります。確信はないけれど、ここは不思議な世界です。

 怖いのです。この世界はとても平穏で、幸福に満ちている。このままこの平穏に閉じ込められてしまうのではないかと。


「……聞いてほしいことがあります」

「聞いてほしいこと?」

「はい。……その、変な話しをしますが、……笑わないで聞いてくださいね?」

「お前が話してくれることを俺が笑うわけがない」


 躊躇っている私に男は優しく笑いかけてくれました。

 その反応にほっと安心します。


「……この世界は、人間界ではないのではないですか?」

「ブレイラ……」


 男は驚いたように目を見張る。

 視線が落ちそうになりましたが、笑わないと言ってくれた男の言葉を信じます。


「私はこの世界を知っているようで、知らなくて……。私の中で、何かが抜け落ちているような気がするんです」


 そこまで言って男をまっすぐに見つめる。


「……あなたは、誰ですか?」


 おかしいですね。視界が涙で滲みました。

 私は男を知っているはずです。でも分からないのです。名前を聞いても、すぐに抜け落ちてしまう。

 この世界は分からないことだらけで、不安だけが膨らんでいく。この気持ちはゼロスに打ち明けられないものでした。


「ブレイラ」


 男に抱きしめられました。

 でも、昨日のように引き剥がしたいとは思いません。

 男の鍛えられた胸板に両手を置いて、そっと擦り寄りました。

 腕の中に収まった私を男がきつく抱きしめてくれます。

 不思議です。昨日出会ったばかりなのに、とても安心できました。不安だった心が緩やかに凪いていく。


「こんな話し、突然してしまってすみませんでした。子どもと一緒に暮らしているんですが、小さな子にこんな話しはできなくて、ずっと悩んでいたんです」


 そう言って腕の中で顔を上げました。

 目が合った男に小さく笑いかける。


「誰にも相談できなかったので、聞いてもらって少し落ち着きました」

「ずっと悩んでいたのか。怖かっただろう」

「大丈夫です。ゼロスが一緒にいてくれます」

「ゼロス……」


 男が僅かに苦い顔になりました。

 子どもがいたことを秘密にしていた訳ではありませんが、もっと早く話すべきだったでしょうか。

 でも、ゼロスは私の大切な子どもです。いいえ、本当は私の子どもではないかもしれないけれど、ずっと一緒にいようと約束した子どもです。


「……良かったら、今度会ってみませんか? ゼロスといって、とてもお利口な子どもです。いい子ですよ?」

「いい子、か……」

「はい、優しい子です。きっと、あなたも好きになりますよ?」

「……覚えておこう」


 男はそれだけを言うと、私をやんわりと抱きしめてくれました。

 男の胸板にそっと頬を寄せて目を閉じる。

 気持ちいいです。他人との接触なんて不快なだけなのに、不思議と心地いいのです。


「ブレイラ」

「なんでしょうか」


 ゆるりと顔をあげると、呼吸が届くような近い距離で目が合いました。

 男の手が私の頬に添えられて親指で唇をなぞられる。

 真摯な面差しで、私をじっと見つめています。

 もしかして今、私に口付けしようとしているのでしょうか。


「……拒絶してもいいぞ?」

「いいのですか?」

「無理やり口付けて嫌われるのは困る」

「あなたが、困るのですか?」


 驚きました。そういうの気にしないタイプかと思ったので。

 とても優しくしてくれますが、突然口付けてきたじゃないですか。


「昨日は突然でしたよね」

「お前に会えて嬉しかったんだ。我慢できなかった」

「やっぱり、そうなんですね。あなたは私を知っている。私が、あなたを忘れてしまっているのですね……」


 視界が滲んでいきます。

 胸が痛いです。名前を呼べないことが、こんなに苦しいなんて。


「……あなたの、名前を教えてください」


 問いかける声が震えました。

 聞くのが怖いです。きっとまた抜け落ちてしまう。


「ハウストだ」

「ハ、……っ」


 唇を噛みしめる。

 声に出して名前を呼びたいです。でも、声に出そうとした途端に抜け落ちてしまう。


「もう一度、もう一度教えてくださいっ……」

「ハウストだ」

「っ、……ぅっ、もう一度……っ」

「ハウスト」

「もう一度、お願い、します……っ」

「ハウスト」

「ハ、ぅ……ッ」


 名前が出てきません。

 呼びたいのに、どうしても抜け落ちてしまいます。


「ブレイラ、今は無理をするな」


 首を横に振りました。

 それでは駄目なのです。

 男に手を伸ばし、その輪郭を指でなぞりました。

 涙で滲んだ視界のまま男を睨む。


「……私は名前も知らない相手に口付けられるのですか? 私は、そんなふしだらな人間ではありません」

「大丈夫だ。俺がお前を知っている」


 男は穏やかに笑ってそう言うと、私の唇を塞ぎました。

 二度目の口付けに胸が苦しいほど一杯になります。

 近い距離で見つめあったまま、何度も何度も口付けを交わし合う。

 本当は目を閉じるのが礼儀なんですよね。でも目を閉じるのが怖いのです。

 唇を離してからも、体温を感じる距離から離れたくありません。

 抱きしめられたまま男を見つめる。


「あなたの名前を知りたいです」

「俺もお前に名前を呼ばれたい」

「いつか、呼べるでしょうか」

「必ず」


 男が私の濡れた目元に口付ける。

 私を見つめたまま男は優しく笑んでくれました。





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